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2013年度私的書籍ランキング [楽理]

 扨て、前回は数少ないアルバムを列挙して語っていたのでありますが、前回の記事で強調しておきたかった表現というのは實は、井上陽水の「氷の世界」の世界観を引き合いに出した表現だったのでありまして、その辺の事を語りつつ「書籍」という方面を語って行こうと思います。


 井上陽水の「氷の世界」というアルバム。2013年の暮れにはBS-hiにて特集が組まれていたのも記憶に新しい所ですが、曲順に関しての苦悩の舞台裏などを知る事ができて、私としてはとても満足したモノであります。

 扨て、「氷の世界」の最後に収録されている「おやすみ」という歌詞。私という人間は本来、音楽の歌詞部分というのはほぼ無頓着に聴いておりまして、主旋律というものさえ感じていれば充分程度である為、そうとう記憶にこびりつくような歌詞でないとなかなか覚えないという悪癖を有しております(笑)。音楽に歌詞など要らないとすら思ったりする位です。


 そういう下地が出来てしまっている為私には本来歌詞というのは邪魔なファクターでしかないのですが、愚直な迄の表現という言葉の皮相的な「平仄」というのが私にはイヤなんでしょうね。「その程度の意味合いしかないのであれば使わないで呉れよ」、折角楽音に集中している處に歌詞が入って来る。愚直な表現ならば歌詞の存在など邪魔にしか思えないのですが、暗喩めいた表現が込めてあると少々異なって来るのであります。


 私は歌詞に頓着しないで聴くタイプなので参考にならないとは思いますが、私にとっての井上陽水という人は数少ない「隠喩」をふんだんに鏤めた天才の一人と言えるでしょう。それ以外にも井上陽水の独特な、協和と不協和があるとすれば陽水は間違い無く不協和を好む、そういう音楽観を備えている人の隠喩なのでありまして、そんな人が熟考を重ねてアルバム収録曲最後に持って来た「おやすみ」という歌詞のそれに、私は、人間が本来有している倫理観や価値観、そうした善悪に縛り付けられていた生活に突如として「箍」が外さざるを得なかった人間が抱えてしまった虚無感、という物を壮絶に感じ取れる様な気分に浸れるのですね。それこそまるで、目の前でしてはいけない事をしでかした、とか人を殺めてしまったとか、その「一線」を越えてしまった虚無感に、もう引き下がる事のできない、今度は自分自身への訣別がすぐ其処にやって来ている様な深い恐怖にも似たシーンを映じてしまうのであります。

 先のマデリン・ペルーのアルバムに於て私が井上陽水の世界観を引き合いに出したのは、こうした普く存在する人間の価値観と、それと相対する倫理観や死生観との直面が「氷の世界」と同様に見えて来るので引き合いに出したのが大きな理由で、私はもう少し強調しておくべきだったかなと思ってこのように書いているのであります。



 音楽というのは、本来なら器楽的な側面だけを偏重的に扱って理解したいモノであろうかと思います。その方が器楽的経験を有する人からすれば途端に楽なモノでもありますが、器楽的経験に乏しい人が音楽の深部を五線譜抜きで理解しようとするとなると是亦難しいモノであります。


 日本語で出版される書籍は右綴じ(縦組み)と左綴じ(横組み)の2種類があります。雑誌にはコーナー毎に混在していたりするのも珍しくはありませんが、綴じそのものはどちらかに決まっているものです。縦組みというのは「縦書き」であるので、国語の教科書と同様という事です。横組みは「横書き」なので、もうお判りだとは思いますが、私が茲で語ろうとしている意図というのは、五線譜無しで音楽の深部を理解しようとする試みに重きを置いて語っている為、そうすると音楽の教科書は楽譜なので横書き主体ですが、楽譜が要らないとなると・・・!?という處に着目していただきたいのでありますね。


 私個人の癖ではあるかと思いますが、基本的に読書という行動に於ては私の場合は横組みの本よりも縦組みの方が理解が進みます。おそらく、左→右と準えて読んで行く視覚的な惰性の強度が強いので、横組みは理解をスポイルしてしまう向きがあるようで、縦組みの方がしっかりと熟読できるのです。ですから私は「読書」となると縦組みの本を読む事の方が好きなのです。


 勿論、音楽関連書物には縦組みの中に譜例を「縦中横」に態々レイアウトしてみたり、楽譜を時計回りに90度倒して楽譜をレイアウトしてみたり、縦組みなのに楽譜だけは横組みで始まる無頓着な書物もあったりするモノですが、縦組みのルールの書籍に音楽書を出版しようとは、そんな矛盾があっても良いものだろうかと考える人も尠くはないのですから、文章の「組み」というのはそれほど深いものだったりするのです。


