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主体と客体 [楽理]

 扨て茲の處、半音階どころが微分音迄も視野に入れるかと思いきや、純正律にて生じる単純な整数比に伴う音程や調性やらにも目を向けているのがお判りかと思いますが、これはひとたび不協和という難しく響く音に対してきちんとした前提となる理解がなければ、音楽そのものに耽溺する自身の行為すら貶める事にもなるので語っているのであります。難しい音など理解できないがために簡単な音程比に耳傾けてその魅力を小難しく語れば、簡単な音を難しく語ることはシュトックハウゼンが習作IIにて導入する直線平均律法の脈と大した差は無く、向く先は結局同じになるのです。しかし、それをきちんと咀嚼できなければ消化不良を起こすのは自明の事でありまして、こうした立ち居振る舞いに気付かずに自身の欲求任せだけで物事を推し量ろうとするのは如何なものかと思うことしきり。


 《欲求任せ》というのは何を意味するのか!?抑も欲求というのは快楽、苦痛、怒りに伴って生じた末の感情なのでありまして、それに任せられている心理状態というのは風を操るヨットどころか、糸の切れた凧や強風に舞うゴミ袋状態と言って差し支えないでしょう(笑)。というのも、感情の起こりとやらをきちんと繙くと次の様な事が判ります。
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 例えば、怖い思いをした時に鳥肌を立てるという反射。「鳥肌」が立つという事がどういう事に起因するのかという経験に基づいて我々はその経験に「従順」であるがゆえに《怖いものを見るから鳥肌が立った》という風に認識してしまいますが、知覚レベルにてこのメカニズムを繙くと実は、《鳥肌が立ったので怖いのだ》という順序が正確なものであると言います。つまり、怖いが故に鳥肌が立つのではないという事です。


 それが意味する物は、鳥肌という一種のサインが感情の宿主に一所懸命「警報」を報せている訳ですね。この「警報」は時には体を温めてなくてはならない為の震えに起因する事かもしれませんが、温度とは直接関係の無い「恐怖」に触覚としての温度のパラメータは脳には無い。つまりそうした警報ありき、というメカニズムの後「恐怖」というゲシュタルトが生じるワケですね。大半の人はゲシュタルトとして認識してしまう方が事の解決に速やかになってしまっているので、順序あるいは優位度を逆転させて覚えてしまうという訳であります。


 こうした知覚レベルでの一種の「誤解」というのは音を聴くというシーンにもあるワケです。例えば我々は音楽のたかだか数分~数十分の間に色んな感情を投影させておりますが、ある体系の響きが鳴らされると誰もが同じ感情になるという風に体系が作られているワケでもありません。ドミソという和音を鳴らされたら誰もが皆同じ感情を抱くというワケでもありませんし、同じ音高であろうが異なる音高であろうが、特定の感情が音に組み込まれているワケでは決して無いのでありますね。


 然し乍ら、長和音と短和音を聴く時に多くの人は前者を明るく感じ、後者を暗く感じるとはいえどそうした音程を耳にすれば誰もが必ずそう感ずるというモノでもなく、長和音を聴けば泣きじゃくる赤ん坊が泣き止む、というワケではないのも自明です(笑)。但し、知覚レベルに於ては根音側に簡単な整数比の「落ち着き」があったり、5度音に整数比の「落ち着き」があるという事が起因して、透明な水を覗くor深い水を覗き込む様な知覚が働くのでそれが起因材料となっているのは疑いのないところではありますが、簡単な長三和音(トライアド)の響きとて根音の振動数1サイクルを聞き取る前に5度音の1サイクルはそれ以前に捉えているので、高い音が最も聴き取り易いというのは以前に述べた様に、音に対する一種の『勘繰り』という感情の起りが、各人が音に対して思いを馳せる&メッセージを詰め込む「間隙《かんげき》」として使うので、人々は器楽的な素養などの門外漢であろうとも音に対しての独自の解釈を詰め込んだりするのでありましょう。


 扨て、茲で「門外漢」と出て来ました。それが意味するのは器楽的な能力に未習熟な人を指しているのでありまして、楽器を奏する事が不得手、読譜力に乏しい、楽理的側面に疎いという色んな状況にある人を概してそのように括ってはいるものの、健常者であれば誰しもが歌唱する事はできるので、或る意味最低限の器楽的素養は本来誰しもが有しているので、そこに音の知覚という物が加味されている為、門外漢であろうとも知覚する音に対して云々するという行為そのものは悪いという訳ではなく、健常者なら誰もが有する知覚レベルの事なので、半可通がついつい自身の欲動と言葉に任せて語れてしまうという側面も当然乍ら存在するのが実際です。




