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プログレから学ぶ、拍子と律動とパルス [プログレ]

 扨て今回は、所謂カンタベリー系にも分類される、デイヴ・スチュワートが在籍したバンド「エッグ」の2ndアルバム「The Polite Force」(=邦題『優雅な軍隊』)収録の「A Visit To Newport Hospital」について語って行こうかと思います。
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 後年のイット・バイツの「イエロー・クリスチャン」とか、結構インスパイアされている部分もあったりして、クラシカルな方面ばかりではない和声感覚を忍ばせたりする事で、その後のバンドに多大なるヒントを与えている事が多いと痛感するアルバムでもあります。そうした方面は後に詳述することにしますが、こうして今回「A Visit To Newport Hospital」を取り上げるのは、この曲想というのが、現今の音楽に於てそれこそヘヴィ・ロックや近年のハーフ・タイム系の拍節感を以てヘヴィネスを強調するメタル系の音楽にも近しい類似性を投影できるかの様なヒントを示唆し乍らも、高次な和音と旋法面での彩りの与え方など大変豊かな例として挙げる事のできる好材料ですのでこうして語ることにしたのであります。


 CDというメディアが根付く様になるのは88年位の頃からで、丁度今から四半世紀前という事になるのですが、消費税も未だ無かった時代に漸く「変遷」を目の当たりにする事になるのですが、とはいえ、まだまだ知名度の低いアルバムがCD化される様には整備されておらず、結局はレコードを手にして、レコード盤への保護という配慮が加わって、レコードを手に入れたらカセット・テープへ録音して、それを有り難く拝聴するという作業など何不自由無く取扱っていた時代において、おいそれと希少なアルバムがCD化されることなどそうそう望んでもいなかったモノでしたが、90年代に入ってそれから年を経て今から20年以上前に、先の「優雅な軍隊」はCD化されることとなった譯で、大変有り難かったモノです。この時期位にほんの一部のマニアの間ではカンタベリー再認識という潮流が起る萌芽を確認することもあったのでありますが、世はアナクロニカルな音が流行するので、プログレ界に於てもそうした再認識に伴って他のシーンとは少し異なるアナクロニカルな動きが出て参ります。キャラヴァンが主体ではあった様にも記憶していますが。


 扨て、「A Visit To Newport Hospital」は、ファズを効かせたトーン・ホイール・ジェネレーターと飽和感のあるスプリング・リバーブと思しき音に加え、ダーク・モント・キャンベルとのヘヴィネスさを伴う「絡み」で始まるそれが、まさに現今のヘヴィ・ロックにも通ずる音でもあり、今でも十分に説得力のある音であります。古さを全く感じさせないのが素晴しいです。それがex.1の譜例に見られるリズムであります。
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 エッグに限らずプログレ音楽シーンというのは、律動方面には特に「複雑」という事が誰にでも認識可能な線で構築されている事は珍しいことではありませんが、耳にする音や律動が奇を衒った動きばかりではなく、実は「陰に潜んだ」予期せぬリズム感を認識せざるを得ないような、一瞬テンポ・チェンジにも聴こえる様な小難しい事をやってのける事もあります。リズム面というのは和声的な側面と比較して比較的容易に語る事が出来るので、あらためて語ろうとする處であります。


 それで、今度はex.2を見ると、CDタイムで言う0:59直前のビート・チェンジの前の4/4拍子2小節を表わしていますが、その2小節部分の2小節目には「Pulse」という風に鈎を付けた注釈を与えていて、このパルスとやらは然も薄いグレーで2拍3連を「暗に」記載しておりまして、先ずはこの解説をすることにしましょう。
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※ブログ公開当初から、文中にある誤った「1拍3連」という語句からそのまま楽譜を作ってしまい誤ったパルス表記を用いて譜例にしておりました。2拍3連のパルスが正しいので、あらためて譜例画像及び文章を訂正させていただきました。

