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音を聴く欲望、それホントの目的ですかね!? [プログレ]

 扨て、亦々微分音の話題になる譯でありますが、そもそも調性感の稀薄な音楽を好むようになる迄の課程での12音の世界を体得するだけでも容易ではない處に、なぜそれよりももっと細分化された社会を理解しなければならないのか!?という疑問を抱く人も居ると思います。然し乍ら、こうした単純な疑問というのは概して自身の和声的習熟が未発達な人が抱える様なモノで、子供は簡単な事であれば理解に及ぶそれは大人と大して変らないのに、大人しか知り得ぬ事には全くの無智であるのと同様に、細分化された音社会の理解というのは耳が(脳が)それなりに習熟していないと獲得できていないと無理な能力でもあったりします。


 言い換えるならば、ただでさえ忌避したくなる様な音にも何等かの情緒を得て耳にすることが出来る人というのは、忌避することを消失する位まで普段からそうした音への欲求を高める為の反復や修得の為の訓練を積んで来ているとも言えるでしょう。単純に難解な音楽を聴いて来て感覚が研ぎ澄まされて築かれた人も居るでしょうし、それは様々ではありますが、少なくとも、そうした理解に及ぶことすらも厳しい音にそれだけの知覚能力が磨かれたからこそ、そうした音への欲求が高まるのであるのは事実です。


 以前にも自然倍音列の例を挙げて語った事ですが、長三和音とやらが耳(脳)にとって安定的に響くのは、自然倍音列の第6次倍音までの音の配列に長三和音を生ずるのでありまして、純音で無い限りは凡ゆる音は倍音を含んでいるので、耳に入って来る音というのは、その音の組成とやらを脳神経的レベルで見れば第6字倍音迄を聴き取る事で神経伝達プロセスからすればそれが最も簡単な経路で伝達が可能な「スキャン」なのでありまして、脳神経の伝達の為に楽なプロセスであるからこそ、安定的で楽な音は、音に対して素直な感覚で居られる事を心地良いという欲求に置換される人もおります。

 安定的に響いてくれる音というのは概ね簡単な整数比の音程に成っている事が殆どです。例えば1:2ならオクターヴ、2:3なら完全五度、3:4なら長三度、4:5なら短三度・・・という風に、実は整数比で見てもシンプルな整数比で表わす事が出来るのと同時に、それらのシンプルな整数比はそれぞれが隣接し合う数字の配列となっているという處に更に注意をしなくてはなりません。


 音を聴く能力において、あまり厳しい音を求めない人或いは自発的にそれを求めようとはせずにとりあえずは受け止める事が出来る程度の人の耳というのは、こうした簡単な整数比プラス、隣接し合う数字同士の音程比で構成されている楽音を好むという風に語られる處でありまして、ヒンデミットの自著「作曲家の世界」ではそれを顕著に語っている名著の一つとも言えるでしょう。


 隣接し合う事のないシンプルな音程比というのは概してシンプルな体系は複音程(=オクターヴ超)となったりするものですが、例えば15:16という隣接し合うこの比率での音程は短二度(平均律では少々広い半音)、つまり半音の音程比なのですが、この15と16という比率が12平均律での枠組みにおける、多くの人をそこから先を寄せ付けぬ断崖絶壁の様な「霊峰」が立ち塞がるかのように据わっているのであります。

 前にも述べたように、例えば第19次倍音や第27次倍音という水脈を見つけるには、それまでのオクターヴという峰を4つも縦走して越えなければ達することの出来ない場所であると述べたように、多くの人は、第16次までのポイントで十分音楽を堪能できるワケです。それは、15:16が短二度という、12音で表現される音楽観であればそれが最小単位となる音程故に、それよりも狭い音程の脈絡というのは単なるピッチの弛緩や誇張や、亦は音が律しきれていない音として知覚する程度で十分な脈絡であるからでありまして、こうした聴き方で十分な人というのは勿論、登山をするにあたった第16次倍音という峰まで登頂すれば十分という事も暗に指すことが出来るのです。