 2014年に入って非常に解り易いセンセーショナルな事例が音楽界にて話題をさらっております。所謂ゴーストライター騒ぎですね。佐村河内守氏著作とされていた作品を手掛けていたのが實は新垣隆氏だったという件ですね。


 音楽の創作、つまり佐村河内氏は実際には「指示書」なる物を書いただけで作曲自体はしていないという事ですが、結論から言えば彼の「指示書」というのは正直な所、創作活動の一部を指し示す重要パラメータの集成とも言えるのです。それが陳腐な物だと外野が声を上げようとも、です。勿論それが現代音楽分野の方でも用いられている図形楽譜というグラフィクスの類のそれとは似て非なる物でもありますが、指示だけに収まっている事は作曲活動として認められないのでは!?という事に関して世間を賑わせているのがひとつなのですね。

 但し仮に逆のケース──それは新垣氏が当初から自身の作曲という衆知となっていた場合──を考えると、新垣氏一人の創作に関して實は佐村河内氏の「指示書」という客観的な揺さぶりが曲の「設計」にとても重要な役割があってそこで著作を佐村河内氏が共同クレジットをして欲しいと懇願した場合、これは新垣氏独力の健全な作曲活動と言えるだろうか!?という事にもなりかねないのです。こうして先の両面は異なる事象ではあるものの結局は似た所に行き着くワケです。それは、作品そのもの=「音」というのは、作者や生まれた過程がどうあれど著作者が後になってあれこれと言おうとも、出て来る音はそれ以上にもそれ以下にならないのであるという事です。価値というのは人間の心・耳に届いてその後主観が判断し、それに付加する価値は主観の集合体が誇張させていくのであり、これはどんな作品でも人間が判断する以上至極当然のことでもあるのです。


 私が今回の騒動に考えが及ぶ事は、おそらく新垣氏という人は器楽的素養を備えた人で且つ奇しくも彼自身がゼロから音の線を生み出す事が苦手であったと仮定しても、ほんの少しのモチーフという動機の欠片をもらっただけで曲を作り出すというタイプの人間であったのではなかろうかという事。ゼロから作ることを得意としていようがいまいがそれは関係なく、単なる指示書であっても通常の五線譜でのやり取りとは異なるそれが、音楽的なイメージを膨らませてしまう程一般的な音楽的な共通メッセージ(=五線譜)とは異なる處に創作意欲を揺さぶられるというのもあったのではないかと思うワケです。ある意味では佐村河内氏との関係は、一蓮托生という側面があったからこそ始まったのではないかと思います。この共作が音楽界の蹂躙という事はなく、出版会社や著作管理会社からすればの蹂躙であるかもしれませんが(権利の帰属がややこしくなる)、共作そのものを独力だと欺こうが音の在り方は何も変わらないのであります。


 図形楽譜というのがありますが、実際の図形楽譜というのは既知の五線譜が視覚的な優位性を持ってしまって作者や奏者が感覚として持ってしまっている「偏り」を排除する為に用いられていたりするのでありまして、共通言語としての楽譜は必ずしも五線譜ばかりを是とするモノでもないのも是亦事実なのであります。あの指示書を見て「こんなモン、なんでもない」という風に断罪するのは簡単です。しかし、その楽譜としての無意味さ故に、徒に音楽的素養を備えたものはその空虚な「楽譜」から音を読み取ろうとする英知を持ってしまっているのも事実なのであります。換言すれば、子供向けの平仮名しか書いていない絵本の五十音に対してひとつひとつ音高を指示して、その一定のルール(=指示)に基づいて「文字通り」弾かせれば音楽となる様に、五線譜という一般的なやり取りばかりが音楽の創作ではないのも是亦事実なのであります。


 新垣氏本人が実際に創作活動の初動に於て発想が稀薄であり他者に頼らざるを得ないのかどうかは知りません。亦、逆に他者の力を必要とせずに交響曲を書き上げる人だとしても、一定以上の音楽的素養があれば、一見無意味な「指示書」からも自身の感性に揺さぶりをかける道具となるのは明らかであり、身の回りのそうした要素を肥やしにして創作したのは間違いないでしょう。


 とはいえそうした創作活動とやらは作曲者が「替え玉」だったという、半可通でも食いつくことの出来る恰好のネタである為外部からやいのやいのと騒ぎ立てる事が可能で、しかも音楽はそうした一連の騒動の前後に依って音楽としての在り方がそれ以上でもそれ以下になる事も無いのに、人間というのは自身の手前勝手な重み付けによって音楽の価値を決定付けてしまうのだから酷いモノです(笑)。

