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羅列と均齊との差異 [楽理]

 扨て、私が前回の記事にて仄めかしていた事、それは楽理的側面など全く素知らぬ幼い子供が鼻歌混じりに調性に身を委ねた7音(=ヘプタトニック)の脈を無尽蔵に言葉と律動方面からの揺さぶりをもらって多くの脈を生むメロディーの生産は、メロディーメーカーとしての才能ではなく単なる羅列ではないのか!?という事への暗喩でもあったのですが覚えていただいておりますでしょうか。


 柴田南雄は奇しくも自著にて「モーツァルトのように調性の軌道上をあっという間にすべっていくように……」(『音楽の骸骨のはなし』)と述べているのですが、これはヴェーベルンとの対比で使われていた言葉でありまして、いわんとする事はつまり、調性に準えた脈の事を述べているのは間違いなく、言葉がほんの少し変わるだけでも人の言葉に対する琴線の触れ方というのは異なるので、色んな表現(語法)を獲得する事で理解を更に図太くできる、そういう側面が音楽を理解するには必要な事でもあるのです。音楽を覚えるのは音ばかりでなく文語的な側面も多々あるのが常なので、ひとつの用法だけに固執するのも是亦陥穽となりかねないモノでもあります。


 今一度、私の前回のブログ記事をお読みいただければ私が音楽の創作活動についての行動のひとつを書いていた事がお判りいただけると思うのですが、それにて思い出してもらいたいのが、平仮名しか用いられていない子供用の絵本に音高を与えて・・・というクダリです。


 さてさて、50音に音高を振るとなるとどういう事になるのでしょう!?


 50音というのは日本語を知る人なら説明不要ですが、母音は5つに分けられて5個の音ごとにア行、カ行、サ行・・・という風に5個1組のグループで括られています。日本語を知らない人からすればきちんとした言葉の竝びも音の羅列でしかないのですが、茲では、言葉としての意味を有する列と無意味な列の両面を区別して見てみようと思います。つまり、日本語が分からない人種が「単なる音の羅列」と理解する事は真の解ではなく本来は意味のある音を無意味と知覚してしまっているシーンだと私は区別して言いたいのであって、そうした側面とは別の日本語が全く無意味な音の羅列となるシーン(どの言語を以てしても無意味であるという事)という両者の側面を私なりの視点で話題を進めて行きたいという企図に基づいているという事を注意深く察していただきたいのであります。


 亦それと同時に、音楽の器楽的な動作として音が脈打つ時を考えてみた場合、それには大概の場合調性の香りがするものです。不協和が強ければ着地点を探ろうとする力がどんなに器楽的な素地が脆弱な人でも働きますので。器楽的な「動作」というのはヘプタトニックの断片でもいいですから、そうした音の脈が少しでもあれば分かり易くなる(着地点が判別し易い)モノでして、器楽的な動作が齎すそうした脈、というのは「5」や「7」という列に収まっていたりする事が多いのも事実なのです。人間というのは不思議とこうした音の「収まり」の近似値に寄り添っているモノで、数字など、数学的な要素として全く意識していないのにそうした音の列に収まっていたりする事も多いものでもあります。


 ある意味では次の様な社会的な例に音楽を喩える事も可能です。

 それは、言葉を《正直》に語ることが調性社会の遵守だと喩えてみましょうか。これの対の状況はつまり、《嘘》をつくという事。音楽に嘘をつけばそれは調性からの逸脱なんですが、嘘を均等につこうとしてもそうそう調性からの平準化した嘘って付けないのです。かなり恣意的な動作がない限り、音楽的なシーンでは嘘というのは非常につくのは難しいのです。この《嘘》が「12音技法」と思っていただいても構いません。音楽面での「ちょっとした嘘」というのは、正直という側面の正反対に居る側では決して無いのであります。つまり、どんなに嘘をつこうとしても大抵は調性の残り香を伴うので、これを消し去る為時に必要になったのがその後の12音技法だと思っていただいても構いません。とはいえ実社会での嘘というのはモラルに反する事なので悪い事に喩えられますが、音楽面において調性に嘘をつくというのは決して咎めを受けるほど悪いものではないので、人間社会での嘘と等しいものではないという所も同時に理解が必要であります。勿論音楽の大前提として「律する」という事に背いてまで調性から逸脱するというのはモラル面で背いておりますけれど(笑)。


 音楽面において「均齊の取れた嘘」を付くというのがどれほど難しいのか、今度は別なシーンで色々と探ってみましょうか。



 「音楽的な興味深いテーマは興味を持つとはいえど、だからといって俺ぁ現代音楽やらそーゆーの苦手なんだよ」というヒト、私の身の回りでも實に多いです。そうした人に分かり易くもっと興味を抱く事が出来る様に私は咀嚼して喩えようとしている事なのでその辺は察していただきたいな、と(笑)。


