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なぜ属音と下属音を例に挙げたのか!? [楽理]

 前回の記事の譜例には、ヨナ(47)抜き音階を語る時に完全五度累積の体を示したので、その際に属音と下属音の形成の例も示したのはお気付きだったと思いますが、それには実はもっと深い意図があったからなのです。まあ、その意図とはジョージ・ラッセルのリディアン・クロマティック・コンセプトを真っ向否定する為でもあるのですが。 リディアン・クロマティック・コンセプト、これの発端は完全五度という音程の共鳴性を頼りにして「C音」から五度音程を累積して行くとC→G→D→A→E→B→F#・・・となるので、7音目を得た時のC音からの音列はハ長調ではなくト長調の音列を生むので、C音の重心はト長調にある!と言い切る所に端を発している理論なのですが、これというのはきちんと楽理を学ぶ人ならばよもやこの時点で眉唾だと思わねばならない部分が満載なのでありますが(笑)、そこに目をつぶってそのトンデモ理論とやらに目を向けてみると、邁進してみたら色んなモノ見つけたのでついでにガメてしまっているような音の選択も決して無いとは言えないものの、根拠の無い理論でも、一応は根拠ある所と共通する所まで欲求と事実は手を差し延べてくれるモノなのだとあらためて實感するのでありますね。

 リディアン・クロマティック・コンセプトで一儲けする人達からすれば大層迷惑かもしれませんが(笑)、そもそもハ長調がハ長調である姿というのはC音が基準となってその上に完全五度を重畳して行くのではなく、オクターヴを形成した時に完全五度と完全四度に分割して、テトラコルドとしてその後音程が細分化されていっている事を知らなくてはなりません。すなわち、ギリシャ時代の大完全音列くらいまで時代を遡って、調性もない時の「根源」を見出さないといけないのであります。

 すなわち、今日の「ハ長調」という姿は、オクターヴを2分割した時、結果的にそれらの音程は、

C音の完全五度上にある音を属音と呼び
C音の完全五度下にある音を下属音と呼ぶ。

 という事から端を発するので、ハ長調という調性は結果的にF音から完全五度累乗を重ね、F→C→G→D→A→E→Bという風に7つの音列を得るというハ長調の姿を確認するのでありまして、C音がト長調に重心があるというのは全くの嘘っぱちなんです。

 ギリシャ時代から見渡して、音階が7音という基本的な音列が生まれはしたものの、ハ長調から見た時のリディアン風な音の「F#」の導出というのは結構頻出する事に太古の人間は気付くのですね。これが10世紀くらいの事でして(笑)、あらためて《楽理の基本を忘れているのではないか!?》と気付いてほしい点は次の様な事です。

 長音階に於けるサブドミナント和音、すなわちIV度上で生ずる和音の機能について普遍的な振る舞いを例に挙げてリディアン・クロマティック・コンセプトが如何に過去の仕来りを無視しているかがあらためて理解できるのですが、此処ではハ長調を例に取ってF△という和音を例に挙げる事にしましょう。
 
 F△という長三和音はサブドミナントの和音であり、その代理であるIIm7であるDm7と、IVを母体とするF6の両者の違いをまずは語ることにしましょう。付加六度という和音であるF6は、和音の体としては構成音を同じくするDm7よりも自由な体です。それは構成音を同じくするDm7という短七度はD音とC音という「凝聚」という緊張が弛緩しようとする「勾配」を生むため、全音階における坂を探そうとするとC音がH音を見付けようとする力にD音は導かれるのですが、F音はE音に勾配を見付けようとはせずにFメジャーという母体の間で自由な振る舞いを見せます。Dm7はやがて、サブドミナントがドミナントの為へ映るための和声的勾配を強めて(属音へ導音を与える)Dm7は軈て変質し、ドミナントの為のドミナントという体を作り、それはつまりD7というセカンダリー・ドミナントを得て、モーリツ・ハウプトマン曰く《属調の侵害》とやらを導出して彩りを与えている、という前提が調的社会に於いて普遍的に存在するのです(※ツイッターでも呟いておりました)。