 こうした件で最も留意しなくてはならない点は、この一件を境にして作品そのものを矮小化させて叩いてしまう事でありまして、そのような行為は避けた方が賢明です。何故か!?それは、音楽というものが人間の「主観」に依っていくらでも解釈(歪曲含む)が可能であるという事をも露呈する事となりまして、言葉巧みに、音楽につきまとう表現を幾らでも駆使して言いくるめてしまう事を結果的に露呈する事になるからです。つまり、こうした騒動の後に途端に掌返しをするのは、それ以前もきちんとまともに見ていない事を露呈してしまうのです。それを鑑みるには、なぜこの様な騒動が起こる以前に作品そのものが興味を失う事がなかったのか!?という所に答があります。

 どんなに音楽を冒涜するものだとか味噌糞に言われようとも、騒動以前に作品そのものに懐疑的であった人がいてもその発言力が作品を表舞台から葬り去る牽引力が無かったのは事実。つまり、騒動以前は間違いなくこの作品に一定以上の人々の欲望が働き作品の質に価値を見出し磨きをかけていたのであります。勿論私のいう「磨き」というのは人々が幾ら磨きをかけ様ともそれ以上でもそれ以下にもならない物だという事を意味しておりますが、一般的な心理からすればプラスの価値を見出す好意的な価値があったのだから今更作品の価値の是非に就いて論ずるのはそれこそ無意味でしょう。騒動の件がこの作品にミソを付けることがあっても作品そのものは不変であると言いたいのです。


 物は言い様だから・・・と腑に落ちない人がいるかもしれません。騒動に準ずるように自分も石を投げてみたくなるかもしれません(笑)。しかしそれはグッと堪えた方が肝要でしょう。

 
 能く、音楽界には次の様な人の発言に遭遇することがあります。


 『音には人間性が滲み出る。音には人の心が表れる。心が汚い人間の音はすぐ判る。私の選んできた音楽は素晴しい。』


 こんな事言っちゃってる人って、私から言わせれば詭弁に過ぎません(笑)。しかもかなりの音楽的素養のある人でもこの手の言葉を使ったりするので、名声のある人がこの手の言葉を使うとフォロワーが登場してしまうのが困った所なんですが、器楽的・音楽的素養のある人というのは音楽そのものの器楽的な音と、音が存在する空間の音、音と音が連結する「間」の雰囲気やら、全ての雰囲気や音が変化するほんの僅かな「要素」の端々に気付く事が多くなるので、そこに”あたかも”心を宿すようにして音を図太く聴くのであります。クラシック界隈だけではない、ギタリストのチョーキングひとつで聴衆を酔わせる人が居るのは、そんな「僅かな音の変化のパラメータ」を個性的に操るから人々の心を酔わせるのであって、私ならジェフ・ベック、ジョー・ペリー・デヴィッド・スピノザのチョーキングにはとても心酔できるモノです。


 しかし、音の細かな変化の操作の何処其処に特定のメッセージを宿すのか、というのはこれは聴衆の手前勝手な推測にしか過ぎず、奏者が念じていた事をそのまま聴衆が全く同じように感ずる事など到底不可能な事なのでありまして、そんな事が可能ならそれはもうエスパーの世界なのでありますね(笑)。エスパーという言葉があまりに乖離し過ぎた表現である事を考慮してそれをエスパーとは言わないまでも、ある一定以上の音を奏する技術や変化の為に行き着く表現手段というのは確かにあるので、それらを、同様の共通認識として齎す某かの作用とやらに何等かの共通性はあっても、その共通性はそこに到達する人の共通する領域であるにしかすぎず、聴き手としてそこに共通性を見出した事を手がかりにしてそこに人間性が滲み出ると言ってしまうのは、偶々それまでの歴史に悪人が居なかっただけの事で、音楽好きであればどんな性悪な人間でも音楽には大概従順で素直に向き合っているモノですよ(笑)。それを人間性を投影するかの様な表現で以て自分自身の価値を高めたい、事実とは本当は異なる言葉の上だけでの表現で自分の好きな世界を誇張してみたいというのが先の表現の行き着く先の事であり、決して音楽家の心や人間性など投影できないモノなのです。


 演奏を聴くと、弾き手の人間性を理解できるそんな特殊な能力を持っている方とやらが、なぜ佐村河内氏や新垣氏の企図を見抜けなかったのか!?そんな「詭弁」を免罪符にしてしまう程、彼らの創作活動の方が「悪」だったのでしょうかね?(笑)私は決してそうは思わないのですが。普段から詭弁ばかり駆使している輩こそが私は本当の悪であると考えている、という事です。