 シンプルな整数が隣接し合う比率として24:25という興味深い比率もその先には生じますし、こうした處の音(=水脈)を見つけた人というのは、もっともっと先を目指すようにもなるでしょうし、ひとつの大きなカベであった第16次という峰を一旦越えれば、その先はもっと開けた視界が見えて来るという風にして、厳しい音を好む人の感覚はそういうシーンとして喩える事が出来るモノなのだと理解に及んでほしい譯ですね。但し、ヒンデミットの作曲家の世界を読んでも、私の様に登山を例にして述べているワケでありませんし、こうした表現は私自身の咀嚼に依るモノです。


 整数比が15:16という互いに隣接し合う単純な整数比というのは実際にはこの時点でも100セントよりは少々広いです。しかし、こうした霊峰の先には100セントより狭まる音程を幾つも見つけることが出来るので、こうした霊峰に容易に足を運ぶことが出来るようになった時というのが、ある一定以上の音楽的習熟を得た時と思って差し支えないと思います。短二度(=半音)がまんべんなく一様に広がる半音階的枠組みの音楽を解釈するだけでも、調性にベッタリの音楽を聴き慣れた人からすればかなりの労力を伴うものでありますが、難しい音程を好む人というのは既に霊峰に何度も足を運んで、その先を見据えているから知覚出来る感覚でもあるのです。

 音程比が80:81という数字にも実は親しみのある物だったりもします。

 トルコ方面では九分音という全音が9等分された音律がありますが、実際には9分割された夫々ひとつずつの微分音を用いるのではなく、上行形と下行形でピッタリ半分で割り切れない所に情緒を得るものであり、これは本来純粋な唄心ひとつでこの様に構築されたモノではなく、元々は弦楽器由来で九分音は生じているのだそうです。つまり、弦楽器にフレットを与える以前に弦長に対して9という数字を使うと大雑把な音程幅を見出すことが出来、ここから九分音は生じているというのが小泉文夫の著書で述べられている事でもあります。それを考えると九分音というのは人為的であり乍らもどこかまだ共鳴的な世界観との共存するかのような不等長な処理をされていて、四分音・六分音・八分音・十二分音・十六分音のような人為的な音律とは少々一線を画す類のモノであるかもしれません。

 ひとたび「人為的」と書いてしまうと、その言葉の仄めかしてしまいかねない別の意味を強く感じ取ってしまってネガティヴな印象すら抱いてしまう様な人もいるかもしれませんが、「人為的」な音程は微分音という細分化された音律以前に、短和音ですら人為的に作られた長三和音からの雌雄関係として作られているモノでもあり、ヘプタトニックはおろかテトラコルドですら人為的であり、做為的である事を我々は見逃すことなく微分音という物を受け入れる必要があります。自身の感覚では理解に及ばない事を言い訳にしてしまうと自分自身を否定しまう事になる為大抵は音楽の側が理由無き反抗に依って憂き目に遭うのでありますが(笑)、人為的で做為的なテトラコルドとて、通常な全音階的テトラコルドという社会でしか耳慣らされていない人がとても多いのが事実で、漸く半音階的に音楽を見渡す事の出来る語彙を獲得できた時も半音階テトラコルドの妙を無意識に獲得した様なものでしょう。四分音的テトラコルドの解釈というのは亦別の処に存在するのでありますね。

 
 神経伝達という側から見た知覚プロセスというのは以前にも述べた事があるように、自然倍音列の第6次倍音までの倍音列をスキャンしてしまえば神経レベルから見ても簡単な識別であり、その簡単で済む行為に伴う安堵感が長三和音という共鳴的な音への歸結性と安定性なワケです。第6次倍音までの音を羅列すれば長三和音を生ずるのは明白でありますね。

 先述にもある様に、シンプルな整数同士の音程比というのはとりあえずは15:16という音程比が第16次倍音をも視野に入れた時の脈絡という見方も出来るため、この音程比は「半音」ではあるものの、十二平均律の半音から見ると僅かに広い半音なのであります(111.73128527セント)。