 その前提以前にも短調が《ドリア調》として嘯いて(イ短調がドリア調として嘯くと六度のF音はシャープ・サブメディアントとして本位六度へ変化してF#を得る)という例も頻出する社会を目の当たりにして来ているので、いっそのことF#音を8つ目の階名として与えようとする動きが日本史に置き換えれば平安時代以前に言われていた事実ですね(笑)。ハウプトマンはその800年位後の言葉である事も忘れてはならず(笑)、古来からあるそうした「調性外」への感情の興りとやら《属調の侵害》つまり現今では他調の拝借という理解で十分な機能の存在に対しては全く無視しておいて、リディアン・クロマティック・コンセプトの単なる主音から五度音程の重畳を有り難がるようでは、さも目先のペテンの言葉に言いくるめられたパワー・コード礼賛のお兄ちゃんが『これぞ、俺に相応しい理論!』だと覚醒してしまうような愚行と変わりありません(笑)。


 私が前回《主音の完全五度上に属音、主音の完全五度下にある下属音》という例を態々示しているのは、それが『ハ長調の発端』の姿であり完全音程から生ずる音を示しているという意図の表れなのです。ジョージ・ラッセルはハ長調の主音の重心とやらをト長調に求めようとしますが、ハ長調の発端である下属音の存在を忘却の彼方に葬り去って、完全五度の共鳴度だけを頼りに累積させているだけでは、パワー・コードに酔いしれてるお兄ちゃんの手許の経験をさも下支えしているかのような愚かな論点から始まっているという事をあらためて認識しなくてはいけません。


 不確かな理論の「下支え」というのは、声ばかりが大きくて頼ろうとする時には全く力にならない人と全く同じモノとも言えます。ですから、近しい物事が眼の前を通り過ぎはしても決して手中に収める事ができずに、下支えとやらが足枷となって本質を捉える事ができなくなってしまうのです。ですからそういう状況で「これぞ本質だ!」と思しき物を拏攫してもそれは幻の様に手許からスルリと水が零れ落ちる様にして過ぎ去ってしまい、いつも「これこそが本物」という幻影だけを掴まされる事になるのです。ところがそうした「不必要」な物も、足元を見渡せば物理的に「散乱」しているワケですが、散乱してしまっている物もある程度集まると所蔵品っぽくもなるモノでして、本質を決して得られない欲望がいつしか所蔵慾に置換されて、不必要な物ばかりが増えて行く事にもなりかねないのです。欲求の度が強ければ強いほど増えていくのです。それは、読書という行為が「何かを学ぶための物」としての行為ではなく、本を集める為の行為となっている事と等しいのです。本でなくとも新聞に置き換える事も可能でしょう。

 新聞の記事を近視眼的にしか理解せず、果ては殆ど読むこともなく新聞を集めることに欲求が傾くとしたらどうでしょう!?音楽の場合でもレコードやCDが只単に数を増やすのと同じ行為として投影できるのです。本質を理解している人がレコードやCDを掻き集めてはいけない、という意味ではありませんよ(笑)。本質を得る事の出来ない人は所蔵慾に置き換わりやすいのだ、という事を言っているのです。

 音楽的な世界での「引用屋」というのはおりまして、批評家というある程度名の知られた権威ある言葉を引用してみたり、音楽をそのままモチーフとして引用したりする行為も当て嵌るものですが、奇しくもヒンデミットの「作曲家の世界」というあれ程昔の著書内においてもも実はそうした興味深い側面が触れられているのですね。
 結果的に「引用屋」的な連中の知識というのは、私から言わせれば新聞のスクラップ・ブック蒐集と変りない事なんですよ。しかも音楽的な理解ができない連中は、そのスクラップブックの内容すら理解に及んでいない。そこまで新聞に頼って引用したいだけなら、自分の語りたい言葉を新聞からフォントを切り抜いて手紙にでもすればイイ。あ、そうすると脅迫状になってしまうのか(笑)。


 リディアン・クロマティック・コンセプトに乗っかって一儲け企むならば、リディアン・クロマティック・コンセプトを批判する側というのは目の上のタンコブかもしれません。アマゾンなどを見ても、コメント欄には言われ無き批判を繰り広げる様な人間が活発にこき下ろしているのを目の当たりにすることもあり、無関係な者にも迷惑この上ない行為でして、当該者のそれは最早アレルギーを起しているのではないかと思う病的な位に陰湿に叩いている行為を目にすることも少なくありません。

