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属七提要 玖 〈コード・サフィックスが齎したもの〉 [楽理]

 扨て、前回のブログ記事は音楽関連にはほぼ無関係のラウンドアバウト交差点に関する記事だったので、そろそろ本題に話題を戻しつつ、あらためて今回は「コード・サフィックス」という部分に注目していきたいと思います。コード・サフィックス。つまりは、和音記号の事ですが茲では西洋音楽方面の記号化の為の事ではなく、あくまでもジャズ/ポピュラー界隈にて普く人口に膾炙されている類のコード・サフィックスについて語るという訳です。


 ジャズ/ポピュラー界隈のそれをあらためて語る理由の一つに、先の○○7sus4 (9)という類の、基底和音は曖昧であるにも拘らず上声部に和音の体が造られてしまっているそんなヘンテコな表記を、単なる和音記号の視覚的理解の簡素化を理由にして用いる事を慫慂するなど言語道断な訳であるので、あらためてそうした「負の側面」を鑑み乍ら、和音記号とはどう在るべきか!?という事を理解する必要があるかと思います。

 然し乍らこうした理解にあらためて注意が必要な点というのは、こうした問題点を私の様に痛切に感じ取っている人もあれば、自身の経験ではそれほどの苦痛を伴わせる事はなく単純に私の様な嘆息を思弁的に捕える人もあり、捉え方は十人十色様々な訳です。

 「思弁的」という言葉はまさに好例であります。「思弁」が意味するのは、経験に依拠することなく純粋な思考で真理に到達するという哲学的な考えが、徒に音楽の、特に楽理的側面にて本来実経験に則した感覚が必要とされるものである筈が、その「思弁的」考察によって軽視されてしまっている向きが少なからずあるものです。

 音楽の方法論という体系化に於いては、己の音楽的素養の熟達に乏しい人程体系化された事柄を学ぶ事は陥穽に陥り易いのです。何故かと言うと先の様な「思弁的」な考えとして先に整備されている事が殆どである為、それは理解者の実経験に則した物ではないのに整理された体系を覚えさせられる事に等しいので、自身の実経験との間に乖離があると、自身への直接的な理解として獲得しなければいけない知識・経験を無意識に間接的に捉えさせてしまう訳ですね。自身の感覚にそぐわないのに体系ばかりを押し付けても実経験に伴わない事柄なのでなんとなくピンと来ない。それが書物であれば言葉として理解はしていてもどこか腑に落ちない。しかし「上っ面」は理解している。これは単純に、本を読んだ事で意味が判らなくとも、その文字そのものには遭遇した事があるので記憶がある、という状況に酷似する事でもあるのです。

 扨て、「思弁的」と「上っ面」というのは同じ事でしょうか!?全く違います。経験に伴わせる事なくとも真理に到達しようとする考えは言葉は相当配慮された物でなくてはならず、加えて誰もが共感し得る側面を持たせないと真理に辿り着く事など有り得ない事でしょう。

 「調性」というものにぶら下がった物は、逸脱する音はほぼ無いでありましょう。それが半音階を駆使した調性を醸す技法もあれば調性すら感じさせぬ、協和的な音の断片としても感じさせぬほど恣意的操作をする技法もあります。しかし、耳の熟達に乏しい者からすれば半音階を駆使した調性の残り香を利用した音楽の程度であっても十二分にチンプンカンプンという人も実際におり(笑)、思弁的な考察から音楽をさも無調の領域から俯瞰するかの様に識者が「思弁的」に問うても、実際にはその思弁性の先には「皮相的理解」にしか到達しないのが実際なのです。

 学究的な思弁性の在り方だけに武装するかの様にする音楽学者だって居る程です。そのような彼等が幾多の、コード表記すら難儀する様な不協和音の類を「音楽的」に、且つ自身の主観を滑り込ませる余地の無い程にそうした響きの美しさやメリットを理解させるには、私からすると非常に疑問が残る所であります。翻って、音を追究した人が、音楽的な依拠(耳や自身の凡ゆる器楽的感性を利用する側面)とは別に、文語的な方面から、そうした思弁性のある表現に多くの含蓄を読み取る事で視野が拓ける事は勿論あるでしょうが、音楽の熟達に甘い者がこうした理解を伴わせる事ができるかというとそれも亦不可能な事でありましょう。つまり、経験に乏しければ体系に溺れてはいけないのであり、視覚的にも感覚的にもスンナリ入って来る類の者は熟達に甘い時程注意が必要なのであります。そんな甘い時期に、単に視覚的優位や、コードの本来の体は扨て置いて構成音さえ判ればどうでもイイかのような○○7sus4(9)とか与えられた日にゃあ、経験に乏しい人ほど割を食う事になるのです。経験に乏しい人からすれば覚え易い事であったとしても、誤った体系を獲得するのは馬鹿げた事なのです。