 次の画像は、ツイッターの方でも投稿したヘルムホルツの著書に見られる一部ですね。
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 半音階的枠組みの情緒を獲得する様な時も大抵はセカンダリー・ドミナント由来の和音進行を忍ばせて延々と連結させて転調を繰返す事で五度圏を一周する、という脈絡が多い物です。属七の變化和音(オルタード・テンションを含む構造)を考慮に入れても、一つの調性内では12音凡ての脈絡を得る事は極めて困難であり、ひとつの調性では多くとも11音が限界であるのは、調性の情緒というのは共鳴的な音程の重畳によって根拠を得ているものなので、完全五度を十二度累積させてもオクターヴを跳び越す、16次倍音列に収まる倍音内で生ずる整数比を根拠に半音を求めてもそれを12個並べるとオクターヴを超越してしまって、オクターヴ社会に収まりきれずに飽和してしまう事となります。すなわち、二つの単純な整数比に依る音程差では得られぬもっと他の整数比を体得する為に脈絡を見付ける場合は、和音を重畳する事に依って各構成音から得られる音程比の組合わせを用いる事が自ずと必要になります。

 隣接し合わないもっと高次な整数比に脈絡を見つけるとすれば、それは当てずっぽうに脈を見つけるのではなく、和音構成から生ずる各音程の重畳とそれ等の組合わせから見出したりするモノであります。そういう意味でも和音に対して脈絡を見つけるという事が如何に大事な事なのかが分ります。隣接し合う事のない整数比の音程というのは幾らか広くなるものでもあり、あまりに整数比が大きければ複音程(=オクターヴ以上)も視野に入って来る様にもなります。

 孰れにしても、我々が調的な情緒を根拠に音程を探る(=音を聴く)という事は、何等かのシンプルな整数比を耳が見つけて来て、指数函的な等分平均律に依って得られる音程へも何処かの整数比に置換させようとしているのかもしれません。とはいえ、簡単な整数比ばかりに集約できる方の脈ばかりを探ってしまっていると、耳はやはり調的社会を嗜好している事になり、楽音の捉え方はまだまだ調的社会へ偏重的であるのが、単純な整数比の耽溺に浸るという行為を心に映ずる事が出来るのではないかと思います。

 此処では私の表現は、調的社会に強固な地盤を据えてしまっている感覚に向けて煽っているモノでもありネガティヴに感じるかもしれませんが、それを勝手にネガティヴだと反映させる事自体が歪曲です。煽ってはいようとも否定はしていないのです。處が、こちらは根拠を示しているのでついつい自分自身の感覚に当て嵌りそうな人からすれば、自分自身の快楽の源泉が自身の解釈とは異なる解釈を見せ付けられ否定されるかのように投影して、その反駁の為に自分自身の立ち居振る舞いを知らないというのは虫が良過ぎる手前勝手な受け止めでしかないのです。自分自身の間違った体得を指摘されると、それまでの自分自身の感性こそ否定されるのと同様になるので、それを恐れて感覚をラウンドロビンさせてしまっているのですね。つまり研ぎ澄まされる事にブレーキをかけてしまう悪循環に陥る訳です。数十年すれば理解が漸く変るのかもしれませんが、おそらくこういう人はかなり多いのが実際ではないかと思います。それは、音楽を堪能する事によって欲求が満たされる事が、哲学で性を語る上で用いられるリビドーに似る事と同様なのであります。快楽の対価が実はすり替わってしまっていて、欲求の対価として脳が報酬を貰うため、行為そのものを目的化してしまって快楽の源泉を手にする前段の行為の目的化に依ってエセ報酬を貰う事が常態化してしまっている事と同様なのです。


 我々が言語を獲得する時、赤子の頃というのは言葉の反復を眼の前で親御さんから繰返される事に依って得て来た事実であります。自分自身は言語を覚えるにあたって相当な訓練を積んだという事は無自覚であるものの、大抵は気分が悪くなると泣きじゃくるので、泣かない様にご機嫌を伺い乍ら簡単な言葉を心地良く感じる様に親御さんに育てられて来たのが真相ではないかと思います。