 所謂12音技法とは、セリー、セリエル、シリアル・コンポジションと能く云われておりますが、これは英語の「series」という、エレクトリック楽器を扱う人の方が馴染みが深い、接続の方での「直列」やらの列、つまり、その「シリーズ」を音列、としている所から派生している言葉なのでありますが、まあ、この12音技法は計算上では4億以上の音列を考えることが出来るのでありますが、実際には恣意的な操作をするので本当はグッと少なくなるのが実際なのであります。ヨーゼフ・マティアス・ハウアーのトロープス(トローペン)という44属3856種の「総音程音列」をシェーンベルクはヒントを得て十二音技法を成立させるのでありますが、最大の目的は、調性という脈に安易に揺さぶられない為の音使いというのが彼岸なのであります。

 先の総音程音列というのは「ある音程への半音の数」という音程幅を1つずつ12個つかって、始めと終りの音が減五度になるという操作でありまして、クシェネク著の「十二音に基づく対位法の研究」、柴田南雄著「音楽の骸骨のはなし」、ヴァルター・ギーゼラー著「20世紀の作曲」の著書でも詳述されているので詳しくはそちらを参考にすれば良いでしょう。


  総音程音列の研究から見えるものは12音主義ばかりでなく、調的情緒を持った音楽をもどのような偏差があるのかを分析できる側面もあります。但し、調的な分析のシェンカー分析のそれとはまた異なる触れ具合を見るものでもあり、その触れ具合に音楽的な情緒までもが明確に線引きされるものでもありません。然し乍ら我々は口腔咽頭器官を有する以上共鳴的な音の感度は高い為、ある音からある音へ音程が移るだけでも人々はなんとなく調的な脈や「横の線」という全音階的な流れ(=音階的な情緒)を感じてしまい易いので、それを中和する目的というのが最大の目標とする處から生じていたのが調性との向き合いと訣別だった訳なのでありますね。


 結論から言うと調性から逸脱するという世界観は当然の様に不協和の世界でありまして、不協和の世界というのは音の列というものが「対称的」な構造が見えるようになってきます。通常、調的な情緒というのは非対称でありまして、全音階の世界でもドリア調が優位に働くワケではありません。余談ですが、ドリアン・スケール(先のドリア調の意)の音並びは上と下からも対称的な音列ですが、全音階の並びにて調的重力を少し緩和させるだけで対称的構造は存在します(ピアノの鍵盤の構造はその物理的構造を半音階に当てはめればd音ばかりでなくgis/as音も対称的構造の軸)。しかし必ずしも対称的な音並びが調的情緒に有利に働いているワケではなく、むしろ副次的作用の情緒である事は疑いの無い所でありましょう。属七からトニックへ解決する最たる理由はハ長調域で語るならばf音に隣接する全音階の音e音がより近い音なので勾配を作り、同時にh音に隣接する全音階の音c音に対して同時に勾配が生まれるので、これらの牽引力がトニックの和音を形成するための凝集力となっているワケです。


 私は対称的且つ均一な構造を「均齊」と呼んでおりますが、いわば中和・中性的な作用の為には、普段から使っている「単オクターヴ相」とやらも共鳴的にではなく対称的に、つまり、少なくとも単オクターヴは半分という2つに分割されていくか(半オクターヴ)もしくはさらに均等な細分化をすれば3等分(=長三度等音程)、4等分(=短三度等音程=減七和音分散形)、6等分(=長二度等音程=ホールトーン・スケール《全音音階》)、12等分(短二度等音程=半音階)等のいずれかが視野に入るワケですが、それらの分割で共通しているのは必ず半オクターヴが存在するという事。つまりそこにはトリトヌス(三全音)の存在があるワケです。


 言い換えると、ピアニストが、使い慣れた鍵盤という操作において調性から逸脱する時はd音やgis/as音を基準として上下に均齊の取れた音並びが運指からすれば均齊の取れた動作だからといってそればかりを選択してしまうものでしょうか?それは違いますね。ピアノという物理的な構造は凡ゆる調性に対して本当は不平等な構造です。しかし熟練のためにはこうした調的な背景は運指のやり易さ/やりにくさ、という構造を生んでしまっているのでこれを無くすために半音階的な練習があったりします。それを克服した上でさらに心の面で調性を平たく向き合った上での話だという事は前提として理解しておく必要があるでしょう。


 トリトヌスが全音階社会で顕著になるのは属七和音の活用です。これはトニックへの解決のために水路を行き亘らせるかのようにトニックへの脈の「勾配」を作るのがトリトヌスという三全音の役割なのです。

 ところが、平均律も導入され、協和が協和でなくなり、不協和の濁りが稀釈化されるとこの勾配は平衡化にも近しく使う事が往々にして出現する様になる事から半音階主義→12音主義となっていったワケであります。


 シュトックハウゼンの「習作II」では単オクターヴ相ではなく、純正24度、つまり振動比が1:5を「相」として捉え、これを等分に分割(25等分)したものなのであるため、2オクターヴを超越した3オクターヴ目に足を踏み入れた音域となっており、通常の音律(循環平均律法)では幾つものオクターヴ相を越えようとも例えばミの音はオクターヴを変えても「ミ」と同一であるため、循環平均律法における純正律の音程比1:5というのは半音の数が28個あろうとも、循環平均律法であるならば音の数は12個であり、他は単純に異名同音のオクターヴ違いですが、シュトックハウゼンのそれは異なるオクターヴ領域で異名同音が発生しないため、同じ音が得られません。つまり単なる12の音ではなく25個の音を取扱っている、という所に最大限の注意を払う必要があるのです。


