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投影法 貳 [楽理]

 つまり、全音階組織で生ずる総和音の最低音と最高音の倒置はrelativeな関係にある和音へと動くだけにあるのですが(例としてリディアン・トータルとドリアン・トータルの其れ等の最高音と最低音をたすき掛けにして入れ換えればリディアン・トータルの下方三度にドリアン・トータルを生ずる)、パラレル・モーションという動きとは異なります。


 通常、主要和音から副和音(または其の逆)へ進むのを「平行和音」と呼びます。処が、春秋社刊デイヴィッド・コープ著『現代音楽キーワード事典』の第一章(石田一志訳担当)には9・11・13の和音の進行がパラレル・モーションとしての音脈へしか道が無い様な閉塞感を伴う(先にも語っている様に、全音階組織として声部が進行しても和音の体が犇めき合っていて各声部と衝突する様な状況にある)状況を解説しているにも拘らず、そのパラレル・モーションが求められてしまう和音を「平行和音」と述べている處は、先の「平行和音」と混同せぬよう理解されたい所であります。

 とはいえ、パラレル・モーション、つまり平行は”全音階の調的組織では”禁則だらけの動きである事は明々白々でありますが結果的に和音が凝集すると、動きは他の脈絡を求めてパラレル・モーションが現われたり、或いは和音そのものがポリ・コードという状態である時──上声部と下声部の和音が──、シンプルな体系で言えば「3と4」の半音の数が入れ替わるかの様な静的な置換が異なる和声進行間で相互に現われ(例えば上声部にC△がある時は下から上に半音音程数を数えれば4・3となりますが、それがFmに動けば「3・4」の体系へと動く事になり、「G#dim7」へ動けば「3・3・3」の体系、Aaugへ動けば「4・4」の体系へ進む事を意味します)、ある意味では「市松模様」を異なる配色を入れ換え乍ら体を変えている様な状況とも言えるでしょう。

 ミクソリディアン・トータルという総和音は、下声部を四声体として見るならばAm/G7というポリ・コードと見做す事ができます。他方、エオリアン・トータルという総和音は下声部を三声体として見るならばG7/Amというポリ・コードでありますが、もうお判りの様に、先のミクソリディアン・トータルの上と下とが入れ替わっている、すなわち基底和音が違うだけという状況でもあります。

 こうした音脈が生ずる状況は半音階主義だともっと顕著に現れるシーンがあり、特にピッチ・クラス・セットでもってオクターヴ・レンジを無視して半音階組織にて上声部と下声部とで生ずる特殊な和音の置換などは先の著書では特に顕著ですが「回文」、つまりパリンドロームを作り出したりする例を挙げていたりもします。これこそが「倒置」であり、上と下が完全に鏡像となれば、それは投影法と呼ばれるシンメトリカルな構造の一つであり、何度も言うように、殊不協和音の世界では対称・均齊の構造が露になってきます。

 つまり、その不協和という社会の枠組みで全音階の芳香を醸す事の無いように全音階の和音を使った場合、その和音の音脈は全音階組織をグルリと一巡するのではなく、他調に求める平行の動きによって調を逸脱しようとするという風に考える事ができる訳です。

 本来、全音階組織なら「鏡像」を意識させられる音脈はドリアンのみであります。ドリアンという旋法の構造は上からも下からもその各音の音程構造は対称形であります。また、Cダブル・ハーモニック・メジャー・スケールというのも対称形でありますが、これは人為的なヘプタトニックであります。

 とはいえ、鏡像という脈はドリアンやダブル・ハーモニック・メジャーにだけ与えられる「音脈」ではありません。ドリアンとダブル・ハーモニック・メジャーに鏡像という資格を与えても、其れ自体(旋法の音並び)が鏡像なので意味を為さないのであり、それらの完全な対称形と異にする他のチャーチ・モードなどにも鏡像という音脈が与えられるのが、全音階組織を跳越した響きの世界観なのであります。

 それを更に判り易い例として態々総和音を用いずに現実的な例に則して喩えるならば、C△というメジャー・トライアドに対して全音階的組織を跳越する世界観で見るならば、其の和音に対して鏡像形という対称形の1つが音脈として枝葉を付けるのは問題の無い事でありまして、それは結果的にFmというマイナー・トライアドを生みます。