 音楽に於ける方法論というのは、単純に楽器の器楽的構造や音色を構築するための奏法の方法論とは別に、楽理的側面での物もあります。前者というのは自身の楽器の操作に於ける経験に則した理解に及び易いので理解は非常にスムーズです。その理解とは器楽的に巧妙に取り扱う事ができない未熟な奏法しか身に付ける事ができなかったとしても、理解には充分及んでいるのです。

 楽理的側面というのは自身の経験に伴わせた理解を許さない所があるので「難儀する」のであります。この難儀する部分を克服しなければ、旋法的・律動的・和声的な感覚が磨かれる事はないのですが、器楽的な側面の理解の様にしてこうした楽理的側面を自身の身の丈と比例して語りたくなる欲求は誰しもが抱えてもどかしさを感じる筈です。しかし、自身の理解の為の自身の感覚が鍛えられないところに音楽を言葉でどうにか言いくるめてしまおうとしてしまう者というのは、何れは既知の体系に収まっている事を拠り所とせざるを得ず、誰かの言葉を引用し乍ら自身の主観を鏤めてしまい、自身に箔附けをしようとするものなのです。「克服」が困難で苦痛であるのは間違いないのですが、茲の克服が無い限り感覚が鍛えられる事は先ずありません。すなわち、思弁的な事柄を覚えた所で獲得した知識は「皮相的理解」としてしか体を為していないのです。


 
 扨て、ジャズ/ポピュラー界隈でのコード表記というのは体系化が巧妙であり理解し易かったからこそ今も使われているのでありましょうが、「理解し易い」というのはまだまだソフトな表現でして、それこそ「直感」的(※あくまでも「直観」ではない)な理解で済むからこそ持て囃されているのでありましょう。シーンに依っては音符などは附与されずに、トゥッティや切分音(=シンコペーション)を示唆するリズム譜があって、何時々々〈いつなんどき〉でも移調に対応できる様に、コード譜はディグリー表記とサフィックスのみで記載されるだけという場合もあったりします。ジャズの移調楽器奏者の中でも移調楽譜の表記有無何れにも対応できる奏者も少なくありませんがジャズの場合は調号無しの譜面も多い為、そうしたシーンでの移調となると、単純にコード譜だけで済まされる類の曲であるならば譜面よりもコード譜のディグリー表記で済ませれば確かに「ラク」であるかもしれません。

 ジャズの譜面というのは、ブレイクやインタープレイを奏する様な時以外は音符で指定されている事は稀でありましょう。小節の構成とトゥッティやシンコペーションの指定、それら以上に重要なのがコード譜。大体がこういう物です。これはジャズ界隈だけでなくポピュラー界隈でもあったりする事ですから、如何に和音体系を滞り無く弾く事が要求されているか、という事が判ります。

 それと同時にジャズの場合は、譜面通りに弾く主題はそれとして重要であるもののそれ以上の真髄は、用意された主題と和音を背景にどれだけ逸脱した振る舞いをインプロヴィゼーションとしてこなせるか!?という所が最大の醍醐味である筈なので、超絶技巧を持ってして各プレイヤーがトゥッティを決めました、という類のは性格を異にする音楽なワケでして、和音と構成こそがプレイヤーにとって重要だという事は能く判ります。とはいえ、即断性を追究するがあまりに「○○7sus4(9)」という表記を、いくら構成音がきちんと伝わるとしても、基底とする和音が曖昧なままでこうした誤りを奏者界隈の不文律として遭遇するだけならともかく、これから体系を学んで行くという比較的経験の浅い者にまで押し付けてしまうようでは、ジャズとやらも愈々終焉を迎えて然るべき時が来たか!?と思わんばかりです。


 少なくともシンセサイザーが席巻する前までのジャズというのは、和音はともあれ楽理的側面の追求に貪欲な連中が多かった物でした。特に、和音を奏する事の出来ない楽器からすれば、その逸脱の方法論というのは非常に多くの可能性があり、和音構成音の外にある和音外音を如何様にして巧みに作り上げて和声感を充実させるか!?という探究心があったものだと記憶しております。それこそ19世紀半ばから20世紀前半にかけての和音の執拗な迄の開拓というのがジャズにも投影されている様でもあり、成る程、先人達が没頭したのはそうした和音の「響き」の美しさを獲得していったからなのだと痛感したものでありました。


 処が、現今のジャズなどどうでしょう!?和音の体系は既知の体系に準えたものばかりで、何世紀も前の作り上げた経文を現今の生臭坊主がさも体系に寄り掛かって度胸をするだけの様な生臭ジャズ屋が蔓延っているのが現状です(笑)。そんな輩が増えてしまったからこそ、基底和音が曖昧であるにも拘らず、それに乗っかるアッパーストラクチャー側が和音の体を有しているという状況を作り上げて慫慂してしまう馬鹿らしさは非常に困ったモノであります。これがジャズでイイのか!?と思う事しきりです。


 コード・サフィックスにそこまで拘るならば通常、マイナー7thコードに於いて、そのコードに九度音は無くとも本位九度として存する事が可能である体なのか、或いはメディアント9thという短九度である可き九度音を必要とするマイナー7thコードの類なのかを即座に見抜く能力が必要とされる筈です。