 楽譜というのは常に横組み(※クラヴァールスクリボを除く)であるワケですから、読譜という行為に慣れれば慣れる程惰性感覚も身に付いてしまうのでありまして、視覚的な負荷という處はこうした行動の積み重ねで知らず知らずの内に固着化します。軈てセリエルという十二音技法が視覚的負荷も払拭させたいが故に記譜法にも「均齊化」を図るというのも決して侮れない事実であるのです。



 音楽というものを書籍から学ぶ際、私はそうした読み方の惰性を備えてしまっている為、楽譜を理解するそれと文字を理解するそれは同じ組であっても両者は異なる理解度なので、私は読譜の側に文字の理解を同期させない様に心掛けて読むのであります。読譜の様に文字を準えてしまうと文字そのものの深い意味を捉え切れないまま読み飛ばす懼れがあるので、横組みの場合は私はまず文字から熟読するのであります。結果的に縦組みよりも註視するのでありますが、ストレスに似たモノになっているので、私には音楽関連書物は縦組みの方が向いているという悪癖を備えてしまっているのです。


 そうした人間が「平たく」書籍に目を向けて語っているという事をあらためて理解していただきたいのでありますが、音楽とて色んな角度からの考察があったりするもので、楽譜という器楽的な側面ばかりが重視されてしまうことで他の側面がスポイルされてしまわない様に、音楽を別の角度からそれこそ哲学的(弁証法的)な角度から分析される事も珍しくはありません。音楽を数理的にではなく文学的・哲学的な公理として語られる事だって往々にしてある譯ですが、音楽を音楽として見ない事は、私が歌詞に頓着して(執着して)耳にする様な行動であるのかもしれません。


 孰れにしても、今回取り上げる書籍ランキングの中には音楽とは全く無縁の物もあったりするのですが、言葉の隠喩には異なるジャンルに於ても往々にして同様に投影できる事があったりするので、そうした魅力も包含して選出しております。




 第5位 『ピアノの歴史』/スチュアート・アイサコフ

pianonorekisi.jpg 所謂西洋音楽史の史実ばかりでなくオスカー・ピーターソンやらジャズに間で目を向けている幅広い観点に注目したい事と、それと併せてストライド奏法、つまり3度を10度に拡げて音を見渡した時の世界観について語っているのはこの本の中で私が最も評価したい處です。

 通常、フレージングというのは惰性感を伴いがちで、それは調的な牽引力に身を委ねる事が最も陥りやすいモノで、その他には分散和音的なフレージング、その次に全音階の仕来りにおける順次進行などは最たる物でありましょう。3度という音程は相対的なモノで、ある「基準の音」から3度音程とやらを見渡せば上にある3度と下にある3度を選択する事が可能です。

 自身の志向する音の「脈」という牽引力に対して上行のべクトルが向いている時、上へ3度跳躍すればイイのですが、同じ音の6度下という風にまで視野を拡げられない理由は前述の通り、自身が志向する音の牽引力が上方「だけ」にしか負荷が与えられていない為、こうした偏向度に依って下方に存在する脈を見付け出せない偏向度を生じているのが大抵の方の音楽に対する志向性なのであります。

 3度を6度に置換してみることも重要なのですが、オクターヴ内というつまり単音程の領域を脱して居らず、10度の音程跳躍というのは複音程に目を向けて視野を拡大するのであります。孰れ詳述しますが、トニック、ドミナント、サブドミナントという各和音の機能が調的社会の中で夫々役割を演じるのは、各機能の根音が次の和音に進行する際には根音を次の和音の「上音(=本に依っては倍音とも)」に取り込む事に依って、全音階という均一な世界観に勾配や起伏が生じます。この「起伏」を使う事によって進行感という「弾み」をより強く得たいが為に、機能和声は成立しているワケです。モードというモーダルな雰囲気を醸す社会では先の機能を使い果たすような事はなく、コード進行で言えば稀薄であり究極はコード一発、或いはツー・コード進行で解決感という弾みを排除するような単純な行ったり来たりがモーダルな世界観の調的なコントラストが曖昧になる特徴があります。日本古来のわらべ歌やら童謡など多くの唱歌はモーダルで2コード・パターンに収まるものが多く、これについては松本民之助著の『日本旋法』に付属の小冊子であるダイジェスト版に詳述されておりまして、こうした調的な社会での「勾配」を知らずにうわべだけの楽理的側面だけで判断してしまおうとする者も多いので、言葉には表れてはいない器楽的な「隠喩」を読み取ってこそ、音楽関連書物は価値が高まるものでありまして、本は読み手を選ぶ、と私が述べているのもこうした處に起因するものなのです。

