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耳にとってもやさしい簡単な音程比♪ [楽理]

 音楽学やら音楽理論方面というのは、誰も彼もが同じテキストを読んで教養を得ているにも拘らず、理解度となると千差万別であるのは今に始まった事ではありません(笑)。



 その「千差万別」の状態を繙くと、ある一定以上の理解に収まることのできなかった連中に依る勝手な解釈が曲解を生んでしまう事で正答の姿を澱ませる、それがあまりに酷いので千差万別という不揃いの連中はこうして律する所を乱す訳でありますね。

 そうした連中というのは私の周囲でも理解に甘かったりするのは居たりするものですが、理解に甘いどころか理解に脆弱な為に陥穽に嵌り続けてしまう類の連中も能く見て来たものですし、こうした連中は今も昔も普く存在する事でしょう。絶対的な数で言えばこうした連中の方が多いでしょうからね。この手の人達というのは大概自身が得意とする器楽的な経験は有しているものの、大抵ひとつの楽器に固執してしまっており、さらには本を読む事が苦手で、さらには元来理解することに甘いため何もが皮相的理解に及んで人の話を最後まで聞かずに自身の知的好奇心のスイッチが入って仕舞うと途端に曲解に歩を進める事で誤った「オンリー・ワン」を目指そうとしてしまう様な人に多いのであります。そのクセ正しい理解を必要とする方面にはやたらと正答を急く所があり、全ては自分自身の興奮によって理解の大小を決定している事に自分自身が気が付いていないという悪癖を備えているというのが共通点でもあるでしょう。

 今や意味不明の雄叫びや、他者の言葉を借りただけの自分自身がよもや発信源となる事になんの意味があるのかも判らない情報発信がネット、特にSNSでは行なわれているのが実際です(笑)。皮相浅薄な輩が離合集散を繰り返しているだけなのが殆どなのであります。こういう連中が多数を占めているからといってその潮流に乗ってしまうのは結果的に自身も判断に甘いという事を如実に表わしているモノでもあり、きちんとした理解のためには少々の苦労は味わわなければならないという事を先ずは知っておかなくてはならないでありましょう。
 

 例えば音楽面での純正律の件にしても顕著でして、器楽的側面の理解の前に「字義」が与えてしまう本来の価値以上の”言葉の重み付け”が発生してしまって、純正律とやらの音をきちんと理解する(音として)前に必要以上の言葉の重みをそれ以上の「価値」を伴ってしまうので純正律はそれこそピュアでオーセンティックであろう、というおそらくや音の”処女性”に近い様なものと同一視してしまう様な人達がいるので落胆と同時に驚くべき側面なのであります。

 純正律のそれは簡単な整数比によって得られるという「音の轍」が完全に揃っている真正さを持つワケですが、この「真正さ」とやらが過剰に価値を得て一人歩きしてしまい、他の音律例えば平均律などと比較する際、純正律の様な揺ぎない音こそが全て!とばかりに、他の音律はうなりが生じて忌避すべし!などと持ち上げてしまう連中が居たりするのだから困ったモノです。


 記憶のメカニズムというのは、ある情報を得た時に、神経回路が作られる。これが「反復」される事に依って集積され「経験」が「記憶」となります。

 さらに反復を繰り返すと、神経回路が深部に到達する迄もなく周辺の回路で十分な様に集積されていきます。つまり、初めて宅配に訪れる客の家にナビや地図をあれこれ確認し乍ら訪れていたのが、経験を伴うと地図を確認する必要がなくなるのはこういう事です。

 しかしその一定以上の「反復」が繰り返されると今度は「惰性」となってしまい、地図の確認という作業の重要性が忘却の彼方へと葬り去ってしまい、確認という重要な事をスポイルさせてしまいかねない。この惰性が生れてしまうと初期の記憶において何が重要だったのか!?という「事の起こり」の為の必然性の理解が全く判らなくなってしまうので気を付けなくてはならないのです。


 例えば、ある接客業において「ありがとうございます」「すいません」の言葉を覚えさせるとします。この経験があまりにも日常で多く発生していると反復はやがて惰性へとなります。反復が悪いのでなく過剰な反復が惰性を生むのです。

 そうすると、本来その言葉の意味は今一度「字義」というゲシュタルトひとつを確認するだけでも本来の慮る作業を思い出す事ができるでしょうが、「すいません」という言葉と同時に必要な「まごころ」を欠いて言葉を発するのが「惰性」です。惰性が発生している事に気付かない愚かな連中が「こういう時には《すいません》という言葉を常に使っていれば問題無い」とばかりに基本を忘れて紋切り型対応になってしまう。これがマニュアル社会の弊害と愚か者を生むメカニズムの正体なワケですね。愚か者がクレーマーを呼び込むのです。クレーマーお断りの筈なのが、クレーマーを招く、と。