 「簡単な言葉」を「心地良く感じる」という二つのキーワードはとても重要な事でありまして、子供にとって気持良くなければ言語獲得は遅いかもしれませんし、喋る以前に手取り足取り親が気を回せばそれも亦同様に言語の必要性を実感せずに修得が先送りになる例かもしれません。少なくとも、何かを修得するという事はそれが苦痛であることよりも快楽と同時進行で反復が繰返されないと容易に獲得できないであろう、という事が読み取れるワケです。


 つまり、音楽面においても、簡単な響きを非常に好むタイプの人はそれが快楽に置き換わっているので、快楽の邪魔をする物はそうした欲求の対蹠地にある全く逆の感情と言えるでありましょう。本来はその快楽を得る時も苦痛であった筈なのですが、巧い事他者から(親や保護者)感情を誤摩化されて獲得してきた譯です。こうした處に欲求がこびりついてしまっている人は、それ以上の成長を鈍化させかねず、反復や類似性ばかりも本当はそういう人達も飽きを生じてしまうので、快楽に付随する類似的感情を膨らませるために自分が快楽に浸るための領域を拡げてしまうのです。快楽の拡大のために厳しい音を聴くという反復行動なら更に感覚が研ぎ澄まされるのでありますが、脈絡が簡単な處はそのままに、快楽の為のマンネリ感を無くす為の欲求の「強化」というのは、実は感覚的には全く増強しているのではないのであります。つまり、こうした例に喩えられるかのように、簡単な脈のままに自分の欲求を利己的に強化しようとすると殆どは「コレクション」として欲の対価となる物が蓄積していくだけで、本当の意味での欲求は高次的な方面の意味合いでは何も強化されていないのであります。


 音楽を聴く、という純然たる欲望が強化されないと、その行為に付随する社会的な価値の方に価値観が強化されていってしまいがちになります。例えば前述の様にコレクションという蒐集活動が強化されて行くだけになってしまったり《蒐集活動そのもので自身を満足させていて実際は音楽そのものが欲望の報酬という貢献度は稀薄になっている》、不要な比較であるにも拘らず他者とのコレクションの競争や欲望の果てに得てきた物理的な「物」のへの価値を与えたり《社会全般を見渡して金銭的な付加価値が増大し、音楽の本質の価値とは無関係な金銭的な価値に欲求を向けてしまう》、その価値を高める指標に金銭という尺度を伴わせたりなどして、恰も欲望の対価としてそれらの価値とやらを誇示しないと自分自身の欲求が浮ばれないという事になる為、欲求のべクトルが違う方へ向いてしまっている人というのは結果的には音楽を本当の意味における音楽的なモノとして聴くことが前述の括弧内で示した例の様になってしまっているのですが、そうした事実を受け入れると、それまでの培った自分自身の快楽の源泉を否定する事と同じ事になってしまうのでなかなか素直に受け止める事が出来なくなり、頑固にその姿勢を貫くことを是としてしまうのであります。

 コレクター・アイテムとしてのレコードとかでも、本来の楽曲的な音の価値とはまるっきり異なる価値が独り歩きしてしまって価格を高騰させたり、音楽とはまるっきり異なる方面のプレミアム感を競うだけになってしまったりとか、そういうシーンを目の当たりにするでありましょう。本当に価値のある物が価値を得ているのではなく、音楽への無理解から生じているプレミアム感の独り歩きが招いてしまっている、音楽に付随するだけの欲望という物が大半の人達の欲望の果てなのだという事も前提知識として理解しておいた方が宜しいでしょう。この理解に依って生ずるメリットというのは、音楽の本質的価値を選別できる事と、本質的な価値を見出せずに他のプレミアム感や言葉巧みにありったけの言葉を並べて不必要な程に誇張するようなタイプの人の言説をフィルタリングできるという處にあります。

 欲求の趣く先が本来の欲求への対価としての在り方が変質してしまっている事に無自覚な人というのは先の例の様に多いモノです。

 というのも、欲求が起った発端から結果的に当初の欲求は変質したとはいえど、その欲求の先に快楽がある事で多くの人はその快楽を求めて歩を進める為に変質している様を止める事が出来なくなっているのでもあります。

