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マイク・マイニエリに学ぶ投影法(2) [楽理]

 扨て、投影法というのをあらためて語っておきたいのですが、投影から導き出される「鏡像」という対称性は、通常の和音体系に於いては短和音に対してその音脈が「吸着」して呉れる物だと思っていただくと非常に使い易い事でしょう。


 通常我々が調性社会を学ぶ上で初歩のモード奏法を獲得する際、単なるマイナー・コードが提示されたとしても、そのマイナー・コードに対してトニック・マイナー及びドリアンを充てる事が可能なモノか!? もう一つはフリジアン系として処理し得るマイナー・コードとしてのモノなのか!? という2種類の判断を瞬時に見抜く必要性があります。つまり、そこに必要なモード想起としては本位九度が相応しいのか or 短九度を充てるべきなのかという事を見抜く必要が生じます。

 しかし投影法の場合は、基に生じている旋法とは別の「鏡像」で生じた音脈のそれをも合成的に使う事が出来る状態である為、仮に「Fm7」というコードがあったとしてもそこにFエオリアン or Fドリアン or Fフリジアンを想起する事は自由な状態となります。つまり、それらを任意に選択可能な状況にあるのがモーダルな曲想やコード一発系の曲に於いての特徴的な自由度の高さという点が明確になります。つまり、余程基の雰囲気(少なくともFドリアン)を固守したくないのであれば、茲でFフリジアンに「鞍替え」しても何等問題はないのです。つまり、Fm系のコードに対して短旋法の類を充ててモード・チェンジするのは構わないのでありますが、そうしたモード・チェンジという音脈をスムーズにするのは「短和音」という存在を利用するからなのであります。

 然し乍ら能々2番を見て貰えれば判りますが、私は茲で「Fスーパー・ロクリアン」を充てております。それは何故か!?ロクリアン系なら背景に存するFm7の完全5度音であるC音とスーパー・ロクリアンやロクリアンの5度音は合致せず克ち合います。この「克ち合い」が生ずるのが投影法の最たる所であり、投影法を説明する為にも最も重要な点の一つです。それでは次の例を見てもらいましょうか。
Rocks_Analysis01.jpg

 譜例上段はFスーパー・ロクリアン、下段はFリディアン・オーギュメンテッドの下行形という旋法になっております。これらの譜例が意味するものは、下段のFリディアン・オーギュメンテッドは、上段のスーパー・ロクリアンの鏡像つまり投影法を例に出しているのです。

 扨々、Fスーパー・ロクリアンには黄緑色で示した「G♭m」という短和音を生じているのがお判りかと思いますが、これは基のFドリアン上でのFm7から見れば半音上に平行として出現している音脈が和音となっている状況であると言えます。同様に下段のFリディアン・オーギュメンテッドで生じている「Em」という短和音は、基のFm7の半音下平行にある音脈が和音となっている事がお判りになるかと思います。

 マイニエリは2番の時点で「G♭m」も「Em」も弾いている訳ではありませんが、Fm7に対してこれらの音脈をスーパー・インポーズさせるかの様にして音を巧みに使っているのです。ですから前回チラッと語っていた、この2番で生ずる順次進行的フレーズに「ges - as - heses」として敢えて『heses』(=a音の異名同音)と語っていたのはこうした背景から配慮されたモノであるからです。

 つまり、基に存在するFm7という基底和音にFマイナー・トライアドを生ずる世界を投影法にて拡大解釈させて不協和な音を発展させると、そこに元々生じていた短和音は、少なくとも半音上下の平行関係にある短和音を夫々導出する脈をすぐそこに見付ける事が可能であるという状況を生むという事を意味しているのです。

 勿論、Fm7コード一発系の曲に於いてFドリアンを愚直な迄に弾き続けているだけでは、いつまで経ってもそれらの投影法の音脈に到達する事など出来ません。Dドリアン一発の曲にて白鍵上にネコを歩かせていた方がまだマシかもしれません(笑)。冗談は扨て置き、先の様な投影法に依る音脈を得るためには、少なくともフレージングに「ゆさぶり」をかける必要があります。その揺さぶりの為に最もスムーズな処理は「移旋」というモード・チェンジという発想の転換です。単なる順次進行をほんの少し音形を変えてこうした高次な音脈を得ているのであります。然しこの2番での投影法は「平行」という動機を導出しただけの事で、投影法の深さはまだまだこんなモノではありません。