 「すいません」という言葉は何の為に発する言葉なのか、その言葉の字義以上に必要な物はなにか?単なるゲシュタルトとして脳の神経回路が集積された時に誠意を呼び起せないのは、誠意とやらをきちんと知らないから、目先の相手が手を引っ込める迄は解決しない事となるワケです。

 實は音が持つ「ゲシュタルト」というのも存在していて、人間というのは本来音に対して平等に接しているはずが、自身の器楽的な能力が脆弱な人ほど偏向的にある音に対して重み付けを行なっていたりします。
 
 例えば、楽理的な側面など全く理解していない幼い子供が調性に寄り掛かった7音の音を駆使してオリジナルな曲を浮かべて鼻歌をくちずさむ事ができるように、この子には既に調性という感覚が成立しているので、リズムやそれ以上の音の脈を生むための「言葉」やらを揺さぶりのためのツールとして与えれば与えるほど調性に乗っかったフレーズをオアシスの様に浮かべる事は間違いないでしょう。
 つまりこうした作業が反復となりその後惰性化してしまえば、この子は実はメロディー・メーカーなのではなく単なる文学性とリズムがキッカケとなって音を生む揺さぶりにしか過ぎない動機がメロディーを生むという
源泉に過ぎなかったのだという事がお判りいただけるでしょう。
 處がこのように「顧みる」事をしない場合、自身をメロディー・メーカーだと盲信してしまう事すら気付かない状況を生んでしまうワケです。


 この「顧みる」という作業、音楽方面では概して「弁証論的」解釈という言葉で語られている事であります。


 音波というのも、簡単な整数比こそが脳神経にとって楽な整合であるが故に、低次の倍音が理解し易く、亦その方が脳神経的にもラクな作業なのであります。換言すれば、振動数が簡単なものではない高次な音の脈を聴き分ける様になるには脳神経の集積が高度に集約されなくては無理だという事も意味します。

 仮に自然倍音列中の第1~第6次倍音を抜粋してきてそれらの6つの倍音を同時に鳴らした場合、第1次倍音の振動数の1サイクルを脳神経が知覚する間に第6次倍音はその6倍の6サイクルを聴く事になります。和声的な音を耳にした時高い方の音が聴き取りやすいのはこういう事に起因するものです。低音が水中の深い所にある様な感じに聞こえるのは、低音の周波数(振動数)の1サイクルを聴く前に高次の倍音を聴くからが故の事であります。

 五度音程というのは共鳴でありますが、三度音程というのは五度音程の分割であります。ですから三度の集積の体というのは音の脈として脳神経的に拾ってきやすい脈であるのです。ところが二度ベースや七度ベースの様に、三度集積から外れるタイプの分数コードが途端に難しく聴こえるのは五度分割である三度の集積の少ない脈で現われてくれる脈ではないので脳神経の習熟が未習熟な人にとって体得しにくい脈であったりするのが実状なのです。


 低次な倍音というのは脳神経回路の側から見て「知覚にやさしい」だけの事であって、脳神経の集積はこれにて成長を止めるワケではありません。しかし、聴き手としての「宿主」(=主人)がそこで満足してしまって簡単な脈ばかりの音楽ばかりを耳にしていれば、知覚の集積はなかなか高まらないのも事実であります。

 さらには、字義からは「純正律」というのは大層真正に映るかもしれませんが、これは単なる字面がそうしているだけの事で微分音よりも純正律が良い、という事など有り得ません。事実、人類はまちがいなく平均律を選んで来ているワケですから。


 音律というのは五度か三度に「重き」を置く事で大別されるのでありますが、五度も三度も重きを置けばそれは「純正律」であります。ところが純正律の音の並びは「いびつ」なのであります。広い全音もあれば狭い全音もあります。純正律と比較した場合、平均律は五度にも三度にも重きを置いていないのでは!?と反論する人がいます。等分平均律とて重きは置いておりますね。「オクターヴ相」には(笑)。


 いかなる音律が特定の音程に重きを置こうが、それ以上に横たわる音程の優位性というのを飛び越える事はできません。我々の耳は、次の様な振動比を聴き分ける事を是とし、その「是」とは知覚の易しさに起因するものであります。
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 例えば、今回例に出した図の音程振動比は、とりあえず今回は4:5までの音程比を見れば十分な理解となりますが、単純な整数比且つその整数が順次隣接し合う整数比というのは聴覚という知覚レベルの領域では、とても易しく知覚出来るのが人間の聴覚だという事は大前提の知識として知っていて欲しい處であります。

