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服従と誤謬の間 [プログレ]

 扨て、今回もプログレ三昧3に向けての個人的希望的観測を含めた内容にて繰り広げて参りたいと思うのでありますが、これ迄の2回のプログレ三昧で圧倒的に少なかったのは、レコメン系の楽曲であるのは、プログレ・ファンの方なら、先の私が語っていたクリムゾンの「Red」と同様亦はそれ以上に痛感していた事なのではないかと信じてやみません。


 因みに「レコメン系とは何ぞや!?」という事から掘り下げてレコメンドするような事は私のブログ記事上で繰り広げることはしませんので、そのジャンルやら人脈相関関係などは相応しい所で知っていただきたいと思わんばかりでありますが、プログレという音楽ジャンルに興味を抱いているからといって総じてそれらの人々がプログレ関連を広汎に亙って知っているのかというと全く逆とも言えるでしょう。ジャンルの幅が余りに広いために、辺境モノなどをも求めて見聞を蓄積しようとするだけでさらにそこから枝葉が分岐することになるので、知識の物量が殖えるにしたがってそれらの蓄積が止むことなく常に探究を続けてしまう様な側面があるかもしれません。広範なジャンルを扱うと得てしてこういう風になってしまうものです。


 しかし多くの音楽への知識の物量に対して、単なるリスナーが負い目を感じる必要など本当は不必要な欲求なのであります。なぜかと言えば、曲を作る亦は演奏するという器楽的な方面で生業とする人の知識のそれとは別として、知識量をリスナー同士が張り合う様な風潮が出来てしまった背景は、「所有欲」が源になってしまったからなのでありますね。音楽を嗜む欲望の対価が聴くことではなく所有する事に置き換わっている人は意外にも多く、先ずはこうした点を論い乍ら今回はレコメン系の話題を触れるコトにします。

 扨て、所有欲という物へ欲求のべクトルが向く原因は何なのか!?というと、それは録音メディアの一般的普及に端を発するワケで、つまるところレコード、CDや配信物というのがそれです。因みにメディアとして配信物を一番最後に順序立てて列挙した事で、それが一番新しい形態だと思われるかもしれませんが、今から100年位前の電話の発達期のセレブな人々は、電話でクラシック音楽を聴くことが出来るサービスがあったのでありまして、電話で音楽を聴く、という有線での配信は古くからあったのでありますね。但し、それを録音できるという所まではなかなか進まず、テープレコーダーという物の普及を待つこととなるのであります。


 つまり、録音媒体が無い時代に於ては、録音物を放送・配信をすることで「同一性」(=演奏の同一性)のある音楽を初めて得られる以外には、他の音楽の聴き方は、作品こそ同じプログラムであっても一期一会という、その場限りの音というのが嘗ての音楽への受容であり、ある程度の変化を許容しつつ楽譜こそが原型でもあったりしたワケですね。それこそセレブがパトロンとなっていれば、宮廷に大作曲家や奏者を招いてその場で演奏を耳にする事もできたでしょうし、音楽が一般的に広く普及する事になるのはやはり昔も今もピアノが貢献していたのであったのです。


 音楽を嗜むという視点をこのように見るだけでも昔と今では大きく變るのに、実は「聴き手」としての立場はそれ程変化していないのが実状なのでありまして、単なる「聴き手」という人達は常に「無責任」であり、無責任であっても構わないのでありますが、責任を伴うと自身の耽溺の源泉を自己否定することに繋がるので、責任を伴う聴き方をするという事は、根幹の知識を得ない事には決して得られない立ち居振る舞いでもあるワケです。では、聴き手の「無責任」と「自己否定」という両者のポジションについて少し語るとしましょうか。