 そういう意味でもスチュアート・アイサコフのストライド奏法には、それこそハービー・ハンコックやスタンリー・カウエル(これらの名前についてピアノの歴史では触れられてはいません)に当てはめると大きな発見があるだろうという思いから私は本書を2013年の私的ランキング第5位に選出したのであります。単に史実だけを学びたいのであれば他の専門書でも充分でしょう。ピアノの歴史ではそういう事だけを語ろうとしてはいません。この「読み手を選ぶ」タイプの本が私は好きです。とはいえ私自身が本に選ばれし者とは思ってはおりませんが(笑)。本からすればあざ笑われているのではなかろうかと、どの本を読んでも私は注意深く読んでいるつもりです。



第4位 『原発ホワイトアウト』/若杉冽

whiteoutnuke.jpg 某現職官僚のリークでありますが、敢えて裏社会の事実を「フィクション」的に語らないと著者(=本名ではない)が弾劾されてしまう為に、事実を嘯いて語っている「フィクション」(=ノンフィクション)の著書であります。

 3・11以降顕著なのが、原発の危険性の露呈と共に人間が余りに無力であるという事。原発事故の現場では命の危険と表裏一体で、結果的に「マンパワー」頼りで下請け、孫請け、さらに孫請けと中間マージンばかりが税金から搾取(東電へ税金投入という還流)されているという現実に、茲迄命を張っておいてその対価はあまりに薄く、一体どんな病理集団が中間に絡んでいるのだろうと思いきや、彼奴等は病理集団という言葉の持つ平仄だけは忌み嫌い乍ら他の呼称を強要する様にエリート意識を其処でも振りかざそうとするのが滑稽ではありませんか(笑)。

 DAWという音楽制作環境が低価格にて普及する様になった現今の社会において、電力を奪われても紙と電気要らずの楽器で音楽を創造する事の出来る人はどれくらい居るでしょうか!?音楽に拘るという事は本来、電力など持たずしても、自分の体ひとつで世界各地に普遍的に存在する既知の楽器を使いこなして、既知のレシピ(=楽譜)を駆使して「再現」できる事にするのが西洋音楽、またはクラシック音楽界の基本でもある為、電気が無くなってしまったら何も出来なくなるような下地を備えていない音楽制作というのはあってはならない筈なのでありまして、音楽の基礎というのはこういう處でも露になるワケでして、電力の充実と共にいつしか原子力の依存度が高くなってしまった現今社会に対して神からの警告を受けたのではなかろうかと思うことしきりです。そういう音楽的な下地を備えて私は原発という物をついつい見てしまうため案ずることも多いのですが、音楽抜きにしても原発がどのように独り歩きしてしまったのかが能く判る本だと思います。



第3位 『ミツバチ大量死は警告する』/岡田幹治

honeybee.jpg 農薬の恐ろしさ、つまり化学物質の恐ろしさがあらためて判るものでありますが、先の原発事故でセシウムやら色んな放射性物質の危険性が報じられていたのは今も記憶に新しい所ですが、悲しいかな生物というのは構造の能く似た分子を体内に取り込んでしまう為に、菌糸類ですらもダマくらかしてしまう放射性物質というのはあらためてその恐ろしさを感じさせて呉れます。ミツバチ大量死の農薬が起因しているという事をあらためて思うのは、蜂蜜を食いたさにハチミツの安定供給の為に健康面を無視するのは、もはや原発事故現場に於て完全失業者に職を提供する様なモノにも似ているんですな(笑)。

 「親方、私は一体何の穴を掘っているんでさぁ?」
 「金なら幾らでもくれてやるからよ、掘り続けてくれりゃあその内教えてやる!」
・・・
 「親方ぁ、あれから40年経ってもまだ掘り続けてやすが、あっしは一体何の穴掘ってるんで?」
 「お前の墓に決まってるだろうよ」


 職を作ってやり、悲しき「ピューリタン」は労働精神という大義に向かって勤労する。それが自分の墓を掘る仕事だとも知らずに。


 一過性の食中毒にも似た症状で嘔吐や発汗やらというシーン、近くで見たり聞いたりした事ございませんか!?数時間でケロッと治ってしまうので有耶無耶になりがちですが、これも實は農薬が実しやかに囁かれております。