 隣接し合う整数同士というのも重要な事であり、今回の図ではあらわれていない「80:81」なんていう整数比も實に重要な振動比である事は言う迄もありません。特に弦楽器を奏する人なら実感する事でありましょう。狼音(ウルフ・トーン)の振動比ですね。純正律に敏感な方ならこれを知らないのは有り得ないのです。この体得が無ければ純正律を取り扱う事など言語道断レベルなのであります。しかし、ここまで「高次」な音程比を操ることがなぜ重要なのか!?それは大きい全音と小さい全音の差異を知らなければならないのと同時に、純正律というのはその歪(いびつ)な並び故デリケートに扱わざるを得ないワケです。こうした差異を判っておらぬ輩が字義だけで純正律を是とするような愚か者が純正律とやらを吹聴していたりするのです。

 また、純正律が五度にも三度にも重きを置いていたとして存在しようとも、先の音程比に現われる様に、3:4の振動比の優位性が2:3の優位性を越えることなどまず有り得ませんからね(笑)。3:4の振動比に近しい平均律の振動比であっても同様で、どちらが良いor悪いではなく、整数比ではないとしても音律におけるこうした音程の優位性という相を飛び越えることはまず無理なのです。つまり、未習熟であればあるほど、低次な音程比の脈(=相)が強い牽引力として知覚に働くのだという事を意味するのです。とはいえ耳が習熟されたとしてもこの牽引力そのものが変わるワケではありません。高次な音の相も牽引力が強まるだけの事で、低次な音程比の牽引力が弱まるのではない事も肝に銘じておく必要があります。


 というワケで、音楽の歴史において人間は純正律を選択して平均律を選択しました(笑)。純正な音程比というのは調律のための相貌的な「道標」の様な尺度として存在するようなモノだと実感する方が解釈としては宜しいかと思うのでありますな。そもそも純正律が美しく、それと比較して平均律が汚いと思っている人がきちんと音を認識出来ている筈がないのです。ソコを先ずは語っておこうかな、と。


 純正律というのは、ある音程に対してとても「ピュア」(笑)な音程比として響きます。しかしそこから生じるヘプタトニック(=7音社会)を見てみると、實に歪《いびつ》な構造でありまして、全音程ですら等しくない小全音と大全音が生じているのでありますね。私が詳述する事も無いのですが、先述のウルフ・トーンや音程比80:81など、その辺に註力して資料をかき集めれば自ずと理解が進む側面の事であります。



 希代の耳が研ぎ澄まされた現代音楽作曲家やらが純正な音程や純正律を態と採り入れたりする事があります。これはピュアな音の相を求めているのではなく、その「歪」な音がいちいち気になってそこに「脈」を生ずるのですね。その歪さに注力しているのでありまして、歪で不均一なそれを「不協和(不調和の方が適切か)」として考えて使っていたりするモノでもあったりするのですね。純正なクセしていびつ。それが純正律なのであります。

 純正な音程比とて単オクターヴという循環平均律法ばかりで考えるのではなく、オクターヴ相ではなくオクターヴ相毎に同じ音が発生しない「不揃いな」平均律、つまり不等分平均律は直線平均律法、これはシュトックハウゼンの『習作II』においても先に述べた通りであります。


 つまり、あらためて言いたい事は、純正な比率からさらに細分化させる事と、純正律を棄てて平均律という混濁の側の世界を選択した事は、結局はどちらも不協和な世界を目指しているのであります。純正律が平均律を選択したという事は、協和音程が協和でなくなり、不協和がより綺麗になるのと同じです。純正な音程比をさらに細分化(微分化)するのは協和が不協和に寄り添う事と同じです。つまりこれらの事から言えるのは、我々は単一なオクターヴ相をひとたび見せられれば、判りやすく存在する音の相など要領の判らない子供達でも判るくらいに相という色んな轍を見つけて来れるモノなんですよ。音階の事など詳しく知らないのに、調性に凭れ掛かって曲を作る子供の存在など珍しいことでもありません。

 
 こうした背景を全く論ずることなく純正律ばかりを礼讃するのは、不協和な世界に無智だからこそ吹聴しているだけなのではないかと思うことしきりなワケです。音の「処女性」!?そんなモンを勝手に価値を与えてしまって、いざ処女が操を捨ててしまえばその女は途端に処女という看板を捨て価値を失いかねず、直後にはぞんざいな扱いをする男が捨てにかかるという、そんな男が真に女を取り扱えると思いますか!?(笑)。この言葉での女を「音」に置き換えれば判るってぇモンでしょう。勝手に純正な音に価値を与えているような奴に、音が判るワケがないんですよ(笑)。