 音楽など、プログレというジャンルなど区別なく聴く際に、単なるリスナーは、自身の欲求の赴くままに耳にして構わない物なのでありますが、耳にする音楽への喜びを他者に伝達する時点で本当は責任が伴うものなのですが、無責任同士の集合であれば責任を伴わないので判断と伝達が楽になります。また、自身の欲求が齎す解釈の度合も他者と大きく乖離しているわけでもないので、自己にも他者にも甘い判断の中で、自分が常に心地良く居られればそれで十分なのでありまして、これが「無責任」であり「無責任」を保ってイイという見解です。但し、こういう人達に共通しているのは、音楽の楽理的側面やら音楽を組成する深部の方へ考えを及ばそうとする人はかなり少数になります。寧ろそういう側面を理解できるのは深い器楽的経験や楽理的知識を必要としたりするので、その時点で単なる聴き手という振る舞いでもありません。

 一般的な聴き手が楽理的な方面にある程度の知識はあっても、自身の欲求を手向ける様にしてまで楽理的側面やらに探究の力を注がない理由は、自分自身が快楽を得る源泉とやらが根幹を知る事で快楽を阻害させられる恐れを無意識に防衛しているからなのであります。これは、さしたる理由も無しに音楽理論を勉強しようとすると却って自分を閉じ込めてしまうと尻込みするのと全く同じ感情の起りに端を発するものでありまして、自分自身の快楽の源泉を分析してまで露にした時、それが本当は異なる處に起因するものだと気付かされる事で自己否定に遭遇してしまうことを恐れるが故の防衛手段なのでありますね。快い事への妨げというのは大抵保守的になるモノで、快楽方面を器楽的な経験や楽理的経験によって作り上げられる人であれば臆することなくそうした世界へ跳び込み、自分自身の感情を否定しようとしてまで音楽を探究したりする人も居るくらいなのでありますね。

 つまり、聴き手が聴き手としてだけで十分な場合の音楽の捉え方と、私の様な楽理的側面を洗いざらい語ってしまうタイプの人間というのは、実は搗ち合うのでもありますね。

 先の様な事はプログレというジャンルでなくとも当て嵌る事なのですが、どちらかというとリスナー側が自分達の箔付けや価値を高める時に多用する手法だったりするので、そうした人達が必要以上に持ち上げようとする聖域化・偶像化されてしまうような対象となる音楽は総じて同様の事が言えるモノでして、プレミアム感がつきまとう物というのは特に、先述のような根拠の無い所から偶像化されて勝手に価値を高めようとするのはジャズやクラシックというジャンルでは特に多いものでして、特にポピュラー音楽に於てもプログレやら現今の世代からは少し乖離しているクラシカル系のロックやらフォークやらというジャンルは往々にしてそういう風にして「不必要」な程の価値を与えられてしまい、器楽的・楽理的側面の凄さよりもうわべだけの価値が独り歩きしてしまう傾向があるのですね。

 そうした前述のジャンル以外ではアイドル物やサブカル系コンテンツともなったりするワケでもありますが、サブカル系などのそれは或る意味ではそれ等の価値を他のジャンルの誇大な箔付けと比較すれば、皮肉にも等身大に受け止めている所があるかもしれません。


 数ヶ月前にも、Yesの「ラウンドアバウト」を引き合いに、よもや40年以上も前のプログレ音楽が現今にも甦っているという事実は、プログレというジャンルに於いて殆ど多くの人がスタートラインとするような人達が今も風化されない音楽性が今も評価されているから他ならないのでありましょうが、Yesやキング・クリムゾンやら他の有名どころ以外のプログレとなると途端に尻込みしてしまうような人が多いのは、先述の様な、器楽的・楽理的側面への魅力とやらが「難解さ」に包まれてしまってフツーのリスナーに見えなくなってしまっていることが要因として挙げられるでありましょう。

