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静的なトリトヌス [楽理]

 扨て、前回に引き続き属七和音の側面も語って行く事としましょう。


 一般的に誰もが備える調性感というものを堅持する状況があったとして、先の様な複調の和音はどの様に聴こえるモノでしょうか!?複調のそれぞれの調性を赤色と白色に喩えたら、おそらく誰もが「ピンク色」に染まるような世界観を描くであろうと思います。各声部が和音ではなく横の単旋律ならば赤と白の分離した感じは残りやすいですが、それでも混じり合おうとすると思います。

 要はそうした「混ざり合った」時の世界観には、どうして調性の逸脱感が強固に現れないのか。片方の調性からすれば立派に逸脱している音が満載であるにも拘らず、です(笑)。ドミナント7thコードというのは長三和音+短七度の音を持つ和音でありますが、トニックへの解決という使用例が「動的」な使い方だとすれば、既知の調的勾配の方への進行感を伴わせずに用いればそれは調性の側から見れば「静的」な使用例と言えるでしょう。

 平均律が導入されてからはこの「静的」な要素も非常に強くなりつつも、ドミナント感、という部分は調性に残っておりました。勿論現今社会でも残っております。つまり、調的な牽引力が平均律導入でそれが弱まろうとも、音程の優位的な比率を思い出していただければ判りますが、2:3の音程比が整数比には表せない近似的な数値の比率になったとしても1:2の音程比の優位度に近づくことも超えることもできないワケです。それが、平均律でのドミナント7thの振る舞いだと思ってもらえればよいでしょう。少なくとも必要な理解は、トニックへの解決という動的な使い方ばかりでなく、静的な使い方が増大した、という所が背景にあり、これが後期ロマン派の特色のひとつだったという所も忘れてはならない点でありましょう。


 19世紀というのはオペラが流行していた事もあって、歌劇に用いる台本というのは神や霊的な描写を必要としていたのであります。科学的な側面に伴う文化やらは現今社会と比較すればまだまだ黎明期でありますから、霊的、時には想像におよばない程のスケールを伴う考えには霊的よりも「形而上学」的という表現が使われる事もあります。つまり、宗教的な理念の他の側面で理解を超越する様な事は人々は不安でしかなかったのであります。その不安を鎮めるのが時には宗教でもあり、音楽でもあり、音楽というのはその楽音部分の物理的な時間に身を委ねていれば自身の予想とは異なる心理の描写を投影したり変化を与えてくれるものであり、それと同時に物語によって音楽という「塗り絵」に色が伴う事もあって人々が身を委ねるというのはこういう所に欲求の高まりがあり、それに応える様にして場面描写のための和声的側面も発達したのであります。そこで複調に伴う和音の発展も同様に在ったのであります。


 そうして人々の営みには工場や鉄道や産業発達によって電力は発達し、オルガンを電気で動かすことなど何事か!?などと忌避されていた嘗ての時代(笑)。こうした変化に伴って、音楽も発展していった背景は、旧来の神学的、宗教的な意味合いもセンチメンタルとして陳腐化していった側面もあって、神格化されていったのはそれこそ電力だったりもしたのですから、宗教観を根底から覆すものとまでは言いませんが、社会の営みの変化というものが、人々の「形而上的」な、雲の上のような抽象的な側面は科学の発達で解明される事も増えていき、純愛と愛の現実という様な不文律が具わって来たのも20世紀に突入してからの事である事は間違いなく、少なくとも100年前の殆どの聴衆はまだまだ保守的であったのでありますね。


 という事で、ドミナント7thコードの「静的」な側面、それは色彩的な側面を補強する様にもなります。因みに属七の和音というのは「等音程」の断片を持ちます。根音を省略すれば減三和音(ディミニッシュ・トライアド)が生まれることを考えれば、減七和音の分散は短三度等音程なのですから、その「断片」というのは言わずもがなです。

 静的な振る舞いによってこうしたシンメトリカルな構造の断片が強く心に作用する様になったのは自明でしょう。それも調的勾配の為ではなく色彩方面に。


 ドミナント7thコードの最たる特徴は、トリトヌス(トリトーヌス、三全音)の包含です。勿論、現今のアッパー・ストラクチャーで生ずる属七を母体としない和音でもトリトヌスを生ずる和音は幾つかありますが、それは別の共鳴体の方でもあるので孰れ詳述する事になるでしょうが、おそらく今回のドミナント7thに関しての方が知的好奇心は高ぶると思います。


 静的なトリトヌス。扨て、トリトヌスが音響的に色彩をもっと彩らせるようになるのはどういう要因なのか!?スティーリー・ダンの「Glamour Profession」は、ドミナント7thコードを調的勾配にて用いるのとは別の意味合いで多用されておりますね。

 まあ、スティーリー・ダンは扨置き、ジャズ方面の体系ではドミナント7thを母体とするオルタード・テンションという取扱いもあり、そのテンション・ノートの組合わせが齎す自由度の高さは特筆すべき側面ではありますが、ジャズとてドミナント7thコードはやはり調的勾配の方を多く使います。つまり「動的」なんですね。


 静的なシーンで顕著になるのは、和音としての色彩的要素。つまり、進行させなくともその和音の独立性が強くなる響きの方なのですが、これの要因はというと、自然倍音列に答があるんですね。つまり、5:7の振動比。これがほぼ三全音なのであります。これがトリトヌスの脈であり、遠因そのものなのであります。


