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音のパレイドリア [楽理]

 倍音列で高次な方向に耳を傾けるとあらためてその音竝びの複雑さを感じ取る事が出来るのですが、文章だけで考えると更に難しい音の脈であるのは推察に及ぶ事でありましょう。處が、そんな複雑且つ広い「相」の空間とやらを単純に「縮小」して見渡してしまうのが「減五度変換」という見渡し《つまり是は半オクターヴという見渡し》で半音階的情緒を連れて来ようとするものであります。減五度というのは先の例で言えばハ長調におけるfis音の出現を意味することでありまして、完全五度音程という共鳴の姿を減五度変換するとどうしてメリットがあるのか!?そこに先ず興味を向けて欲しいのです。


 この減五度変換という名称そのものは濱瀬元彦氏の著書「チャーリー・パーカーの技法」において重要なキーワードのひとつではありますが、著書内においては「減五度変換するメリットは何故なのか!?」という事迄は語られておりません。ですので減五度変換というプロセスを行なうとどういうメリットがあるのか!?という事を私が語ってみようかと思いますので、その意味で「減五度変換」という言葉の理解が必要となるのでご容赦を。但し茲では減五度変換を語る前に必要な知識として語っておきたい事があります。減五度変換というものを行なうと通常のヘプタトニック的仕来りで「区別して来た取り扱い」を拏攫するかの様に包括的に取扱えるというメリットがあります。それはどういう事か!?という事を今一度語っておく事に。


 少し前に日野皓正の曲「Key Breeze」に用いられているrelativeなコード進行、つまり六度進行をしている例を挙げましたが(「E♭M9→Fm7→D7(#9、♭13)→・・・」)、私が述べていた事はFm7→D7(#9、♭13)という六度進行という部分が四度進行に戻した場合Am7→D7(#9、♭13)を想起する事が可能なものの、主旋律のB♭の存在が背景にAm7を映ずる事を許容しないので四度に戻せないという事です。もう少しそれを「曲解」して進めると、四度進行を許容させるように和声的な世界をあてはめると「Am7(♭5)→D7(#9、♭13)」というハーフ・ディミニッシュ(導七)からの四度進行の方が、B♭という主旋律の存在はAm7を充てようがAm7(♭5)を充てようがB♭音がアヴォイドになってしまいますが、背景に映ずるシーン(四度進行を想起するための世界観)としてより良い方は導七の側であるという事も付け加えておいた方がいいでしょう。

 六度進行という曲を四度進行に戻した場合、このように二通りのタイプを想起する事になる訳ですからこれら二つの四度進行は、長調側の仕来りのツーファイヴ進行と短調側のツーファイヴ進行、つまりそれぞれ同主調の異なるツーファイヴ(Am7→D7はト長調=Gメジャー側の世界、Am7(♭5)→D7はト短調=Gマイナーの世界)を見る事になりまして、換言すれば基の六度進行というのはこれらの2タイプの四度進行を「包括」しているのでありますね。


 この「包括」という處が重要でして、チャーリー・パーカーのアプローチは既成の四度進行を六度に置換することで本来なら二つの和音進行という分岐点をも拏攫するアプローチに繋がるという事を大前提として読み手は知っておかなくてはならないという事です。私が今回それを取り上げる理由は、ヘプタトニックという7音組織は調性的な香りとして見た場合単なる7音ではなく長調の香りと短調の香りも「包括」して考える必要があるため、実際の例と併せてこうして語る必要があった為に取り上げているという事を先ずは理解してほしいと思うことしきりです。

 長調・短調という両者の仕来りを包括的に拏攫した時に、その先の半音階組織を得る為の脈を漸く目を向けることが出来るワケです。ですから長調・短調の仕来りで逡巡していてはいけないのであります(笑)。



 扨て、愈々ヘプタトニックを超える半音階の方の世界へと目を(耳を)向ける必要がありますが、数オクターヴにまたがる位相を脈に使おうとするとあらためて感じる事は、この広い相は《共鳴的な見渡し》でイメージしている方角半音階組織であるという事があらためて判ります。しかしその広い相を《半オクターヴ》という概念的な相を導入する事で、本来縁遠い脈を近しく使うことはセリエルの十二音技法における半オクターヴの取り扱いよりも実にシンプルな発想であります。意味が判りますか?