 ところが、その欲求から生ずる快楽は本質を得ようともいつもどこか的を外れていたりピントがズレていたりと本質を射抜いていないモノばかり手にしてしまうのであります。それは、音楽というシーンに喩えるならば、音楽を器楽的&楽理的に解釈できぬ事で本質を見抜く事ができない為に、手当たり次第に所蔵物を殖したり、自身の快楽の源泉を他者から否定されぬためにありとあらゆる言葉の表現で武装して擁護する様になるのです。ですから、デキの悪い自分の子供の愚かさを認める事が出来ぬ親バカ心理と同じようになってしまうのであります。

 ひとたび、そのように欲求に対して強力な推進力を手にした者はそうそう歩を休めることはありません。「欲求の為」に邁進するのであります。また、その自分自身の行動を正当化させつつ付加価値を高めようとする為に、本来不必要な付加価値を自ら纏わせようとします。加えて、自分の快楽の源泉を他者から指摘される様な事があれば鬼の形相の様にして過剰なまでに防禦しようとするモノです。これが最も不必要な方面で価値が付加されていってしまうのは、金銭的な価値が過剰に膨らみ、それを手にする為には社会的な格差の限られたところに在る様な人達が手にすることが出来なくなってしまう様に高騰してしまう様な時にも垣間みる事ができます。


 音楽の本質的な価値を知らずとも、それでメシを食う為に仕方なく音楽に携わる人も多いモノでしょう。CDショップに勤める新入社員が音楽に関する事に何の知識が無くとも体系を覚えてしまえばビジネスとしての音楽の売り方は理解してしまうのと同様で、幾らでも付加価値を付ける事は可能なのです。

 ポピュラー音楽系に蔓延る悪しき習慣とやらは、消費者に対して如何に音楽の快楽的要素を消費者に分り易く且つ陳腐化されていない主観と気付かせないボキャブラリーを駆使して言葉にして受け止めさせるかで売れ方は丸っきり違うのであります。これが蔓延しているが故に理由(箔やエクスキューズ)など幾らでも無尽蔵に付ける事が出来るのです。


 ネットというのは情報の大半は文字で得ているので、文字だけに踊らされない音楽的深部を理解出来る為の素養を伴うというのが私の結論です。微分音とやらに心酔しようとは思ってはいない人は多い筈でしょうが、ここまで文章を読んだ方ならば、微分音うんぬん抜きにして音楽の深部や、他では聞き慣れない私の表現に依って音楽をもっと知りたいという欲求の起りの推進力でココまで達している譯であります。

 最初は半音階を使い果たす音楽的社会すらも獲得できなかったのに、いつの間にかジャズっぽいコード進行とやらを見抜くようになった、という人も実際には多いと思いますが、そうして半音階に行き着いた様に、音の志向がもっと進化すれば微分音という細分化された方へ志向が向く様になるのであります。幼い頃はひらがなだけでも難儀した人達がいつしか難読漢字やら難しい表現を鏤めて使ってみたりするというのも、音楽社会に於て同じ事が言えるのでありまして、音律の細分化というのは難解な語法という事であります。難しくとも、それ自体に知的好奇心を働かせる事は、ありもしない物に不必要な表現を付加させて表現するよりもよっぽど純粋な欲求の起りで誇るべきモノなのです。

 難しい脈を以て構築されるプログレやらの音楽を態々聴こうとする行動も、純粋な欲求の高まりなのでありますので大事にしてやって欲しいと思わんばかり。うわべだけの「括り」に誤摩化される事なく、音楽を聴けば聴くべき音かどうかというのは自ずと身に付く様になるのであります。

 そんな譯で四分音や八分音を語ろうと思うのでありますが、そこで引き合いに出すのがイタリアのハットフィールド&ザ・ノースとも云われる事があるPdP、ピッキオ・ダル・ポッツォを語る事に。長くなるのでアルバムだけ画像を載せて詳細は次に語ることに(笑)。

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