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不協和音の充実 [楽理]

 實に今回は暗喩めいた記事タイトルにしてしまった訳なのでありますが、一般的に協和音・不協和音というと前者=良、後者=不良という風に括られているようなフシがあるのですが、そうした誤解をまず払拭してもらってから音楽とやらにキチンと向き合っていただきたいな、と思うところしきりであります。


 濱瀬元彦氏が自著「チャーリー・パーカーの技法」において用いる「Relative Major」および「Relative Minor」に加えての6度の変換というのは大変重要な事なので是非とも著書を手に取って理解してほしいと思うのですが、つまりはジャズメン達が属七の和音をどのように料理していったのか!?という所です。濱瀬氏に依る分析がとても理解しやすい所は、属七上にて発生する本位十一度を用いる根拠と本位十一度ではない減五度音(三全音)への音の脈を大変シンプルに判りやすくチャーリー・パーカーの実演を用いて語っている處でありましょう。これらが理解できるだけでもジャズとしての醍醐味は相当得られる事は間違いありません。

 チャーリー・パーカーの技法については著書を各自で確認してもらう事としたいのですが、著書そのものに偏見を持つ様な人も居るとは思うのでそういう懐疑的な声を払拭する上でも補足的に語っておこうかと思います。濱瀬氏の語るrelative majorの最大の真骨頂は、そこに本位十一度の脈を見出す事による「sus4的解釈」に及ぶ事を述べています。これは濱瀬氏の見解ばかりでなくチャーリー・パーカー自身の発見として自身の言葉でも語られている所なのでこの辺は目ん玉かっぽじって各自で確認してもらう必要があるかと思います(笑)。

 それと濱瀬氏の著書でのリニア・ラインという名称による6度変換というのは、いわゆるツー・ファイヴ進行(=四度進行)をさらに弾みを付けるためにディグリー2から見た時の平行関係にあるディグリー=六度上=三度下を見渡して勾配を付けるというやり方が詳述されている事に加え、relative minorというモノ。

 これは減五度変換というモノになりますが、そもそも本来なら調性内には現われる事のない主音から減五度(=増四度)の音というのは近親的な調関係の脈を使う事が普通の技法ではあります。
 私がこれまで述べたように、単オクターヴ相からユニゾンの相へと「戻る」様に音の相を見つめた場合、例えばその音律社会が等分平均律でなければ、半オクターヴに位置する相の脈は、轍としてとても細く見分けがつかずみんなスッ飛ばしていたようなモノなのが、平均律社会を手にする事でこの脈(=轍)を多くの人が見出せる様になったと言えば判りやすいでしょうか。
 その近しい脈を近親的な調性の香りを使ったやり方だと概ねそれまではある旋法を変格化させたりなどしてその脈を使っていたのですが、平均律での拡大された可能性の中では、調的な旋法ばかりではなく、それこそ教会旋法には現われない風変わりなヘプタトニックの断片(=テトラコルド)を使って用いる事が出来るワケです。 ですので、一気に難しい脈でも使える脈を持って来れるという音の向き方の発想の転換をチャーリー・パーカーは既に発見していたという事があらためて判るワケですね。


 そもそもジャズを発端とするブルースというのはドミナント7thコードを調的機能におけるドミナントとして使うだけでなく、それを変格化させてつかいます。ト長調におけるG7というのはモード的にはGアイオニアンではなくGミクソリディアンを充て、和声的にはG7を映ずるという、この手の方法論はブルース・ハープやらを奏する人なら誰でも普く体得しているモード解釈の実際です。

 つまり、そうした変格化されたドミナント7thコードは次に和声的勾配を用いて調的に解決する道具として使われないスタティック(static)な使い方であると言えるのです。處が、スタティックに使うという事は調的な勾配は平衡状態でありますから旋法的な横の線としては本位十一度の音をごく普通に使う事にもなり、結果的に通常の調的社会なら経過的にしか現われないような本位十一度が非常に強調される様にもなります。坂本龍一は、こうした本位十一度の音が長和音と一緒になる和音を自身の著書でイーノ・コード(ブライアン・イーノ)と名づけて語っておりますが、YMOの「Perspective」の曲最後のフェルマータ部分のコードなどもそうですし、ピーター・ゲイブリエルの「I Have The Touch」や松原正樹の「Been」なども代表的本位十一度サウンドの最たる例でありましょう。