 先述した様にヘプタトニックという7音組織を使うには通常、オクターヴという相を見つけてきやすい方向(概ね共鳴に則った倍音方向、つまり上行)に向かって先ずは15度音程を視野に入れて「相」を感じ取ります。次なるオクターヴ相は22度音程方向にあるワケですが、属二十三の和音を見ればお解りになる様に、3度累積体系では22度音程では半音階を全て列挙はできない状態でありまして、半音階を網羅する相というのは23度~29度音程内の相を使わなければならない「脈」なのであります。

 半音階の方向にある音を使う為に、例えば半オクターヴという風にしてオクターヴの相を縮小させるとオクターヴが半分に分割された脈を見る事ができます。この「半オクターヴ」という相は概念的なモノでありますが、ユニゾンと単オクターヴの間に存在するという概念的な方法で得ようとしているものであって、この半オクターヴというのは共鳴的な脈を上方に探るのを実像だとすると、その脈とは逆方向の概念的に存在するという「下方」への脈を探るのと同一でありまして、私がこれまで述べてきている「下方の牽引力」が4度という「不協和」音程の凝聚に依って生み出される脈とも結局は同等になるワケです。


 抑も半オクターヴという「相」が強度を増したのは等分平均律の浸透が齎した音律社会の「張力」に依る處が大きいと思います。純正律から人々は平均律を選択していったのは自明です。愚かな者は純正律の様な淀みの無い音こそ全てと言いますが、純正律が失ったその後の社会は、「協和が濁り不協和の濁りが稀釈化した」という事を見事に投影しているのです。つまり、協和が美しくなくなったのであれば不協和が美しくなったのであります。愚かな人間は一方だけの言葉を声高に語るモノですが、自身の欲求が偏向的な人が多い人ほど両面を語れなくなるので片側の演繹が成立しなくなる矛盾に全く気付かなくなって時には周囲にまで吹聴したりもするもので厄介なモノです。

 半オクターヴ、つまり減五度(増四度の異名同音)というのは半音階組織には絶対に必要な基準です。それと同時に人間は共鳴的な器官を用いて音を聴いているので結果的には不協和な相で丁重に扱われる半オクターヴと共鳴的な相で生ずる音の脈との双方と共存しなくてはならない現実があります。オリヴィエ・メシアンの「移調の限られた旋法」には必ず半オクターヴの音が存在しながら長音階又は長和音の断片が対称的なな構造として含まれているのはこうした「共存」が非常に能く考えられた上での組織立った音列を生み出していることが判ります。


 十二音技法の界隈で用いられている半オクターヴという呼称とは少々異なり、「相」として今回用いている私の語る半オクターヴという相の「見渡し」というのははあくまでも私なりの表現でありまして、それは半音階組織に目を向ける為にイメージしやすいであろう、概念的に相を導入しているのであるという處はご容赦いただきたいと思います。濱瀬氏の「チャーリー・パーカーの技法」にもこういう表現では載せられておりませんし、何よりパーカー本人がどういう意図で減五度変換をしていたかまでは触れられてはおりません。それは先の著書で出し惜しみをしているのではなくチャーリー本人の言葉が無くとも読めばどういう意図で採り入れていた事が判るが故の事で述べられていないだけの事です。

 然し乍ら、その様にしてオクターヴ「相」という世界観をより凝聚させた方へ向けると(半オクターヴやユニゾンの相は凝聚側)、概念のシンプルさにより途端に呪縛から解放される様にして視野が拓けるのでありますから概念というのは不思議なものです。その「半オクターヴ」へのべクトルを向けさせるのは實は蓋然的な脈なのではありません。細い「轍」なのです。凝聚する側の位相の存在は「ユニゾン」という相があるからが故の、単オクターヴとユニゾンの間に半オクターヴを見る事ができるのは音律が等分平均律化したからでもあるのは疑いの無い事実でありましょう。



 ハ長調においてfis音への脈を見たい場合、通常は隣接し合う関係調(=属調)という近しい調性関係の音を脈に使えば簡単には得られますが、大完全音列というテトラコルドの組成から端を発して下属音f音からfis音の脈を探るというのは實は共鳴度からするととても遠い脈である事が判ります。調域からすると近しい音である筈なのに、です。f - c - g - d - a - e - h - fisという風に。fis音は奇しくも半オクターヴを示す音です。


 fis音という音はハ長調から見た調性外の音でありますが、「調域」をあらためて俯瞰するとfis音はト長調というハ長調における属調という関係調という近親的な調性関係にあるものの、ハ長調には存在しないfis音以外の派生音(つまりdes、es、gis、b)への脈としては縁遠いモノとなります。ところが、fis音という音への脈を、オクターヴの上方に生ずる相を利用するのではなく、元々不協和音程という関係ならば完全五度という協和音程ではなく完全四度(こちらは不協和音程)の脈を使い、五度の重畳で脈を探るのではなく四度の重畳で脈を探ると、fis音へ辿り着くまでの過程に於いて他の派生音を「半音階的」な形で得る事になるワケです。こうした脈の使い方は私のブログで以前から述べている「下方への牽引力」が言う事と同様です。


 ex.5の図を例にあらためて解説するならば、こちらの図の円形が示しているのは外縁部の黒文字が時計回りに五度圏の調域を示す物、つまり内縁部の赤文字が変化記号としてその調域の導音を示す為に必要な派生音という調号に必要な音を示している事となりますが、この内縁部の赤文字fisは時計の文字盤で云えば1時の處に位置しております。つまりト長調域であるためハ長調(文字盤12時の位置)からは近しい音ではあるものの、ハ長調というヘプタトニック以外の音を不協和な方向、つまりこの図では反時計回りに完全四度の重畳から順繰りに見渡すと、fis音は最後にやって来る、つまりそれ迄のプロセスにおいて半音階の為の脈を得ると述べているワケであります。
ex5_circle5th_4th.jpg