 彼等の様な怒りの源泉というのは、リディアン・クロマティック・コンセプトをもう心的に神格化しているのではなくて、それとなく理由も無く自身の経験(脆弱な)に於て腑に落ちる表現を偶々ジョージ・ラッセルの著書に見出す事から端を発した「快楽」は、実はその後快楽が成就していない事を無自覚なままに、実際には本質的な回答を得られていないもどかしさを怒りに置換して、ジョージ・ラッセルの批判側に居る人に怒りをぶつけているだけに過ぎないと思うんですね。つまり、自らの無理解のパワーがそのまま批判する者へ向けられるのだから堪ったモノではありません。

 音楽をきちんと理解すればそのような感情を起す必要も無いのに、自身の欲求が快楽という終点に落ち着きそうな「理論」に身を委ね盲信化してしまい、いつしか自身の得た知識は、知識の源泉として自己顕示欲へと形を変えなければ気が済まなくなってしまい、リディアン・クロマティック・コンセプトの是非は扨置き、リディアン・クロマティック・コンセプトを周知させる事が自身の立ち居振る舞いを強固にすると思い込んでしまって、間違った情報をも自身の強欲が歪曲化させて、知識の源泉であろうとする欲望が強過ぎて過剰なまでにリディアン・クロマティック・コンセプトを擁護する様になってしまうのですね。

 そこまで強く気持が働いてしまうのは音楽が好きだから起る感情なのではなく、自己愛が創り上げる興奮の高まり如何で価値が決まるからです。つまり、興奮が得られない物は断罪する様になる譯です。ジョージ・ラッセルとてそのような理解を望んではいないであろうとは思うのですが(笑)。


 私が有するジャズ的な概念というのは、ツー・ファイヴ進行やドミナント7thの体系に乗っかるオルタード・テンションの解釈でドミナントが出現すると途端に水を得た魚の様になったりする事ではなく、如何なる和音が登場しようとも、そういうシーンに對應できる見渡しを以て語っているので、それこそリディアン「族」に当てはめが可能な、リディアン基準の音楽の見渡しというのは結果的に音楽をやはり偏重的に見ているだけでしかなく、偏重具合>自身の感性、という人はリディアン・クロマティック・コンセプトに依る音楽的ボキャブラリーが遮ってくれる事を有り難がっているに過ぎないのでありますね。

 それほど迄にリディアン・クロマティック・コンセプトに拘るのならペレアス和音にどう対処するのか興味深い所ではあるのですが、ペレアス和音がどういう楽曲に使われているのか!?という事を彼等は自力で見つけて来ることは先ず不可能でありましょう。

 こうした誤った体系を有り難がる必要など全く無いワケでありますが、すなわち、私の意図というのはリディアン・クロマティック・コンセプトという物を有り難がる前に身に付けなければならない前提が他にあるだろう、という事で語っているのでありますね。


 この様にして、私の例を取り上げる行為のそれは敢えて博引旁証とまでは行かないかもしれませんが、傍証を挙げてきちんと誤りを指摘しているのは変わりありませんし、一方で、傍証となるソースを多数所蔵しているコレクターからこうした博引旁証となる提示が行われることは極めて尠いのが現状なのです。

 よっぽど楽理面や音楽学(史実的)を研究している様な人が蒐集する行為と全く異なるものなのです、コレクターの自説というものは。単に収集したモノは、自分が折角集めた物なので更なる価値を持つまで温め且つ育もうとするのですが、その価値が向上しようとする到来を心待ちにして、識者の検証や言説を虎視眈々と狙っているだけにしか過ぎないのですよ。概して価値が高まりそうなモノにはすぐに乗っかってくるのも顕著であったりします。自分達が創り上げることの出来る価値向上というのは概ね市場に於て絶対的な数が尠いとか、その程度の事でしかありませんから(笑)。

 
 話を戻して、まあ故ジョージ・ラッセル本人とて、半音階への音の欲求が有ったからが故の心の起りで理論を立てようとしたワケですから、ジョージ・ラッセルの半音階への見渡しや「欲望の興りそのもの」が嘘っぱちとまでは言いません。一応は同じ様な音をどうにかこうにか持ち込んだのですから(笑)。でも、それは途中で論理破綻を招いてしまって、常態化された体系に則って何の前触れもなしに使っていい音が増えているという理論のアチコチが綻んでいるのも事実(笑)。ジョージ・ラッセルは、経路が全く異なるルートで山に登って来たようなモノなのですから。但し、態々ジョージ・ラッセルのそれを摸倣することなく、もっと簡単に、もっと応用力を伴える見渡しでジャズや半音階という物は見渡すことが出来るのであります。