 更に注目してもらいたいのは、マイニエリ以外はFm7を奏していて、その上で「heses」というa音の異名同音が現れる訳ですが、Fマイナーから見たらその「heses」は決してメジャー3rdの音では無いのです。音程が4度だから、という事だけではなく、ブルース的解釈(短三度と長三度が同居する)という解釈というインスタントな解釈でもないのです。長・短的旋法性の両性具有を醸している事は間違いありませんが、マイナー・コードで「恰も」メジャー3rdの音を使っているかの様なこのアプローチを耳にしてアナタの耳は拒絶しますか!? おそらくこれを拒絶してしまう類の人はビールに練乳と砂糖を入れないと飲めない様な感覚をお持ちでいらっしゃる様な希有な方だと思われます。いつまでも調性音楽を嗜んでいて欲しいと思います。お母さんのオッパイの味、墓に入るまで決して忘れないでいただきたいところです。

 そして今一度念頭に置いてもらいたい事があります。通常、ブルース的な解釈での長・短の両性具有的な音というのは、基底にメジャーが備わりつつ、そこに短の要素を醸す音が存在するのが普通です。所謂「シャープ・ナインス」と称されるドミナント7thコードに増九度を附する類のコードに見ても明らかな様に、メジャー・サウンドを基底にさせてマイナー的サウンドを可動的に乗せるというのが通常のブルース的なサウンドでありまして、マイナー・サウンドを基底にメジャー・サウンドを可動的に乗せるという響きは少なくともブルージィーな演出としてはそうそう耳にしない事でありましょう。移旋は別です。茲では併存している状況を語っている訳ですので。

 つまり、マイナー・サウンドを響かせる和音に対して「恰も」メジャー・サウンドに等しい同義音程となる「減四度」の実例をこうして見る事が出来る訳です。旧い私のブログ記事でも減四度の実例は載せていた事もありましたが、私がアレコレ言うよりも希代の名プレイヤーの実例で語った方が余程説得力があるでしょうに(笑)。故に、順を追って今こうして語っている訳ですね。

 全音階的社会ならば前述の様に短和音に対して長九度を充てる事が可能か否か、という旋法のタイプを判別する事は非常に重要な手段でありますが、投影法に於いては短和音に対してそうした旋法の区別にかなり自由度が増す訳であります。全音階的な調性社会に於いて例えば「Dm7」という和音が在った場合、そこに「Dフリジアン」を充てたと考えれば自ずと「変ロ長調/ト短調」を見付ける事になります。調性という物が曖昧であれば「Dm7」に対して「Dドリアン」を充てようが「Dエオリアン」を充てようが構わないのでありますが、「Dドリアン」として弾いたフレージングの直後に「Dフリジアン」を弾けば、調域がスルリと長二度違いのモード・チェンジを行なった事になります。

 茲で「エオリアンとミクソリディアン」の夫々の旋法が「対称性」を持つというモードだという事を今一度思い出していただきたいのでありますが(※私のブログ記事『投影法』シリーズ参照)、これら2つの投影法にて非常に用い易い理由として、エオリアンをスケール・トニックとするその主和音上に短和音がある事に依って、短和音という脈略を利用し易いという所にあります。

 御存知の様に、短和音というのは5度音に重力がある様に振る舞うのは音程構造が長和音のそれと比較して対称的構造になっているからであります。ジャック・シャイエがどれほど下方倍音列をトンデモ扱いしようとも、短和音の5度音と長和音の主和音が共通している音社会がある場合(仮に茲ではC音を共有していると考える)、どうやっても短和音の音程比は1/3、1/5という風に比較が可能なのは避けて通れないのであります。

 なぜなら、この下方倍音列と同様に生じてしまった音脈は下方倍音として生じた物ではなく、投影法という全音階的な社会では閉塞感を伴うので和音の凝集のそれが調性を逸脱して平行を求める為に生じた音脈なので、その音脈そのものを調性を逸脱する為の材料に使うことすら憚られる様であっては、今回のマイニエリの実例そのものをも唾棄する事になりかねません(笑)。ジャック・シャイエは短和音を協和音と括る事に依って生じるジレンマと一所懸命戦っているだけであり、そうした点ばかりを根拠にして調性社会をも逸脱する社会にまでシャイエの姿勢を当て嵌めてしまっては愚の骨頂です。そういう人達が非常に多いので敢えて釘を刺しておきますね。