 半音階という突拍子も無い脈は、オクターヴやユニゾンに現われる大きな「轍」等分に分割=半オクターヴするという事でその半オクターヴというシンメトリカル(対称的な構造)でシンプルな発想が、本来縁遠い筈の脈を見付ける様になるという事なのです。


  換言すれば半オクターヴという事はfis音を得る事を意味しており、且つ五度圏の方向の逆のべクトルとなるので、四度の重畳をさせれば逆回りとなります。調域で見ればfis音の訪れは遠いものでも、調号を必要とする調の近親関係で見れば隣接し合っているだけの事です。隣接している調を態々逆方向で見ると、fis音に行き着く迄の過程で半音階の脈を得られるという概念を意味しているワケです。

 調弦という行動を実際に起こしてみれば、実体の見えない音のさらにその「相」の存在を見付ける事ができるでしょう。うなりとして朧げに表れ、うなりが消失すれば相という「轍」にすっぽりと嵌った事を意味します。こうした「相」は、本当は凡ゆる音程に生じているのですが、絶対的な存在感を示すのは完全音程であり、協和音程であります。

 調弦するという行動は音律をきちんと律するという行動でありますが、先の調弦における「うなり」の存在。この「うなり」というのも實は全く存在しないのが良いという事ではなくて、寧ろ歓迎されたりする事もある位です。その歓迎される「ズレた」音は律された音社会がきちんと存在している事が前提となりますが、色彩の世界で云えば「面色」。この相貌性のある世界観を単なる「うなり」としてだけではなく音の脈として使う時は、それはヘテロフォニー然り、微分音の取り扱い然りという風に存在しているのが音の世界なのでありますね。


 均齊的な対称構造を見付けるのは、或る意味では人間の心理的作用であるパレイドリア効果の様なものに喩える事ができるかもしれません。壁のシミや木の幹に人や動物の形を見つけてしまうような効果ですが、そもそもそうした形も、対称的構造を持っているが故の事でもあるのが特徴的な側面です。ところが人間の耳というのは共鳴体であるため共鳴という協和音程はオクターヴを真っ二つに対称的に分割しているのでもなければ、耳の器官が持つ牽引力は均齊構造とは対極にあるとも言えると思います。寧ろ均齊的な構造は不協和な世界に現われるのも特徴の一つです。

 しかし、「非均齊的」つまりこれはヘプタトニック社会の原型であるのですが、それはとても協和する簡単な整数比で表すことのできる音程比というのは實は現今の社会では積極的に取扱う事が尠くなっております。純正律が平均律に変化したという事はやはり「均齊」の為にあるのであります。しかし全音階的(ヘプタトニック)な組織ではトライトーンという三全音の均齊化された音を認識するのは不協和音の場所、すなわちドミナントが現われる、または減三和音、減七が現われる時ですが解決の為に使われる勾配なので、その先のトニック方面に先を見出すのでトライトーンという組織は過去という忘却に使っているのが楽音の初歩的な聴き方であるとも言えるでしょう。


 處が我々は耳が習熟してくると例えば視覚的なシーンに喩えるならば、壁のシミや木の幹や形に人の顔やらを見たりするパレイドリア効果の様に、均齊化された形を見付け出そうとするのは音に於ても働くようであります。茲での「均齊化」という言葉は通常、音の世界では「不協和音」の事を意味します。つまり不協和音には色んな均齊化された対称的な構造があるという事の暗喩を含んでいるとも言えるでしょう。茲、非常に重要な事実ですのでこの一文だけでも脳裏に焼き付けて欲しいと思います。


 基へと辿れば、ヘプタトニックという7音社会における「全音階の総合」という時点で属和音は常に包含される事になり、それは不協和音の包含を意味します。不協和音が協和音に解決するための道具として使われる場合、それは体系に収まることのない不協和音であってもドミナント機能として使われる事を意味するというのが青島広志氏が著書で述べていた事です。

 半音階の総合は属七の包含ばかりでなく凡ゆる「紋様=パターン」の包含を見る事が出来るのでありまして、これも亦視覚的な意味でのパレイドリア効果を投影させれば、人間というのは小難しい音にどういう脈を見出すのか!?という事があらためてお判りになる事でありましょう。すなわち、凝聚された音社会においてどういう脈を見出すのか、その脈がまだまだ判らない様な脈を使う際の音世界とはどうなるのか?そういう意味でも今度は「ノイズ」の方にも視野が拡大するのでありますから不思議な物です。

 そんな訳で、調的な脈、半音階的な脈、ノイズを志向する為の脈という物を或る程度判りやすく、いつもよりはこっぴどく語ったつもりです(笑)。

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