 振動比からすれば「こんなに近しい所に!?」とあらためて驚かれる人がいるかと思います。無論、第7次倍音など、なにゆえこんな低次にこれほど「調子ッ外れ」な音が存在するのだろう?と疑問を抱く人もいるでしょうし、かのヒンデミットですら自著「作曲の手引」にて同様の事を触れていて、この倍音に依る可能性を述べています。8:11の振動比でも三全音に近しいのですが、コチラは1四分音ほど更に低くなります。

 とはいえ、シュトンプという人が700Hz:1kHz、800Hz:1kHzという振動比にて実験し、これらを意外にも「協和的」に実感した事を驚いたという話がある位ですから、そんな第7次倍音も面目躍如といった所でしょう。


 第7次倍音は、ドビュッシーは7度の音として(属和音の七として)使うことを勧めたと言いますし、人に拠っては増六度として使えという人もおります。勿論、体系はその音に対して「自然七度」という名称を与えておりまして実際には7度として使う事の方が整備されていますが、微分音や、シンメトリカルな構造を露にした脈で第7次倍音を使うと非常に面白い効果が現れます。これこそが、今回私が語りたかった事で、三分音を用いたサンプルという真相なのであります。

 平均律から見れば第7次倍音は1三分音ほど低いのです。微分音に慣れている人でなくとも、このズレ幅の大きさは瞠目するのではないかと思うのでありますが、ジェフ・ベックのアルバム「ワイアード」収録の「蒼き風」のギター・ソロにて6弦開放弦だけを使ってのハーモニクスだけのソロが6小節ほどありますが、この中にも第7次倍音が出て来ますね。多くの人はやはり「D音」として聴いてしまうのが実際でありましょう。


 これが、短七として聴かれる時は、楽曲の世界観は調的な側面が強い時、短七ではない色彩的な(微分音的)な性格が強まる時というのは、やはり微分音が脈にないとなかなか伝わりにくいでしょう。ですので私は微分音的な脈として使うとどういう風に聴くことが出来るのか!?という事を語る上で延々とこうして語って来たワケです。単に微分音とやらを使っているのではなく、歴史的な背景を語り乍ら、微分音とやらを決して色眼鏡で見ないようにする為にそうした背景を一緒に語っていたのであります。


 扨て、微分音を用いた楽譜は、今回披露するサンプル曲とベース・パートだけは違うものの他は変わりません。そんな所で話を進めますが、この曲の冒頭のコードは前回ではD♭M7(9、13)だったのが、ces音(=C♭)が付加されたので、違う響きになっています。
2014microtone.jpg

 とはいえces音が付加されると、ヴォイシングが違うだけで譜例の最後のフェルマータの和音と構成音は同一となるので、そこにも私の隠喩があるワケですが、つまり、フェルマータで聴かせる和音はヴォイシングが違うと、なにゆえ冒頭の様な強い忌避感を伴うのか!?という事を先ずは聴き手の方各自で判断してもらいたいという事から敢てこのようにしているのです。

 とはいえ、譜例5小節目では微分音が入って来るのですが途端に忌避すべき音が消失するかのような存在感になります。これも勿論私が狙ってやっている事なのです。

 また、5小節目以降記譜している微分音のパートは、実音は総じて1三分音低い音なのですが、表記は六分音表記にしています。とはいえ微分音表記は完全に市民権を得ているのではないので、表記法がまちまちな所があります。最も目にする機会はウィキペディアでありましょうが日本語版はフランスを踏襲しているだけの事で、同様にウィキペディアの独版となると亦少し違う筈です。この辺りの体系とやらを急整備する必要はないのですが、楽譜というのは「共通理解」が先にあって然るべきの事で、不文律を真っ先に受け止めなければならないという側面も亦あるのが事実です。こうした時一番発言力があるのは、編纂者か楽曲であるならば作者の指示に従う必要があるでしょう。つまり、今回の私の記譜例は能くある体系を大きく逸脱したモノではないので、殘念乍らこの記譜のプライオリティ−に関しては私にあると言わざるを得ないのですが、これをスタンダードにしようとかそんな考えはまんざらありません(笑)。私の様な声を受け入れたくがない為にアカデミックな所がもっと整備すればそれはそれで非常に良い事でありますし、読み手の側の知識の幅として多くの不文律に対応出来る様にしておく事が私は最も良い事だと思っております。とはいえ何から何まで体系の逆を行く!なんて事はさすがに私も選択はしませんけれど(笑)。

 メキシコのカリヨは1オクターヴを96分割するという事で結果的に16分音という非常に細かい微分音を得るのでありますが、是亦奇しくも「半オクターヴ」=トリトヌスと半音階またはそれ以上細分化された音律社会に依る音世界の充実と発展がそうした数奇なシーンの一致を見せるワケであります。シェーンベルクがヒントを得る十二音技法のトローペン(トローペ)はヨーゼフ・マティアス・ハウアーに依るモノですが、ハウアーとてゲーテからヒントを得ているという、先述のような「形而上学」的側面からヒントを得ているのは実に興味深い處でもありますね。


 まあ、そんなこんなで私の微分音のサンプルを聴いていただければ、めまいがするような感じや、歯にしみるかのような知覚過敏を思い出してしまうかのような音、これらは實は二度和音や鏡像音程を利用して配置しているのです。このシンメトリカルな要素というのを孰れ色々と語る事でありましょう(笑)。

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