 つまり、ドミナント7thコードを「解決」させないスタティック(=静的)な和音として、例えばそれを一発モノとして使って本位十一度音が頻発する音社会というのは、ドミナント7thコードがトニックへ解決する調的勾配の時の世界とは全く異なる世界でして、ジャズやブルースは時としてそれを調性を拡大していくために四度進行を繰り返す道具として使うこともあれば、こうした静的な使い方も同時にしているのを常としている音社会だという事前知識が無くてはチャーリー・パーカーの技法をもっと面白く読む事はできません。そこで次の図を見ていただくともっと判りやすいでしょう。
Dom7_RelativeMajor.jpg


 さて、この図の7つの円は時計回りにハ長調域のG音から生ずる3度音程累積をしていったモノであります。Gは1度であり15度でもあるという事を指していて、時計回りに3・5・7・9・11・13度という風に累積されていく事が判ると思います。


 チャーリー・パーカーのrelative majorとは、1度(15度)音を他の和音《例えば四声体という七の和音》の構成音の深淵が共有する様にして持ち合っている音を利用して脈を探るという、つまりそれは平衡状態の背景の和声に弾みを付けるための脈であるという意味でチャーリー・パーカーはこの様にして述べているので、この辺りをもっと詳しく知りたい方はチャーリー・パーカーの技法を読むべきです。

 少なくとも先の図の15度音を「深淵」とする4声体である七の和音を使うとなると、それはA、C、E、G音という風なAm7というコード(9、11、13、15度)の脈を使っているのだという事が判りますし、G7の構成音である図の1・3・5・7度と先の9・11・13・15度音というのはヘプタトニック社会の内6音を使う事によって横の線の弾みをつける事を意味することにもなるワケです。もちろんAm7から六度上方にrelativeにFM7やDm7という風に脈を逃げ水の様にして探って行くことも可能なワケですから自ずとヘプタトニックの音社会は満たせる様になりますし、これと同様に都度調所属が変われば逐次これと同様の見渡しをすれば、その時々でのドミナント7thコードによって色んなアプローチが可能になるという事を意味しているのでありますね。


 もっと言えば、全音階の総合は必ずしや属七の体は包含されるのですが、和声的な弾みが付かない(進行がない様なシーン)場合は、均齊的な部分を頼りにして弾みを付け無ければならないのです。パレイドリア効果でも語った様に、なんでもない壁のシミやらを対称構造である人の顔やらを映じたりするかの様に実は長音階の全音階にすら均齊社会の「断片」というのは現われるのであります。それが長音階の導音を主音とする時に生ずる減三和音の訪れですね。


 調的社会ですら、長調よりも短調の方が多様に発展したものでした。それの大きな理由の一つに、短音階社会で生ずる均齊的な構造が長音階で現われるそれよりも顕著だからこそ「均齊的」な脈は度を強めるのでありまして、前にも言った様に「均齊的・対称的」な構造は不協和な社会にて生ずるモノですから、短音階社会を今一度思い返せば、短属九という短調でのドミナント7thコードに短九度の音が付加される和音というのは、根音を取り除けば減七和音の分散が現われるコトになり、長音階で生じる減三和音の分散の体よりもずっと均齊的・対称的な構造なのであります。つまりそれは短三度等音程という均齊的な対称構造なのであります。
 また、自然短音階を除く社会での、短調の第七音を下主音ではなく導音化させた取り扱いを遵守するダイアトニック・コード群の中には「短調のIII度」と呼ばれる増和音を形成するモノも出て来ます。増三和音の分散を今一度想起すれば、それは長三度等音程構造だという事がすぐにお判りになるかと思いますが、短調が多様なのはこうした均齊的な部分を含んでいるが故に多様になったワケでもあるのです。


 ドミナント7thコードというのは、それが解決に使われないスタティックな構造であれば本位十一度というsus4的解釈を使えるという事でもありますが、娯楽音楽界隈から和音やら音階やらを会得してきた者からすれば本位十一度というのはアヴォイドである為、コード表記形式に準えた♯11th音での仕来りを先に体得してしまうのも事実でありましょう。しかし、本位十一度の脈を使うという事はsus4の体得をも同時に意味しておりまして、sus4というのは完全四度等音程に依る累積の原型(断片)の姿であると同時に、完全四度等音程の過剰な累積は二度和音にも等しくなるので、私がこれまで完全四度累積による脈が二度音程の脈の為のどういう意味につながるのか!?という事もこうして考えが及ぶと、あらためてお判りになるかと思います。