 扨て本題に戻りますが、Dm7に対して「Dドリアン」を充てた時、そのモード上にエオリアンのスケール・トニックは何処にあるか!? という事を先ずは考えてみましょう。それはa音というのは疑いの無い所です。では、Dm7に対して「Dフリジアンを充てた場合のエオリアンの位置は!? とするとg音になります。Dm7に対して「Dエオリアン」を充てればd音という風に、マイナー・コードを誘引材料にして短旋法系のモードを引き連れて来た場合、調域というのはこれほどダイナミックにd、g、a音をスケール・トニックとする所を往来している事が判ります。

 投影法を用いる場合、仮にDエオリアンが在ったとしたらそれに対する対称形であるDミクソリディアンを鏡像として見立てる事が可能です。するとこれは調的構造から見ればヘ長調とト長調が併存している状況と全く同じ状況を意味します。つまり、長・短的な性格を両方持つ両性具有的な性格の源泉は、こうした異なる調域が併存している様な状況と非常に似た構造になっている訳です。

 つまり、調域としては長二度違い(ヘ長調とト長調)の旋法が同居している状況を生んでいるという所を先ずは注目しておかなくてはなりません。つまり、和音が凝集する世界或いはコード一発物の体系に於いては音の挙動として投影法の方向が自ずと滲み出て来るので、こうした両性具有性を見越しておく事が重要であり、特に投影法ではエオリアンとミクソリディアンの関係は非常に近しく用いる事のできる音脈なのであります。それはDドリアンのスケール・トニック上で生じるDm7は、ドリアンの投影がいくらやってもDドリアンであるのは投影法を創出できないからであり、Dエオリアンのd音をルートとする短和音を根拠に投影法を用いてDエオリアンとDミクソリディアンを併存可能な投影法を利用すれば、Dm7という和音に対してこうした両性具有性を持たせたアプローチを念頭に置く事が出来る訳です。

 斯様にしてDエオリアンから見たドリアンの位置はGドリアンに有り、同様にDミクソリディアンから見たドリアンの位置はAドリアンに或るのでありまして、ドリアンを中心に音組織を見立てればこうして見渡す事となるだけの事で、私の解説はドリアンを中心に見渡していないだけの事です。濱瀬元彦著『ブルー・ノートと調性』6.2.1.1ではこうした事を述べている訳であります。
 
 特定のスケール・トニックを自身の器楽的尺度として便宜的に基準位置を変えるのはこうした時に真価を発揮する物ですが、こうした状況をもっと簡単に言えば、ドリアンは長音階の2度音から生ずるモードとはいえ、前述のそれはドリアンをスケール・トニックつまり「1」というスケール・ディグリー(度数)で見立てるか、若しくはエオリアンを「1」として見立てているかの違いとして語っているに過ぎないのです。濱瀬元彦の著書ではドリアンを中心にして語っていますが、私の場合は投影法を総じて見渡して語っていてエオリアンとミクソリディアンの夫々が併存する妙味をも同時に語る為ドリアンを中心に置かずに述べているだけの違いです。

 加えて、これは悪い例となりますが、ジョージ・ラッセルのリディアン・クロマティック・コンセプトに於いてラッセルがリディアン族という旋法を総じてスケール・トニックとする見立てもそうした投影法から見た時の対称性のある旋法を判り易く尺度の基準として置いた所にヒントを得ているだけの事に過ぎません。ラッセルのコンセプトが罷り通るのであるならば、ドリアンから見た時のリディアンは3度上方か6度下方に在る見渡しにしか過ぎず、リディアン・クロマティック・コンセプトのそれはリディアン族としてテトラコルドの近似性がある他の旋法を纏めて括っているに過ぎず、単なる移旋というモード・チェンジを仰々しく述べているだけに過ぎないにも拘らずそれをリディアンが齎す魔法の様に語っているのが滑稽なのでもあります。リディアン・クロマティック・コンセプトなど知る必要がなくとも他のアプローチでもっと多様な事が出来る事を知る必要があるかと思いますが、素養の薄い人ほど楽理を広く見渡す事が出来ない為、馬鹿が食いつき易い(概ね、脳要らずと形容し得る判り易い言葉が用意してある)様に文章が施されているだけに過ぎないのであるという事を気付かなくてはなりません。(つづく)

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