 原曲を聴けば自ずと判る事ですが、この譜例でグレーで示した2拍3連の「パルス」とやらは実演で耳にすることは不可能です(笑)。しかし、この2拍3連のパルスをイメージしていないと、直後のビート・チェンジに移行するビートに当てずっぽうなリズムの当てはめで考えてしまうコトになりかねません。それを防ぐには、直前の小節で2拍3連のパルスを想起して、そのパルスの感覚が、次の小節での八分音符のパルスと等しくなる様なビート・チェンジとして扱っているワケです。

 つまり、ビート・チェンジ前の2拍3連に依る3つのパルスは、ビート・チェンジ後の8分音符3つ分のパルスと等しくなるに奏すれば良いのであります。つまり、前の四分3連音符の3つのパルス=後の付点四分音符の音価と等しいことになるのですが、前の小節では2拍3連のパルスを感じていないと、その3つ分のパルスを次の八分音符3つ分のパルスに当てはめることが少々困難になるので、3連符を想起しないままに当てずっぽうにビート・チェンジをしない處が肝要なのでありますね。

 このような「パルス」の實感を要するのに必須プログレ曲というのは、以前にも私が取り上げたジェントル・ジャイアント(以下GG)の3rdアルバム「Three Friends」収録の「Schooldays」ですね。当時の記事では、敢えて「パルス」という語句を用いていないのは、パルスという現今の日本の音楽社会での受容を論ずるテーマを回避していた事もあり語っていない訳ですが、私の知る限り、今でも日本の音楽書の類でパルスという語句をきちんと取扱っているのはヤマハミュージックメディア刊の「音楽の不思議を解く」位でしか語られていないのではないかと思います。
 
 しかしこの著書は音楽を広汎に亘って語る側面は実に良いのでありますが、純正律という、真正な「うなり」の無い音程のそれに対しての表現は、主観的な表現で述べられ、「きれいなハーモニー」と表現し、平均律においては「最大の欠点」とまで言い切っている表現に対して私自身はどうも腑に落ちない處があります。うなりが僅かにある音程でも美しいのではないのか!?というのが私の率直な疑問であり、うなりの無いことは調弦に於て器楽的に必要な「ひとつの」事象ではあるものの、聴覚における旋律面と和声面で必ずしもうなりを消失することを是とするのは私自身は誤りだと思っています。

 しかも、平均律の最大の欠点とまで言い切るその表現の対称的なポジションである純正律とやらが最大の長所とはとても思えないのでありますな。純正律とは、器楽的な側面での調弦には必要な志向ではあるものの、これとて複数の調弦に於てはゆくゆくはシントニック・コンマを生じさせてしまう欠点を具えた音律でもあります。純正律というのは「絶対完全音程」(=完全一度と完全八度)つまりユニゾンかオクターヴにおいてでしか必要とされていないのが実態であるにも拘らず、あらゆる音程に於て綺麗に響くなどと盲信させてはいけないと思うわけですが、これに疑問を抱かない読み手にも責任はあるかもしれません(笑)。
※一部の弦楽奏者からすれば「大全音だろうか小全音だろうが数多くの音律を制御する」という人も存在するでしょうし、誤解なく念を押して語りますが、「うなりのない」志向性の為の純正律とは純正律で生ずる各音程の不等さの妙を論ずることではなく、うまりの消失のためなら絶対完全音程限定となるのは必然です。そういう意味で語っていますので誤解のないように。

 こうした主観的な表現をスンナリと受け止めてしまう人が実際には大半ではあるでしょうが、前述のそれらはあくまでも各自の主観である事を肝に銘じなくてはいけない点であるにも拘らず、各自の主観を無意識下レベルに葬り去って語ってしまう著書というのは私は広く推奨したくはないので、多角的に、懐疑的にも本を「読む」事が出来る人が、独自のフィルタリング基準を設けて読むべき本であるという風に述べておきますか(笑)。


 まあGGの「Schooldays」は、八分音符5つ分のパルスを四分音符1つと捉えるビート・チェンジがあり、ビート・チェンジ後には1拍5連の各パルスを八分音符の律動として置換することで元のビートに戻る、という事を述べているので、興味のある方はブログ内検索をかけてみてお読みいただければ是幸いであります。



