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読響 第543回定期演奏会 サントリー・ホール [楽理]

 2014年12月4日、サントリー・ホールにて読響第543回定期演奏会の当日は、夕刻から雨が降り出しおちおち散歩も楽しめる様な状況ではない天候となってしまった物の、雪降られるよりマシ!と思い乍ら交通機関に乱れはなく(前日は東海道線で人身事故の影響でダイヤが乱れる)、雨の割には人混みを排除して呉れる雨であり、「歩きやすかった」のは或る意味好都合でした。


suntoryhall543.jpg 私が今回のプログラムにて最も注目していたのが酒井健治『ブルーコンチェルト』でありまして、Twitterでも日頃からお世話になっている酒井さんの作品にはついつい興味が惹かれるのであります。氏もかねてからTwitter上や読響の小冊子内でも語られていた様に、楽式的な構築を声高に語っておられていた様なので、或る意味で私はその言葉に身じろぎし乍ら会場に足を運ぶ事に。勿論、その「楽式」の部分というのは会場内で演奏前に小冊子に目をやると、「無限音階」という部分には注目させられますし、「弦楽器による完全五度」という一文にも注目させられる事に。さあ、一体どんな世界を繰り広げて呉れるのだろうかと楽しみが倍増したのでありました。


 今回の演目は後日テレビ放送もある様なので、色んな細かな分析という点ではテレビ放送の後にならざるを得ないのでありますが、「ブルーコンチェルト」の緩叙調(アダージョ部)の部分では、色んな楽器がドローンの様に、聴衆の耳を手向ける様に音の穂先が漂って音響的に感じる部分ですが、突如そこにヴァイオリンとヴィオラの上げ弓に依るトゥッティの場面変化に耳を奪われ、その壮麗さに圧倒されます。そうして紙ヤスリを用いた「シャーッ」と持続させたノイズの心地良い音響的刺激はそこかしこに現れ、細めのホースも終盤でも使われておりました。

 また、「無限音階」というと、ポピュラー界隈の方では嘗てYMOの作品にて松武秀樹がピッチのリニア的変化(=つまりピッチが滑らか)の上行的な用法があるため、無限音階とはリニアなピッチ変化であるのか!?と誤解される方も居られるかもしれませんが、無限音階は階段状のピッチでも実現可能なものであり、倍音組成の制御具合(つまり音の強弱)で無限音階とは実現するのでありまして、『ブルーコンチェルト』での無限音階というのはこの階段状のピッチ変化に依るものです。

 この時のヴィオラに私は目を奪われていたのですが、ブルックナーがこれを耳にしていたら賛嘆していたのではなかろうかと私は感じてしまったのであります。

 というのも、私はこの無限音階の部分は音響的特性とかそうした皮相的な側面ばかりではなく、ブルックナーのロマンティックを追懐してしまったのでこういう感想になるのですが、そしてその後の形式に関するリスペクトやらを色々勘案すると、私の中ではアルブレヒツベルガーの名がついつい浮かんで来るのであります。そうです、ベートーヴェンも師事した対位法の大家で、特に厳格書法やら減三度の巧みな使い手でもあったアルブレヒツベルガーです。

 私の謂わんとする事を感じ取っていただきたいのは、例えば「ファ#・ソ・ラ♭」という3音の音並びがあったとした場合、 ファ#とラ♭は決して2度音程ではなく3度音程(=減三度)であるという所。こうしたものが西洋音楽の史実は半音階的な世界を発展させて行くのでありますが、ベートーヴェンが師事したアルブレヒツベルガーのそうした所の用法が、所謂「完全五度」という協和に向かっての結句に対して半音階的な音の群れが霧散していく様な形容を、私は今回の『ブルーコンチェルト』にある色んなメッセージの中に感じました。

 半音階的な世界観も元々はオクターヴが分割してから生じて細分化されております。音が細分化されるばかりでなく、「大きな」協和的な響きに身を委ねつつ、細分化された世界観を同時に味わう。そうした対比が生まれている所に、嘗てのアルブレヒツベルガーは音楽作法として説いていたのであり、こうした連関は必ずしや体系を重んじるがこそ辿る足跡なのだろうと感じが故の、私のこうした感想なのであります。

 それは酒井健治という作曲家に対して決して音響的な新奇性だけをイメージしてしまって奇を衒うかの様にイメージを懷いてはいけない(現代音楽がそうしたイメージを孕みやすい)事をあらためて痛感した次第です。酒井健治が繰り広げた世界観の構築は、西洋音楽という歴史への敬意をあらためて見せつけて呉れたのではないかと思う事しきりです。勿論、その中には「新しい」音響も感じるようなシーンがあり、特に、時間的変化に依って左右に音場が変化するような不思議な分離感覚も感じる事があり、興味深かった点でありました。


 他方、カンブルランさんの「トゥーランガリラ交響曲」は、私は期待はずれであったのが率直な印象です。

 数年前のN響でのプレヴィンさんの「トゥランガリラ」の方の世界観が好きなのであります。勿論、カンブルランさんの拍節感のあるトゥーランガリラは埋没しがちな精緻なアンサンブルを赤裸々にして呉れ、多くの隠れた色彩を見せてくれるものですが、私はこの世界観は鳥と音と人間が一体になっている様には感じませんでした。

 第一楽章では顕著な、それこそピアノの高音部の打鍵によるクリック的要素も備えた音。茲にオンド・マルトノもクリック的ノイズが作用しているのかどうかは未だに判りませんでしたが、ピアノがファツィオリだったのが功を奏しているのか、ここのクリック的な音は嘗てのトーキー音楽の様な機械的な音が自然界に出来する様な雰囲気を私は感じ取っているため非常に功を奏したのではないかと思うのですが、その後私はどんどん異和感を覚える様になってしまうのでした。

 私が最も好きな第三楽章は、冒頭の逆モルデント(=プラルトリラー)が速めのリズムで取られていたので「これは!?」と思いきや、これまで聞いたことのあるトゥーランガリラの中でもかなりテンポの遅いレベル。これはお驚きでした。プレヴィンさんの時にも述べた「例の」四度フレーズも埋没してしまっていて、ピアノの増三和音同士のポリ・コードも埋没していた点が非常に残念。

 オンド・マルトノは終始アンプリチュード方面のビブラートは浅く、これは功を奏していたと思いますが、残響(=オンド自身の備えているスピーカーの響線やらの残響)はN響の時の方がキッチリと出ておりました。所謂、スプリング・リバーブ系の飽和感が少なく浅かった感じの音。というのも、リニアな音高変化の時、この残響はとても深い鳴りとして作用するのですが、それが少なかったのです。

 第7楽章のピアノも私は児玉桃さんの表現の方が好きでした。


 私は今回カミテ側からカンブルランさんのタクトを追っていた事もあって音のバランスなどについては後日放送されるであろうテレビ放送を待って改めて語ってみようとは思いますが、トゥーランガリラに関しては個人的にはとても残念でありました。

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