 つまり、ジャン=フィリップ・ラモーは、如何なる音の出来は和音の構成音だとする声に対して全音階的社会ではそれを是とはしませんでした。しかし、半音階社会がその後訪れ、更にフーゴー・リーマンの転回短調などを視野に入れるとやはり、そこには下方倍音列という鏡像の音脈と合致する事になり、茲で、ラモーの半音階的見渡しでの「根音バス」、それは全音階組織とは異なる音脈へ更なる根音バスを求めるという見渡し(これはヒンデミット自身の解釈も同様です)があらためてスポットライトを当てる様になる訳です。

 更に念を押して言うならば、通常の全音階的社会の和音の取り扱いに於いては、和音構成音は当然の事乍らこれを音脈に旋律を作れば単なる分散和音にしかなりません。つまり、和音外音は分散和音という体に彩りを与える為の音脈であるのです。それでは十三の和音、つまり七声体という状況(=総和音)での和音外音というのは全音階組織に於いては最早音脈は存在しない事になります。和音外音は他調由来にしか脈は無いのであります。

 しかし、和音の体を突き詰めるがあまり総和音という状況を作り出しておいて全音階的社会の音使いを飽和させていないと他調由来の音脈を作って来れないというのは、和音の体からすれば、そこまでしないと他調由来の音脈は拾って来れないものか!?と、あまりにも無駄を生ずるシーンであることに気付かされる事でありましょう。そもそも総和音を全音階的に許容できるシーンは、其の状況が断片的であるにせよモーダルな世界観になっているという事が重要です。

 西洋音楽の歴史では、態々和音を重畳しく累積させずとも、たった二声で調性を跳越する音脈に辿り着くモノです。その最たる例が対位法です。

 つまり、和音という体が仮に2音の状況が在ったとした場合それは単なる何らかの和音体系の断片であるのですが、対位法の場合に於いては、たった二声部だけしか無い状況でも(各声部は単音)でも他調由来の音で絡み合う時などは、各声部夫々の調性の残り香が作用し合って化学反応を起こすかの様にして耳に届きます。たった二声という状況でも高次に響かせる事が可能です。


 そうしたシーンと相俟って、今一度和音の凝集と調性の逸脱について真摯に眼を向けると、ジャズ/ポピュラーの世界での和声の追求で陥穽に陥り易い点というのは次の様な事と言えるのです。
 
 つまり和音の体に拘るがあまり、パラレル・モーションの動きを導出したいがために硬い和音を好んで使う状況であるとするならば、なにも一つの調性に拘る事はないのです。自身のプレイの逸脱感があまりに奇異な感じを避ける為に単一の調性へぶら下がる感覚が必要で、それが余りに強固であれば陳腐になるから音を逸脱させる。その逸脱には単にノン・ダイアトニックであればイイという物でもありません。

 凝集されてしまった和音の下方に存在する基底和音の体を壊さぬように配慮されたコード体系が現今のジャズ/ポピュラーのコード体系であるに過ぎず、寧ろ基底和音の体を崩す様な音にしてしまうのが和音の響きとして少々奇異な感じがしてしまうのを避けるが為に、13の和音の基底部である3rd、5th、7thなどを省略して、上声部には9・11・13度の音を残して基底音だけを残せば7thベースという分数コードの体にもなります。既知のジャズ/ポピュラー界隈での和音体系が基底和音を疏外する事も許容する体系であるならば、ハ長調のメディアント(ホ音)上で生ずる九の和音はEm7に短九度が附加される状況という「メディアント9th」であります。しかしそのメディアント9thというのはホ音をルートに持つ基底和音として使うのではなく、ホ音を基底和音ではなく単なる基底音としてホ音(=E音)を下声部に、上声部にG7という状況にしている、という事を嘗てチック・コリアとライフサインズを例に挙げた事がありましたね。

 また他方では基底和音としての存在を念頭に置きつつも基底和音の3rdと5thだけを省略して上声部に聳える和音を維持させた場合は2ndベースの体という風にもなります。2ndベースの類は概ね、その基底音から見た時の本位十一度音が生じる為、非常にモーダルな演出がしやすい訳です(例:ハ調域でのF△/Gは、Fから見た2度が基底音としてのG音で、基底音であるG音から見た本位十一度はC音である、という意)こうして、基底和音は基底音というシンプルな姿に変容して行くのは、基底部を疏外しないように且つ重畳しい硬い和声の響きが、不協和である特徴的な対称的な構造を導出してくれる為の振る舞いとして重用するが故の行為なのでもあります。ミクソリディアン・トータル(本位十一度包含の属13の和音)という体よりも「F△7(on G)」として使った方が疎外感は少なく、対称・均齊の為の構造を炙り出す様に醸し出す事が出来るという意味合いでそうした表現にしているのです。