 彼らの創作は、著作権利の拠り所を失うのでその版権を取り扱う所が迷惑を被るだけの事で、その創作でこれまでの音楽の本当の価値を掌返しをする様な風潮こそが私は許せませんね。旨い旨い言って食ってたら車エビじゃなくてブラックタイガーだったとか、そういうモノとも違うんですよ。親の手料理だと思っておふくろの味だと思い込んでいたら、見ず知らずの人が作っていたという喩えが一番近いのかもしれませんが(笑)。



 きちんと前もって向き合っていたのなら幾らでも批判していいのか!?という事ではないですよ。音そのものにきちんと向き合っていれば、パレストリーナの頃からペンデレツキの辺りまで統一性の無い様式もあったモンではないなどと揶揄できるとかそういう事ではありません(笑)。時代背景や様式など無関係に、作者が凡ゆるファクターを揺さぶりとしての道具として使って組み立てた作品そのものは不変なのであると言いたいワケです。この作品の価値は必要以上に低められて演奏される機会は殆どなくなるでしょう。しかし、その稀薄なシーンはやがて別な側面で価値を生み、音楽とは異なるパラメーターの提示から組み立てられた作品として後世の傍証のひとつになることは確かですし、どこまでが創作活動でどこまでが「作曲」活動の否定と肯定があるのか!?という事は、おそらく共謀(!?)した二人の感性の中でしか明かになっていませんが、多くの人も認めるその作曲活動のための大事な共通認識として線引きというのは、「オリジナル」性を向いているのだろうというのは容易に推察に及びます。ところが、調性にベッタリ拠りかかっただけで音の羅列が「オリジナル」なのかどうか、という点の疑問も私は抱いていて、それなら楽理的背景等素知らぬ子供の鼻歌まじりの作曲の方が佐村河内氏や新垣氏のそれよりも作品として賞賛すべきものであろうか、というと是亦違うワケですね。


 つまり、作品という形がオリジナルであればどうでも良いというワケではなくて、音楽を別な角度から誇張させている体系・様式美などそれらを踏みにじる事がたたき台となってしまっているのは、「音」や「曲」そのものを真の意味で客体的に捉えていないのでありまして、佐村河内、新垣両氏の企図を音楽面で咎めることはそれはお門違いだと思います。作品を利用して利益を得ようとしていた人からすれば飛んだ災難であるという事です。


 自分自身が作っていたモノではない、という事に健常者もハンディキャップスも無関係な事です。とはいえ、ハンディキャップは往々にして美的価値の閾値を低める所があるので、健常者であるなら受賞しないような、それこそ言葉は悪いですが「お涙頂戴」的に与えられる類の作品と、件の新垣氏の作品は雲泥の差はあるかと思います。勿論人に依ってはハンディキャップという箍が取れた事で辛辣なほどに作品そのものを蹴落とそうとするでしょうが、それも前述の通り、音楽と真摯に向き合えば向き合うほど無意味な論争となります。出て来た音楽はそれ以上でもそれ以下でもないのです。



 ハンディキャップという「いたわり」の気持ちは新垣氏本人も有していたのではなかろうかとは思います。佐村河内氏の障碍そのものが偽りであるかもしれないと迄騒がれるようになっていますが、彼が実際に耳が不自由であろうとも、耳の不自由な者が出自を偽った事に対しては障害者だから罷免されるという事ではないでしょう。ハンディキャップスの人にもそうした人は居るのだなぁと感じればいいだけの事であります。

 それ以上にお咎めを受けなければならない部分を推察するとすれば、佐村河内氏の障碍そのものが詐病で、それで障害者手帳を取得していたとなればこれは犯罪行為の事なので、音楽とは無縁の部分できちんと裁かれるべきなのです。もし彼が罪を犯したとしても、悲しいかな音楽の本当の価値はそれ以上でもそれ以下でも無いのですよ。寧ろ私は演奏機会や販売機会がグッと減る事でビジネスの脈を見出すのか、それとも平たく売り続けることが儲かるのかと打算の働く連中の方に汚らわしさを感じておりますがね(笑)。


 とはいえ、社会的弱者を売りにする若しくは装ってまで、それを売り文句にせざるを得ない部分が先に表れてしまっているからこそ事をややこしくしているだけで、創作者達以上に周囲のビジネスシーンの連中の企図そのものの方が卑しく下衆であるという所に眼を向けないといけないのではないかなと思うことしきりです。

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