 例えば、IV→Iという弱進行は、濱瀬元彦が嘗て「ブルーノートと調性」で述べている事でもありますが、こうした弱進行の必然性というのはコード進行上で物理的には生じていなくとも調的勾配を鑑みれば(このような言葉は使ってはおりませんが)、IV→♭VII→VIIdimという風にしないと「I」に解決できない、それを現今の我々の耳はそれをなぜ許容するのか、という所から語られている事を今一度思い出してみましょう。


 つまり、ハ長調域でF△→C△という「解決」の整合性を取るためには、内在的にIV→♭VII→VIIdimという進行を挟まないと調的な勾配が生じないのにも拘らずIV→Iを許容する事を今一度考えてみれば、私が今年に入って述べて来ているチャーリー・パーカーのそれとも併せて理解が進む筈です。


 その「内在的な」進行の一部「IV→♭VII」は明らかに四度進行なのですから、先の濱瀬元彦のチャーリー・パーカーの技法でのリニア・ラインに依る六度置換を行なえば、自ずとF→B♭という四度進行の先頭のコードを六度置換するコトになるワケですからDm7→B♭という風に置換することになる、と。しかし、私の知人は茲で私に疑問をぶつけて来ました。

 「折角六度変換したのにDm7が現われてしまったら、Dm7もB♭も構成音が結果的に似るだけで、コレで本当に勾配が付くのか!?」と言い出す始末。


 この知人は、楽理的な事は判りますが高次な部分で音楽を修得はしていないタイプの人間です(笑)。そこまで気付いているのならば何故もうちょっと先まで考えが及ばないのか、このアホは!?と思い、彼には直後、罵る様に教えて差し上げ大層納得しておりましたが(笑)、先の6度変換した事で得られるDm7というのはハ長調域のDm7とは違う事を認識しなくてはならないのが重要な点です。

 通常、ハ長調域でのDm7というのはスーパートニックで現われる和音ですが、IV→♭VIIプロセスの6度変換というのはつまりそこで発生したDm7はスーパートニックのマイナー7thコードではなく、メディアントのマイナー7thコードであるのです。

 つまり、ドリアンを充てるDm7ではなくなるので、この時点でモード・チェンジがスルリと行なわれる筈なのです。これが視野に入っていないといけないのです。これまで数回に及ぶ私の先のブログ記事内でも日野皓正の曲を例に出して、既知の四度進行を例に挙げ、四度進行を六度置換させる事によって得られる最大のメリットは、「長調のツーファイヴと短調のツーファイヴ孰れも拏攫できる」という事でした。つまり、今回例に出した場合の「F→B♭」プロセスでは、Fの時点ではまだハ長調に調所属がある事を映ずるのが普通のアプローチでしょう。しかし六度置換を行なうと、Dm7をドリアンとして見立ててもイイのですが、B♭が現われる前にDm7の時点でそれをメディアントのマイナー7thとして捉えることで背景に想起するモードが自ずとDフリジアンという事になれば、ハ長調だけの調所属よりも更に弾みが付いたモード・チェンジが行なわれる事は自明です。つまり、六度置換はこうした拡大した可能性を語っているのですが、あまりにシンプルなチャーリー・パーカーの言葉と贅肉を削ぎ落とした隅々まで配慮された濱瀬氏の言葉に理解が及ぶ者がどれだけ居るのかと思うと少々気がかりな所もあるのです。

 なにせ、私がこれまで語っている楽理の事も、これまでの体系として多くの著書が述べている事が殆どなのですが、それと同じ著書を読んでいる筈の人間には理解に全く及んでいないのが多いのも悲しい現実だったりするので、自分自身の理解の無さを責めるどころか著者やら私のブログを攻撃して越に浸っている馬鹿共が居たりするのですから情けないですね(笑)。フーゴー・リーマン、ヒンデミット、クシェネク、シェーンベルク、パーシケッティーの著書を読んで、濱瀬氏もこれらの人達の著書は当然の様に理解しているからこその著書での発言なのでありますが、読み手の多くは殘念乍ら少なくとも濱瀬氏どころか私より理解に及んでいない様なのが多かったりするのが現実です。そんなのが楽理にケチ付けてオカルト扱いしたりするワケですから現今のネットとは本当に信用するに足らないと思うことしきりです(つづく)。

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