 直線平均律法にて音を出せるシンセサイザー、少なくとも私ならばMax/MSP程度しか頭に浮かびません。NIのReaktorではどのようにパラメータを設計すればいいのかピンと浮かんで来ませんし、何よりハードウェアでそうした方面まで音を設計できる製品の存在を私は知りません。そういう音社会をケルン派と呼ばれる人々は、半世紀以上も前からああした先進性を持っていたのは、音楽家ばかりでなく物理学者やらも参加していたから故でありましょう。


 殆ど耳にする事が無い様な音組織とはいえ、本当はこうした背景をきちんと知っておくと音への魅力というのはもっと探究心や知的好奇心の向く先に意味を感じて突き進むでありましょう。二十世紀ではそれを「futurist=未来派」と呼んだのであります。その一方で、シンセという電子音さえ使えば、機械やその音のキャラクターが持つそれ自体だけで飛び道具的な振る舞いを見せてしまいかねないのでそれを誇張してしまうのは危険であるという側面を慮り乍ら発展して来たという所も忘れてはなりません。

 つまり、嘗ての廿世紀という旧い時代においても、音楽に無智なような輩が、やれシンセ担いで音出してそのキャラだけで人から注目を浴びるという愚かな行為にならぬようにしようと心掛け乍ら発展していたという背景があったという事を忘れてはならないという事です。シンセという誰もがその魅力に没頭しそうな時に、その魔力だけに溺れてはいけないという批判がきちんと出来るのは、音楽を弁証論的な方面から批判を出来る確固たる人間の存在と、それをきちんと知る史実的な意味でも過去の体系を利用し乍ら音を理解して来た人達の弛まない努力があって、現今の社会にシンセが存在しているという事を決して忘れてはならないのであります。シンセ的な音の魔力だけで音を作れることなんぞ、今や10万、20万円程度あればソコソコの音を作れてしまうワケでもありますが、体系も何もしらない様ななのが飛び道具的な音を出す事は出来ても、決してシュトックハウゼンの習作IIの様な領域の音は作ってこれないモノでして、それは音ばかりがシンセ的なキャラを使うだけの、幼い子供が音階の事など知らずに調性に凭れ掛かった曲を作る事が出来るそれと何等変わりは無い、という事です(笑)。


 プリーベルク著の「電気技術時代の音楽」では、こうしたいかにもシンセ的な音の事を「形而上学的」という表現を用いており、そればかりに溺れない様にする為の弁証論的側面からの批判も忘れず、さらに微分音社会やらもきちんと取り扱って表現していてとても興味深い本なので、死ぬ前に一度は読むべき五指に入る音楽の良著のひとつなのでご存じない方は是非一読される事をお勧めします。


 でまあ、こうした先端的な方面の不協和とは別に、古典的な方面からひとつひとつ不協和音という足場を固めていった社会というのは、半音階組織つまり平均律がスタンダード化してきた以降の和声の取り扱い方という風に捉える事が出来るワケです。


 抑も不協和音の充実とやらは、後期ロマン派では特に顕著だったでありましょう。複調的に生じる和音の集積が不協和音の充実となっていった訳ですが、属七の和音に別の調性由来の和音を重ねたりするような和音も珍しくないのでありまして、ストラヴィンスキーの「春の祭典」以外でもそうした複調由来の和音というのは活発に使用されていたのであります。

 半音階組織の社会で音を見渡せば12音を見渡せる様になるのですが、7音を見渡した時点《全音階の総合を見渡した時点》でトリトヌス(=三全音)の包含を見付ける事となります。つまり、それ以上音を重畳させていけば必ず2組以上のトリトヌスを包含する和音という事を意味します。

 現今の娯楽音楽界隈を例に挙げれば、ドミナント7thコード上でオルタード・テンションを用いれば自ずと複数のトリトヌスを含む和音を使う様になります。コード・ネームという方面で体系化が整備されたこの様な社会では、ドミナント7thを基にした複数のトリトヌスの包含がある和音を見付ける事ができますが、広く見渡せば、属七の体を基としないタイプの物も存在するのであります。

 ドミナント7thコードを調的なドミナントとして見ずに変格的に見る事と、和音が集積されて数多くのトリトヌスが凝集される世界や、集積された不協和音の構造の中に均齊的・対称的構造を見出す理由がなぜ重要なのか!?という事をこれからも語っていく事となるので、これまで語って来ている大前提への知識は蔑ろにしないでほしいと思うことしきりです。

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