 話を本題に戻しエッグの「A Visit To Newport Hospital」を語りますが、ビート・チェンジ後のコード・ネームは「Fm9」なので、これはF音をルートとして短七度音を包含する旋法を示唆する和音でありますが、次の小節では想起するモードがB♭リディアンであるため、e♭音ではなくe音を使う旋法に移行している訳です。そこでC7の處でも長属七の様に振るまい乍らも短旋法と長旋法を兼ね揃えたように音を使ってメリハリを与えているのであります。つまり、B♭系列のコード群とその後のC7では、Fメロディック・マイナーをスケール・トニックとするモードのトーナリティーとして、Fm9を生じた時のモードとは異なる旋法を強要されるコトになり、曲想にメリハリを与えるコトとなります。

 嘗てルードウィヒ・トゥイレの著書「和声学」は、冒頭から短調の仕組みを詳述するのでありますが、簡単に言えば短調というのは属和音の第三音を半音上げて変化させた属和音を用いる事になるので、広く短調を見渡すと「和声的短音階」としての枠組みで世界観を構築しているという短調の仕来りの前提を語っているのでありますが、メロディック・マイナー(=旋律的短音階)の枠組みで短調を形成すると、トニック以外のドミナントとサブドミナントが長和音化してしまい短調として稀薄な世界観を形容するという事も同時に述べている處に先ずは註目する必要があります。短調という強い叙情性を打ち出すならばその稀薄性は邪魔なモノとなりますし、稀薄性を重視するならばそれも亦然りという風に理解に及ぶ必要があります。ところがトゥイレのそれは「全音階的」に、すなわち調性感が強く現れる世界観の枠組みを前提で語るので、大概の人は、稀薄性のある世界はまかりならん!として理解してしまうのであります。理論書の多くはこうした二面性を取り上げているにも拘らず、一方の明度の濃い腑に落ち易い理解の方を礼賛してしまいがちであるので、本を読む時というのは特に注意せねばならないのですが、つまり、「A Visit To Newport Hospital」では、マイナーの世界観の稀釈性とやらが稀釈性を伴わずに別の味わいを深く演出しているという事を声高に語りたい部分なのであります。


 モード・チェンジを不得手とする人というのは、「この曲のFマイナー感は常に不変なのでFナチュラル・マイナーを充てる!」とばかりに考えてしまう愚かな人達で、ペンタトニックばかりを扱っていると、問題となる音を跳び越してスキップするので、自身の理解の脆弱さをもスッ飛ばしてくれる處があり、歪曲と曲解が勝手に自分自身への否定を弱めてしまう事もあって愚か者を多数生産するものでありますが、つまり、発端となるFm9ではナチュラル・マイナーを充てるのも憚られてしまう(Fドリアンが適当)のでもありますが(笑)、短七包含のマイナー・スケールというのは総じて自然短音階だと思い込んでドリアンを用いるという発想が稀薄な為に生ずる誤った理解をする人があまりにも多いのですね。

 しかもその短七度包含は一曲に於て常に不変と思い込んでスケールを当てはめてしまう(そう考えて曲を捉える方が、馬鹿な人間からすればラク)人が居るものでして、B♭リディアンからC7までの四拍(4分の4拍子での4拍ではなく譜例通りの3+3+3+4の拍という意)の流れにおいて、先のFm9でのモード想起は変更を余儀なくされるにも拘らず、最初に当てはめたFマイナー系の音列を不変的に与えることで、B♭リディアンが必要なモードを要求されるシーンで、先のモード想起を以て、歩道の歩行者をなぎ倒す様にして車を運転するような愚行を繰り広げたりする演奏者を数多く見掛けたりする事があります(笑)。耳で聴いても異端であるにも拘らず、たったひとつ覚えた体系を別のシーンでも強制的に使おうとする為か、耳で聴こえる異端は最早マヒしてしまって、それこそが「スーパー・インポーズ」だとも思っている馬鹿共が蔓延っているのですから嘆かわしいコトです(笑)。