 5`2=25という風に5の2乗が25であり、奇しくも英文のアルファベット26文字の近似的な数、いろは歌における50音が7の2乗=49の近似的な数というのも蓋し数奇なものでありまして、こうした「枠」内に収めることがおそらく人間の知覚や記憶の面から把握し易いものなのでしょう。音楽に目を向けても調的情緒が伴うように「巧みに」偏差がある音列が全音階の組織=ヘプタトニック=7音列という事を考えつつ、調性を伴わずともペンタトニック(5音音階)がやはり5という数にて歌としての情緒をふんだんに発揮できるという所も、言葉や数学方面とは無関係のような数の組織が、音楽にもうまい事あてはまる事実があると言いたいのです。


 ここから言いたいのは、いろは歌は単なる五十音の均齊ではなく、最初から最後まで意味のある言葉の「列」であるということ。五十音を全く無意味に均齊化を図った列として並べることは可能なのか?それとも五十音列から5個や7個の列を抜粋して来たら何等かの言葉になる可能性と無意味な言葉になる可能性はどちらが高いのか!?という「偏差」というものも考えることは可能でありましょうが(笑)、それを私のブログでやるのはお門違いでありますが、少なくとも「言葉にならない」列を選ぶことの方が難しいのではなかろうかと思います。というのも、既知の言葉として合致しないまでも、何等かの言葉に近しい「断片」が見られることが多くなってしまうという推察に及ぶのと、音楽面での十二音技法というのはこうした既知の(=それは調的な香りがする)断片からも逃れる様に配列できるように目指しているモノでありますが、総音程音列やらも視野に入れると、実際には調的な残り香がある「基礎音列」を作曲家が選択している曲がシェーンベルクとてある、という事を柴田南雄は述べているワケです。

 
 奇しくも「五・七・五」とかの七五調というのも、巧く出来ているもので、人間の心の間隙にある5と7という数字の竝びというのは、非常にあてはめやすい「尺度」なのでしょうね。


 先にも述べた調性の断片とか、つまり、調的な香りがしそうな音の断片をも伴わせない様に12音の抜粋を並べるには、恣意的に選んで来ないと無理な事でもあるのです。調的な香りがするという役割は共鳴的な音程が齎すものなので、完全音程はまさに調性の香りがしてしまう音程でありますし、協和的な音程も然りです。そうした調的な香りが強くなる音程こそが知覚にとって「優位的」な音程なのであります。ですので、音律が五度や三度の孰れかに重きを置こうとも、五度というのは抑も完全音程という相貌的な地位にあるので、五度の協和度を弱めようとも三度の優位性がその優位性を越えることは無理なのです。それは簡単な整数比の音程比の近似的なそれがどんなに頑張ってもその整数比には近くなれないという事です。

 ※ 平均律の完全五度は純正律の完全五度とは違うため2:3のような音程比ではありません。だからといってその音程比が1:2(これはオクターヴの整数比)の優位性に近づくことができるのかというとそういう事ではありません。同様に4:5に近しい音程比が3:4の優位性を越えられない3:4に近しい音程比が2:3の優位性を越えることはできないので、以前にツイッターにて三度や五度のどちらかに重きをおこうが、それらを中和しようとも中全律だのあらゆる音律をもってしても、これらの優位性を越える事はまず無理なので、こうした事を理解していなければ音程「優位性」というものをきちんと理解することができずに、音律の字義やその在り方のシンプルさに対して音楽的な要素とは異なる自身の感覚の理想を求めてしまうような輩が正しい理解を伴わず食い付いてしまうのでありますね。以前にもアカペラをやられるという人が中全律を片手に噛み付いて来た事がありましたが、こうした音程の優位性を知らないという事は科学的にはヘルムホルツ以前の前々時代に匹敵するような愚か者と言わざるを得ないでありましょう。


※※ 総音程音列とは、半音階の12音のそれらの音程数は次の組み合わせで表すことができるため; 1半音 11半音 2半音 10半音 3半音 9半音 4半音 8半音 5半音 7半音 6半音 12半音を成す5組の音程と6半音=66半音数の音程で半音階を網羅することとなり、これらの音程を一様にちりばめることが総音程音列技法の始まりであり、始まりと終わりの音は減五度であることが原則。先述のように、クシェネクの「十二音技法に基づく対位法の研究」や柴田南雄著「音楽の骸骨のはなし」に詳しい。


 なお、5×5の魔方陣は次回以降の暗喩なのですが、魔方陣は全ての列は等しいものでありますが、「順次進行」としての列を作るので、音楽的に見ると横の線としては調的な香りのする断片が含まれているとも考えることができますし、ディザをまぶすかのような均斉でもないのであります。
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