 農協だって本来は、農家を本業とする人達の互助会制度の様なものであり、農家の経済状態を助けて、金を貸し付けるにも低利や審査基準を緩和したりして農機具の購入やら支援したのが発端だったのでありますが、いつしか利殖が功を奏して農協はJAバンクという巨大金融機関へ変貌し、農協という利権団体にどっかのドラ息子が御世話になるという食い扶持へ変わり、その利権に群がる為に、「週休5日」という、なんちゃって「兼業農家」が増えているのが真相で、農協解体とか言われて大声張り上げて反対しているのは肌の色も真っ白な、平日はどっかの机の傍らに鎮座している週休5日のなんちゃって兼業農家の人々でありまして、自給率を増やす為に予算を要求して税金せしめるのも、自給率という数字を低下させる為に農家の総数に週休5日の方に加担してもらって母体数を増やしてパーセンテージを下げるってぇ手法ですな(笑)。TPPに依って農協が解体されて行くのは大歓迎なのでありますが、嘗て経済界のハゲタカが郵貯資金を狙っているというフレコミを今度は農協に持ち込んで同情を誘おうと姑息な手段を繰り広げている団体ではありますが、金融機関としての農協が農業から手を離れて行くのは結構なハナシ。それでこそ健全な姿であります(笑)。害の無いハチミツを提供できずに農薬ビジネスで農家にバラまくような事が横行するようじゃいけません。これじゃあ食品擬装の前の段階の生産者からも汚染されていきますわ(笑)。そういう意味でも非常に注目すべき著書でありました。




第2位

 『聴く人 homo audience』/近藤譲

homoaudience.jpg 近年の近藤氏の著書(『音を投げる』『”音楽”という謎』)と比較しても、非常に音楽を器楽的にではなく、本記事冒頭の様に弁証論的な側面から読む事のできる内容で読み応えはとてもあります。アルテスさんからの出版ですので『レヴィ=ストロースと音楽』の様な、所謂音楽を哲学的な側面からも考察する様な文章は、その時点である一定以上の音楽への理解が備わっている人が読むべき物と考えますが、門外漢の人であっても文学的な言葉の重み付けが為されているので、非常に牽引力のある文章でグイグイ読む事の出来る良著だと思います。

 音という物への好き嫌いというのは、その対峙こそが主体的ではありますが、音楽というものを一旦中立的に見ようとする場合に客観的志向が往々にして必要になる事があります。特に自身に対して特定の偏向具合が加わらない様にするためにも重要な事であり、そんな時、こうした弁証論的側面から語って呉れる書物は重要です。全体的な内容としてはヒンデミット著の『作曲家の世界』に通ずる様な處があり、ヒンデミットのそれよりも更に読み応えを實感出来るのではないかと信じてやみません。2013年の年末に良い買い物が出来たモノです。



第1位

 『チャーリー・パーカーの技法』/濱瀬元彦

charlieparker_hamase.jpg これについては孰れ詳述しますが、全音階(=ヘプタトニックという7音組織)は何故2オクターヴ(3オクターヴ目という15度音程)という尺度で見ると判りやすいのか!?という事や、半音階的全音階組織におけるラモーの根音パスの扱い(つまりノン・ダイアトニック社会に目を向けるrelativeな音程関係)という事や、私が能く使う「オクターヴという位相」という意味をあらためて、この著書も一緒に通じて語っていこうかと思います。

 先述にある様に、全音階的社会の和声的な進行という弾みを付ける為の「勾配」は、和声の4度進行を6度という音程関係の「relative」な変換をさせる事に依ってその「勾配」を實感する事が可能となるでしょう。

 例えばハ長調においてDm7→G7という和声進行の勾配はどの様に作られているのか?というと、d音という根音は次の和音の「上音」へと取り込まれる事で勾配が付けられるのであります。G7がCへ解決しようとするのは勾配があるからで、その勾配を形成しているのはg音が次の和音の上音へ取り込まれるからであります。

 その勾配をもっと「唄心」ある6度に置換するという事で、オクターヴという位相は8度にも15度にも現れるワケですが、8度という「轍(=わだち)」では3度音程累乗型の和音社会では全音階(=ヘプタトニック)を充たす事が出来ずに音程が足りません。15度という音程内に収まる事でヘプタトニックを充たす事ができ、15度の平行関係(relativeという意味での平行です)にある音は13→11→9→7→5→3→根音という流れなので、6度という勾配をイメージする事で他の脈を使う事のできるというそれは、濱瀬氏の「チャーリー・パーカーの技法」から読み取れる事です。この著書を読む前に必要な事前知識として、機能和声のコード進行における上音への取り込みという事での和声的勾配を知っていなければなりません。尠くともエルネ・レンドヴァイ著の『バルトークの作曲技法』ヒンデミット著『作曲の手引』位の知識は得ていたい處ですが、それらの著書がなくとも本著は読みやすく理解しやすいでありましょう。

 亦、マイナー6th和音の5th音が半音下がった音は、和声的な異名同音で減七和音と同様となりますが、前者の「隠喩」は、7度音の存在を仄めかしている体系だという事を決して忘れてはなりません。こういう事も含めて孰れチャーリー・パーカーの技法のみならず、私はそれと併せてランディ・ブレッカーとエドモン・コステールの属23の和音とパーシケッティのマルチ・オクターヴを例に挙げ乍ら詳述するつもりですのでお楽しみに!

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