 扨て、そこで今一度譜例fig.3を見てもらいますが、ドリアン・トータルとリディアン・トータルは夫々綺麗な対称性の構造が見えているのはお判りですね。また、それらの総和音は響きとしてはリディアン・トータルの方が綺麗に響きます。これは何故か!?というと、五度等音程和音が3度累積に変化した姿として見る事が可能であり、五度等音程は上方倍音列を刺激し、そこの音脈と結び付き比較的安定感が得られるのであります。
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 ハ調域での完全五度等音程和音ならば、f - c - g - d - a - e - bという並びになり、リディアン・トータルと基底音そのものは同じですが各音程構造が異なるのです。単に、リディアン・トータルという状況が上方倍音列と密接な関係として近似的乍らも結び付いて安定感を得る。リディアン・クロマティック・コンセプトというのはこうした音脈を見付ける事なく、ハ長調での完全五度音程に依る全音階的総和音は下属音を基底音に持つ体が綺麗に響くという事を見抜けなかったがために、ハ長調に於いてハ音を基底音にしてリディアンを出来とする総和音、つまりト長調に於けるリディアン・トータルをハ長調からの音脈としてしてしまおうと陥穽に嵌っただけの愚かな状況を延々と語っているだけに過ぎないのであります。


 リディアン・トータルが綺麗に響くのもその音程構造が先にも語った様に、完全五度音程の等音程の3度累積への展開である事もさること乍ら、リディアンおよびドリアン・トータルは綺麗な3・4の順列の対称性が起きている事で、対称・均齊の脈を更に強固に作り出す要因になっており、その並び自体も基底和音を酷く阻碍させずに居られるのは、トリトヌスが生ずる音程の両端が広く遠い音程関係にあるので(ドリアン・トータルの場合のトリトヌスは3rdと13th、リディアン・トータルの場合はルートと11th)、体を保った感じとして聴こえるのでありましょう。これら二つの総和音の優位性としてはリディアン・トータルが最上位にあり次点でドリアン・トータルと言えるでありましょう。


 その優位性とやらも愚直に総和音として使えばの事でありまして、モーダルな世界を演出をしたいがために、総和音というのはあくまでも「概念的」に留めておいて、実際の演奏上では総和音から「抜萃」する様な体として省略した使い方を用い乍ら、全音階的な調性感を強く導出する様な和音の響きを避ける様にして分数コードを用いたり、ポリ・コードを用いたりして調性感を稀薄にしたりするのが実情と言えるでしょう。スリー・コードというカデンツを一回りして調的な構造を演出したいという世界観ではないのですから、和音の凝集が齎す作用は全音階的であろうと半音階的であろうと俯瞰すればモーダルな世界観を伴わせる事が可能となります。

 和音を重畳しく使いたくないのであれば、四度和音、或いはsus4(茲では4th音がメジャー3rdへ戻る事を示唆しない独立体系としてのsus4コードの事)の方がもっと手軽でありましょう。しかしsus4が暗示して呉れる背景のモードなど、一般的には及び腰になる人が多数だと思います。

 他方、ドミナント7thコードを基底和音としているケースは、その和音に枝葉を付けるオルタード・テンション、或いは多様な和音外音を示唆して呉れるので、体系さえ覚えてしまえば属和音上でのアウトサイドな音脈の演出やらは非常にやり易い筈でしょう。しかし、属和音以外の和音となると途端に閉塞した状況を齎すのは、音楽的素養と多様なモード想起が備わっていないからであります。その中でもsus4での「遊び方」というのは難しい筈でありましょう。


 扨て、茲でfig.4を見てもらうと、ドリアン・トータルとリディアン・トータルの各構成音の音程がどういう風になっているのかが能く判るかと思います。こうした綺麗な対称性を伴う世界では、全音階的な平行進行という動機が導出されるよりも、ノン・ダイアトニック方面への平行進行への脈絡が滲み出て来る様にもなります。ノン・ダイアトニックへの音脈が滲み出て来ると、まだ見ぬ音脈は結果的に基の音組織と鏡像的な構造を伴う事が不思議な事に近親性となって現われて来るのです(つづく)。
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