 そうした魅力を見えなくしてしまったままに理解しようとしても理解に及ばなくなるのは至極当然の事でありまして、それでも尚単なるリスナーというポジションに甘んじて音楽を聴こうとする人は、それ以上プログレやら他の難解な音楽を好き好んで聴こうとはしなくなるでしょう。言い換えるなら、そこへ更に自分自身への快楽を見付けようとする欲求の起りが現れる事を誇りに思え、という事を私は冒頭で述べていた事なのでありますね。別にそれがプログレという音楽だけに限ったことではないのですが、高次な方面を要求される音楽には、更なる快楽の要素を見つけてナンボなのだと言いたいワケなのですね。


 そうした冒険心が稀薄な人というのは、失敗、浪費を恐れるのでありますが、それ以上に自分自身の価値を低められる事が嫌なので跳び込まないのが起因しているのであります。心理学的な要素から生じてしまっている事なんですね、ホントは。


 どのみち難しく聴こえる音を、自分主体だけで保守的に聴こうとせずに、耳に訪れる音に対して純粋に、更に価値を高められる動機を見付ければそれだけで音楽の捉え方はスケールアップして更に面白く聴く事が出来るようになるワケです。態々難しい音楽を自発的に聴こうとするチャンスをみすみす尻込みして逃す必要はないのであります。難しい音楽の「聴き處」さえ見付けられれば、何時迄も嗜む事が出来るワケですね。ただでさえ長い曲の凡ての音をも脳に刻み込む程聴くようになるワケですよ(笑)。

 こういう純朴な欲求の訪れを阻害してしまいかねないのが、こうした方面の先人達の所蔵物やら音楽とは本来無縁の處の人脈相関関係やらの知識を誇大的にアピールする人達。この人達はこの人達で、ある程度器楽的な習熟が止まってしまって別の方面で自身の嗜好するジャンルを更に価値を高めようとする處に端を発するモノでありまして、往々にしてここにはゼニが絡む様にもなります(笑)。

 作曲した人達と同様に器楽的・楽理的側面の解釈はない儘に、単純に自分の得意とするジャンルを必要以上に喧伝してそれで一儲け企むってぇのは、私から言わせれば他人の褌で相撲を取るのと一緒ですわ。ところが他人のフンドシで相撲を取るクセして、他人のトイレット・ペーパーで尻拭おうとはしないのですね(笑)。但し一儲け企んでいる人も純粋に心の底から楽しむ時は、本来以上の力が発揮される筈なんですね。楽理的・器楽的な知識はなくとも史実的・相関関係の類の知識は厖大だったりするワケですから。銭ゲバとなってしまうと、そうした知識が泉の様に湧き出ることが無くなって仕舞うワケですね。

 こういう處に気を付け乍ら、既知のプログレ方面に埋もれる事無く、今迄あまり取り上げられて来なかった方面にもあらためて脚光を浴びる様になればとても喜ばしいことであります。


 これまでの事を端的に言い換えれば、耳に聞こえて来る音を自分可愛さで選り好みをしない事が「服従」であり、自分自身の私利私欲や知識の源泉を競おうとするあまりに誇大に喧伝してしまう事は往々にして「誤謬」を招きます。誤謬に服従するようになっちまったら、他人のケツ拭いた紙で顔を拭う様な愚かな行為をするようなモンですわ(笑)。
 或る意味では、私が楽理的・器楽的側面の見聞をまぶすのは誤謬に成らぬ為の自己防衛策でもあるのです。處がネット社会では多大な誤謬が蔓延してしまっているのも事実。態と誤謬を吹聴したりする輩もおりますし。こうした邪魔な物に屈することなく、適切な判断で耽溺に浸ることが出来るようにレコメン系をレコメンドしたいと思うワケでありますね。奇しくも聴き手が聴き手である為の音楽の捉え方という自己愛から生ずる偏重的な心理面の分析もヒンデミットは自著「作曲家の世界」冒頭でも取り上げている事でして、私の今回のそれも敬愛するヒンデミットに倣ったモノです(笑)。

 扨てレコメン系というのは、そもそものスタートがレコメン系として存在していたのではなく、元は初期ヴァージン・レーベルに端を発しています。それに関する歴史や人脈相関関係などは敢えて此処では述べませんが、レコメン系の最たる特徴は、楽句を構成する為の脈絡が非常に難解に構築されていたりする處だったりします。