 B♭リディアンを示唆しているということは、Fm9で生じたA♭音がA音へと変化する世界観を想起することになります。Fマイナー感の流れを維持してくれずに突如雌雄関係にでも在りそうな逆方向のFメジャー感をも想起する様な世界観に移行させられてしまうように歩を移すのであります。處が4拍目には、それ迄の流れを逡巡するかのようにまたまたFマイナー感を強要されるかのように、旋法的には「ソファミド」(=固定ド)と下行形の音形で恰もFm9からの流れからFメロディック・マイナー・モードを示唆される音形をまざまざと見せ付けられる事に遭遇するのであります。

※私が珍しく「固定ド」で音形を明示したのは、その音形自体が幹音で示すことの出来る音群であるからで、ゆえに固定ドで「ソファミド」(g、f、e、c)という事の方が判りやすいであろうという配慮に依るモノです。


 B♭リディアン系のコード群からC7の四拍内で、直前の小節でのFマイナー感を維持しつつモード選択をきちんと当てはめるのであれば、全体的にはFメロディック・マイナー・モードを想起すればイイのですが、Cミクソリディアンを想起してしまっているとA♭音ではなくA音を見渡すようにしてしまう為、非チャーチ・モードを会得する必要性をチャーチ・モードという体系こそが凡てと盲信してしまっている連中は、ここでも正しい理解へのチャンスを見過ごす事にもなる訳ですね。


 トゥイレは、現在知られているドリアン・モード(マイナーを嘯くモード奏法)を「ドリア短調」として述べていて、これも和声方面の理論書の数々の中でも珍しい部分でもあるワケですが、つまる處先の流れはFドリアンを示唆され、Fアイオニアンに移され、Fメロディック・マイナーというスケール・トニックがF音を中心に考えた場合、これらの様に世界観が移ろう様をゆっくりなテンポでまざまざと見せ付けられる事を堪能できるワケです。

 初歩的な人の多くはC7の部分でCミクソリディアンを充てようとしてしまいます。するとCミクソリディアンで生ずる第六音はA音である為、直前のB♭リディアンからの世界観を維持したままとなり、本来ならFメロディック・マイナーをスケール・トニックとするモードを想起しなくてはならないので、メロディック・マイナーの世界観を知らないと對應できない事となり、たった一拍のやり過ごしでこれだけ重要な音世界をとりこぼしてしまう事と成る為注意が必要なのであります。


 まあ、この一連の2小節は4回繰返されて今度はex.3で見られるブリッジに移行するのでありますが、このブリッジで忍ばされているのは、メジャー7thコードのパラレル・モーションを「緩和」させて導入されている處に注意が必要です。
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 例えば、メジャー7thコードを4度進行でパラレル・モーションを施した場合、C△7を起点とするならばC△7→F△7→B♭△7→E♭△7・・・という風に延々と繰返され、それこそスティーリー・ダンやら、その他多くのAORやクロスオーバー系サウンドをも連想しがちな世界観にも似た光景を映ずる事も可能なのですが、四度進行抜きにしてもメジャー7thのパラレル・モーション(=平行移動)という事には変わりありませんが、それを「中和」しているのが先のex.3の例なのです。


 ex.3の冒頭小節B♭△7から端を発するパラレル・モーションは、本当は3小節目のE♭△7へ進行するパラレル・モーションを「緩和」させているのが2小節目のGmの出現であります。B♭△から見たGというのは、「平行関係」(パラレル・モーションとの平行移動の「平行」と、長調主体での主音とサブメディアントにある平行関係の「平行」との混同を避けるために今回は態と使い分けているので注意)にある音で、B♭という見渡しが長調の主音、つまりトニック由来と考えた場合、サブメディアント側に生ずる六度部分の音は平行調を見ることの出来る「平行関係」というのは能く知られた處でありますが、語句の「平行」というのは注釈を与えた様に注意して下さい。こうした平行関係にある音を「ワンクッション」で挟むことで、あからさまなパラレル・モーションを緩和させたように響かせている好例なのであります。