 前回では、半音階を見渡した時に綜和音という極端な例を挙げて半音階での和音の振る舞いというのを語りましたが、和音をコード・ネームの様に転回させて表わすことが出来ても、半音階の総合という綜和音を比較した場合、最低音という根音を全く同じにした處で、異なる組成の半音階の総合というのは全く違う音だという意味をもう一度考えることにしましょうか。


 次の例は、中央ハより4度低いG音から完全四度累積(途中異名同音にして視覚上では3度累積が生じます)に依って構築された和音です。
01P4thBuild_Chromatic.jpg


 次の例は、エドモン・コステールの提唱に依る三度堆積で半音階の総合を見る属23の和音の例です。先の例と同様に根音の音高は全く同一です。
02Dominant23rd_Chromatic.jpg


 次の例は、是亦根音の音高は先述2つの例と同じですが、ペンデレツキ風に半音のトーン・クラスターを表記したものです。下段の五線譜が構成音を示していて、上段の墨痕淋漓とした塗り潰された物が実音という事ですね。
03ToneCluster_Chromatic.jpg


 あらためて語りますが、これらの和音が全く異なるのは明白です。転回さえすれば構成音は等しくなるものの、全く異なります。

 私が前回、駒に紐を巻き付ける事でオクターヴの同一性(=同質性)で見誤ってはいけない事実を表わした譯ですが、例えば駒に紐を7周巻き付けました。1周を1オクターヴと置き換えて考えましょう、と。


 紐の全長が60cmあるとして、5cm刻みで目盛りを付けて駒に巻き付けるとしましょうか。その目盛りは巧い具合に駒に巻き付けた時重ならず散逸して点在するように目盛りが打たれる筈です。でも、これは或る意味では完全四度堆積による和音と同様の事が言えると思います。

 先のペンデレツキ風のトーン・クラスターというのは12cmの紐を使っただけとも言えるでしょう。


 この様にして、紐自体の物理的な長さが異なるのは明白でありまして、音というものに調的牽引力を極力稀薄にして見つめると、和音の転回は概念的にしかならず、物理的な音そのものが和音の体を語るに相応しいモノとなるのです。勿論、耳が捉える音も同質性が欠如しているのが判ると思います。同質性を排除する音を形容するのにオクターヴの同質性を認めてしまうのは十二音技法のひとつの陥穽なのかもしれませんし、基礎音列の一部に調性を強く感じさせないようにしてこねくり回すパラメータ外の偏重的な選択も是亦もうひとつの陥穽と言えるでありましょう。これらを見過ごしても技法としては興味深いかもしれませんが、やはりオクターヴの同質性というのは調的社会では同質性があり、調的な成分が稀薄になると消失するというのはお判りになるかと思います。

 コード・ネームという体系で孰れ微分音を語ることがあるにしても、その微分音を音高無関係にどこに配置しても構成音が同じであれば同じ和音の響きになるのでしょうか!?それも亦違うと思います。我々が今目にしているコード・ネームの体系は調的枠組みでの事で、微分音が含まれているということは、その協和的秩序から逸脱した音を使っているので、同質性を持たせたままでは微分音の音の存在が音高次第で強弱が産まれてしまい、弱い牽引力として響く音域においては、聴き手から勝手に音を均されて聴かれてしまう事も意味するようになるのです。つまり、同質性が通用しないので微分音を視野に入れたコード・ネームというのは無意味に等しく、単純に譜例として示す事が良い例となるワケです。

 コード・ネームに頼った音の使い方は、ヴォイシングというものも同一視してしまうきらいがあります。すなわち、そうした落とし穴(=陥穽)が、調性が稀薄な社会になると同一性は途端に意義が稀薄に成る事を意味するので、ジャズがこうした音を使って行くとすると、ヴォイシングを緻密に計算立てる必要性も生ずるので、先人達は、いずれインプロヴァイジングが消え失せ、ジャズとしてのインプロヴァイズは稀薄になり、緻密に計算されて行く様になるからジャズは衰退すると予測していたのでありましょう。まさにその通りだと思えるワケですね。勿論、そんな難しい仕来りの中でもインプロヴァイズをこなす者の到来を期待してのことでの批判ではある事も気付かなくてはなりません。アドルノがジャズを批判するのは限界がありますが、ストラヴィンスキーやヒンデミットがジャズを批判すればその先に愛を感ずるのと同様ですね(笑)。