 例えばプログレという音楽ジャンルで真っ先に難解な点を挙げるとすれば多くの人は「律動」方面の難解さを挙げる事でありましょう。拍子構造やらに当り前の様に難解さを生じます。

 言葉という物は、それ単体で使った時に律動方面から見た時の一定の「パルス」を生じてしまっています。日本語の場合ならもっとそれが明確に現れパルスは音節化されて原稿用紙にベタ組みで書を書き上げるかのように構築されていますが、楽音を少し高次に考える時、このパルスの束縛から態と逃れようとして言葉やリズムを充てるコトがあります。それは通常シンコペーションとして現れる事もあれば、周囲は強固に四拍子を刻み乍ら、自分だけが7/8拍子によるパルスを刻んでいたり、または7/8拍子という拍子構造の中で4拍子の二拍三連を拍節を超越して迄持続させたり、色んな手法があるかと思いますが、共通している所は、定型的な呪縛から逃れようとする拘りが音として表現されているが故の楽音なのでありますね。

 
 律動という側面から見てもこうなのですから、旋律的にも和声的にもそうした呪縛から解放されるかの様に世界観を構築していけば、音樂的にはとても高次で壮大なモノに変化するモノであります。ですから、その語法は、新鮮さを通り越した程の異次元感覚すら覚える人も居るでありましょうし、推察に容易い音楽に満足しきれない人の快楽の為の音楽であるのかもしれません。簡単な脈絡をそのまま素直に受け止めて快楽を維持したいという人はそこで安堵するため、高次な表現を用いた語法を汲み取ることと乖離するワケであります。

 とはいえ、レコメン系というのはプログレの中にあってもそうした難解さに拍車を掛けている事が多いモノであります。特に、レコメン系を代表するヘンリー・カウ人脈には最も注力すべき人達でありましょうが、最たる中心人物がフレッド・フリスというギタリスト。近年のNHK絡みで言えば、伊勢谷友介演じるドラマ白洲次郎にてサントラを大友良英が手掛けましたが、その中にフリスをゲストに招いた曲があったモノでありました。
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 フレッド・フリスはケンブリッジ大学の出である為、楽理的な面はおそらく相当な知識があるのは容易に推察に及びます。その理由は次の通りですが、英国では王立音楽院(RAM)と王立音楽大学(RCM)は主に技巧面を磨く為に発展して来た学校で、他方ケンブリッジ大学は楽理面を磨く音楽学校として発展して来た背景があります。プログレ界ならジェントル・ジャイアントのケリー・ミネアーが「王立音楽院」の出で、一方リック・ウェイクマンは「王立音楽大学」の出でありまして、プログレ界の中にあってもその才能を賞讃される経歴を持つそれらのアーティスト及び学校の名は知れ渡っているモノですが、プログレ界を知るに当って、先の両者の出身校を混同してはならない大前提の知識であったりもするのでトリビアとして知っていただきたいと思うことしきりです。結構混同している人は多いのであらためて此処に記しておきます(笑)。その一方、ケンブリッジ大学の楽理面の崇高さを忘れてはならないモノであります。楽理関連のケンブリッジ大出版物も目にした事が多いのではないかと思います。

 王立音楽大学はカンタベリー大聖堂にも関わりが深い学校でありますが、それは学校創設時にカンタベリー大僧正を迎えたからでもありますが、こうした史実は私が語る事ではないと思うので此処で留めておきますが、まあ、こうした知識があれば後にプログレ方面で混乱を招かないと思いますので念頭に置いていただければ幸いです。

 というワケで長くなってきたので、次回はヘンリー・カウ人脈を中心に、その楽理的側面にある鏡像音程、均斉化和音、複調、トーン・クラスター、微分音など色んな方面を語る事にしましょう。

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