 その後のE♭△7→Fm9というのも、Fm9というのはA♭△7の平行関係にある和音でありまして、実はE♭△→A♭△7という四度進行から生ずる世界観の強い度合を緩和させているようにして使っているのであります。

 メジャー7thの四度進行に依るパラレル・モーションは次の様なex.4に見られる譜例で例に出すと顕著ですが、これをそのまんま弾けばイット・バイツの「Yellow Christian」のエンディングと同様のパラレル・モーションとなりますが、エッグの方ではその四度進行の仰々しさを回避するように使っている訳ですね。
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 その後のG♭△7の登場は四度進行を内在させたパラレル・モーションはこの時点で消失はするものの、A♭から長二度下降するパラレル・モーションという風になり、そのG♭△7自身を緩和させるかの様に平行関係にあるE♭m9を挟みつつ、G♭からの短二度下行のF△7のパラレル・モーションを直視させぬような狙いがあるのが判ります。


 今回ex.3で生ずる最初の拍子記号の与え方を態々「5/8+2/4拍子」としているのは、そのハーモニック・リズムで生ずる拍節感に起因するものであり、分数同士が足し算で示されているような混合拍子というのは、その拍子変更がされるまでは、小節順を維持して拍子変更が規則的に行われる表記なのでありまして、「5/8+2/4拍子」と表記されていれば奇数小節は5/8拍子を、偶数小節は2/4拍子を維持することを意味するので、態々淡いグレーで影の拍子記号を示しているのが私の配慮であります。

 というのも、楽譜浄書ソフト「Finale」では、このように拍子を与えても、実際の記譜や再生には順繰りに拍子記号に則った拍子構造を維持しない設計になってしまっているため、コンピューター・ソフト由来の使い勝手が正しい理論的解釈を歪めてしまっているという現今の悲哀な側面がある為、態々こうしてグレーで示しているのであります。

 「5/8+2/4拍子」という構造も、それぞれの拍子を足し算すれば9/8拍子と同じ音価を得るので拘る必要は無いのでは!?と疑問に感ずるかもしれませんが、プログレ系の譜面というのは記譜の安易な確かさばかり註目するきらいがあり、実際の拍節感や連桁の与え方を無視している心ない編集が非常に多いため、私はそれを心掛けているのです。そうした配慮ある記譜こそが、変拍子を異端な拍子と感じさせないスムーズな読譜になるので、そうしたスムーズな解釈から曲の理解度は更に増すので、敢て私はそうした處を省かずに呈示しているのであります。プログレという異端な世界観を誇張したいがあまりに、記譜そのものが読譜の為ではなく、読譜させることを拒むかのようにしてしまってはいけないと私は思います。それこそ現代譜にあるような図形的であったり三次元要素を採用するような記譜にはなりはしないのでありますから、不要な處で誇張をしてもそれは楽曲そのものに備わっている崇高さではなく、編集者側が勝手に曲解している譜面という物への「壓」を過剰に崇高に捉えてしまっている為の不要な仰々しさを誇張しているに過ぎません。こうした余計な付加価値をプログレだからといって当てはめる必要など全くなく、独自解釈を肉襦袢の様に幾つも貼付けて誇張するのは作品そのものを結果的に冒涜することにもなり、楽曲を正しく且つ深く理解したものと異なる方面へ理解を進めてしまうことになりかねません。

 先の著書にも見られるように、個人の主観を反映させてしまったり、個人の曲解と解釈が誇張を生む様であってはいけないのであります。それをそのまま聴いても十分過ぎる程の音はあるのですから、楽曲は正しく理解せねばいけません。

 仮に7/8拍子という拍子が現れたとしても、それを4拍7連として聴き取っている様な解釈をする人であるならば、凡ゆる曲解をも均質化させて俯瞰する事が可能かもしれませんが(笑)、実際の音が表わす拍子構造と、その背景に潜む別のパルスの感覚を身に付ければ先ずは十分な事であり、こうした「背景の読み」というのは律動方面からは特に知る事の多いプログレ界な訳ですから、律動方面の解釈を他人の勝手な解釈を鵜呑みにしてしまってはいけません。

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