 それと同様に、dimというディミニッシュ・トライアドは、概ね多くの場合dim7という減七に置換させても問題無い事が多いからといって総じてdim7を充ててしまっているようでは、ドミナント7thコード上にて長九度を附与していい類の体や或いは短九度を附与せねばならないとい体の2つの側面、つまりは長属九と短属九の違いをも考慮する事無く短属九の側を選択するのと同様になってしまう事を意味しており、非常に馬鹿げた事になるのを全く素知らぬ顔して体系に溺れる連中がまともに楽音を奏する事ができる訳がありませんが、それでもdim(ディミニッシュ・トライアド)はdim7という減七に総じて置換が可能と思ってる馬鹿どもは、単純に楽曲を咀嚼して来た経験が圧倒的に少ないのだと云わざるを得ないでありましょう。

 ドミナント7thコードの♭9th音が附与されているタイプの所謂短属九というコードから根音省略(ルートをオミット)してみると、之は減七の和音を生むものの、長属九というドミナント7thコードに本位九度音が附与されたタイプの和音から根音を省略してもそれは減七ではなくハーフ・ディミニッシュを生むという決定的な違いがあります。

 dimをdim7に総じて置換可能とする馬鹿は、長属九が強要されるシーンにて短属九を使う事と同様になってしまうワケです。それが偶々モーダル・インターチェンジ風な雰囲気を醸したとしても、それは自身の「変奏」が生んだ全く別の物であり、出来合いの楽曲に対して単純にdimとしか表記されていない部分で、他の五線からも長属九か短属九が適当であるかを読み取れない奏者としては致命的な音楽的語法しか持ち合わせていないと言って然るべきでありましょう。


 つい先日も語った様に、高中正義の名曲「Blue Lagoon」のイントロは、バンドスコアなどでは「Edim -> E△7」(※Key=E)とされているものの、其処での「Edim」は絶対にEdim7という表記には置換できません。何故ならEdim7上で背景のストリングス音に依るメロディはD#音が附与されて出て来るからです。つまり、その時点での和音はEm6(♭5)に長七度音であるD#音が附与されて奏されているという解釈で無ければならないのであります。

 「Blue Lagoon」のイントロは、見かけ上のコード「Edim」の時に変イ長調(Key=A♭)の調域を想起しやすいもののそれだとex.1の様なFハーモニック・マイナー・スケールのC音を生む為、原曲のストリングス音がC#音を奏する為整合性が取れぬものになり、ハーモニック・マイナー・スケールの5度音を半音高くするというのも歪曲し過ぎる嫌いがあります(譜例中の赤い音符はディミニッシュ・サウンドを得られる為の音群)。
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 もう一方のコード「E△7」の時にホ長調(Key=E)の調域という風に「長三度音程」同士の調域として隔てられた調域を行き来するモード・チェンジが行なわれるのが単純なモード想起ではあるものの、その場合、Edimという和音をEdim7と置き換えてしまうと、ストリングス音にC#音も現われて来るのでEdim時にモード想起としての変イ長調という想起は芳しくないモノとなり、少なくともEdimのコード部分のモード想起は変イ長調(またはその平行短調であるヘ短調)の調域ではない物を想起する必要があります。

 抑も「Blue Lagoon」の場合の見かけ上のコード「Edim」は「Em6(♭5)」として看做さなくては整合性が保てなくなります。何故かと言うと、Edim7の和音構成音と等しい or 異名同音としての同義の音が4音無くてはなりません。すると減七の場合だと「E、G、B♭、D♭」という風に列挙出来るのですが、「Em6(♭5)」という解釈の為「E、G、B♭、C#」という認識が必要となります。

 処が、「Blue Lagoon」ではマイナー6th(♭5)から見た長七度音=D#音もストリングスの線として見渡さなくてはいけない為、通常減五度を包含する類の和音の場合、主音の短二度上がII度の音になる事が多いのですが、加えて長七度音を加えることになるので、それらの音をダイアトニック・コードとして持つモードというのはかなりヒネリが利いているモノでして、実はかなりモード想起としては腕の見せ所になるのが「Blue Lagoon」のイントロ部のイイ所なのでもあります(笑)。そうなると少なくともex.2の様なB♭ブルース・ヘプタトニック・スケールの第4音をスケール・トニックとするモードを想起する事にもなりますが、背景に存する和音と旋律に忠実になる事で意外にもこのような稀にしか遭遇しない様なモードを演出可能な状況に足を踏み入れているというのは、原曲の曲想からするとその自然さ故に瞠目すべき点ではあります。
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 そのような人口に膾炙される事のない極めて遭遇する事が稀なモード(B♭ブルース・ヘプタトニック)を想起する事は可能ではありますし、その手のモード想起ならWolfram Alphaで検索すれば聞き慣れない類のモードはいくらでも拾って来れます(つづく)。

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