 でも、愛を感ずることが出来ない人は、批判を繰り広げられたら途端に力こぶを蓄えて応酬したり、愛が見えなくなっている人が大多数なのも事実でありましょう。だからこそ、私の言葉でもどうでも良い批判的な事ばかりに近視眼的に食い付いては怒りの感情を持って応酬しようとする者が居るのも当然とも言えるでありましょう。その手のゆさぶりで本来の音楽への欲望が変質されてしまい、動機の源泉が音楽にあれば、どういう行動や感情を起してもイイのだと自分を正当化してしまっているだけにしか過ぎず、結果的に愚行を繰り広げる様になるので気を付けなければならない處です。

 
 年明け2014年からNHKにて、再び坂本龍一に依るスコラ〜音楽の学校〜の放送が決まった様で、20世紀音楽(おそらくそれ以降)の話題で放送される様です。20世紀から100年以上経過して、スコラ風に言えば音楽は150年という節目で見渡せる歴史があるという興味深い話もスコラ番組内にて語られていたのは記憶に新しい所です。

 100年という音楽的歴史を100年というリアルタイムではない咀嚼が伴うのが音楽なのではないかと私は思うのです。都度、其の時代にて生きて来た音楽の先端は常にあるものの、それが人々に受け入れられるようになるまで一定以上の年月を伴うので、リアルタイムの100が、150年程のスパンを強要されるのが音楽への理解に伴う背景なのではないかと感じています。

 それこそ、私はヒンデミットの名を能く挙げますが、学籍に身を置いていた80年代当時のヒンデミットの人々の受容は現在と比較すると雲泥の差といいますか、斯程迄に受け止め方が變るモノなのか!?と驚くことしきりです。私の耳が多くの人々よりも進んでいたと迄は言いませんよ(笑)。

 そうやって考えると20世紀、尠くとも第二次大戦以前(本当は一次大戦という戦亂も西洋音楽の史實には重要な出来事でもありますが)からどの様に変貌を遂げ、十二音技法(現在は廃れました)、微分音やらと視野に入るのでそういう方面も取扱う様になるのではないかと思いますが、一番声高に語りたい處は音楽の収音と再生装置の発展ではないかと思います。再生機と録音機。嘗てのピアノ・ロール(現今の音楽シークエンス・ソフト上での視覚インターフェースの事ではなく嘗ての自動演奏ピアノの事。ヒンデミットも「自動ピアノの為のトッカータ」という作品が存在します)が音楽シーケンサーの礎となっている事も恐らく取り上げられる事でしょう。

 まあそうした自動ピアノはムッツィオ・クレメンティが製作して世に送り出したのが19世紀、オルガンを原型にしたモデルは18世紀から存在していたモノであるので、今日のシークエンス・ソフトの視覚インターフェースの「ピアノロール」編集画面というのは何処かのメーカーのそれを拠り所としてポッと出で出現したのではなく、旧き時代から恩恵を受けている操作体系であるのですね。微分音も視野に入れても四分音音楽は20世紀に入る直前の19世紀ギリギリには既に発表されていたというのですから是も驚きです。

 今後の150年がどの様に変化していくのか分りませんが、和声がもっと凝聚されていくのは間違いなく、調性も崩壊の度を強め(今も崩壊途中です)、色彩的な音響効果を得る程度の微分音を視野に入れた和声的な導入はもっと進むと思いますが、それに伴って、オクターヴ内に転回する形の和声体系は一旦崩れる可能性もあるかもしれません。全音階的な調性を伴ったこれまでの和声体系と、それとは全く異なる表記を併存させる手法が最も手っ取り早いと思われますが、こうした体系もおそらく、向こう50年位の間に新たに体系化される様になるかもしれません。こうした流れというのは放送局のラウドネス・メータに依る音量の定義や、それに伴う現今の音楽の音の強弱の取扱いやらを、音律やコンサート・ピッチも含めて新たに整備される日がそう遠くない内に訪れるのではないかという思いから私はそのように感じているのであります。

 とはいえ、クロマティックもまだまだ取扱い切れておらず、そうした音楽がいけしゃあしゃあと先鋭化される音を使おうとは図々しいにも程があるというモノですが(笑)、尠くとも、クロマティックという半音階の社会はもう少し理解を深めないといけないのではないかなーと思うことしきりです。

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