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調性の変遷 [楽理]

 扨て、メロディック・マイナー・モードが視野に入ると調性感は中性的になり、軈ては平行を許容するという事を語って行く事にしますが(メロディック・マイナー・モードのIV度上とV度上がドミナント7thコードを形成)、それを語る前に調性がどのように扱われていたか!?という事も先ずは語っておかなくてはなりません。特に短調組織は多様だったので、そういった側面も含めて今一度語っておく必要があるでしょう。


 一般的な楽典の知識では、ヘプタトニック組織の音階は1つの長音階および3つの短音階という物を最初に習う筈です。短音階の組織がそれほど多様化しているという事が自ずと理解できますが、長音階組織でも軈ては「両性具有化」させる様に多様化し、モルドゥアと呼ばれる和声的長音階や、其の他の混合長旋法という類の旋法に括られて行く様に多様化していたものの、短調の世界の方がずっと多様な性格を展開していたのが西洋音楽の長い歴史であったのです。

 短調というのは抑も中世まではドリア調として扱われていた事が識られて居り、短音階の第6音(サブメディアント)が短六度として半音下がったのはそれ以降というのだから畏れ入るばかりです。勿論対位法の研究が活発化し、其の後のツァルリーノに依って和声が発展して行ったという事を踏まえつつ、和声は発展して行くのでありますが、長調・短調という二つの判り易い曲想の性格を取扱うに際して、その和声論に対して和声一元論や和声二元論という、解釈の違いがあったのも事実。特に和声二元論は後のフーゴー・リーマンの長調と短調が鏡像関係にあるとする類のものと、単に鏡像としてではなく曲想として両性具有性を二元的に扱う(多くは此方のスタンスを採っている)物が出来上っていた訳でありました。

 とはいえ、その和声二元論とやらもリーマンのそれ(=下方倍音列)は単なる「虚構」である事を是としない人も、虚構という物をそれこそダリの絵画の様に絵画として具現化した物に喩えた時、虚構としての世界を描いてしまえば棄却されてしまう嫌いもあります。つまり、現今社会では虚構をも描く為に調性社会は稀釈化が進んではいてもいつしか嘗ての和声二元論の中にあった二つの潮流というのは最早混ざり合っている物にすぎない物なのですが、己が音楽に真摯に向き合う時点の和声感覚の熟達度に依って、和声に関する概念を許容する世界観は大きく変わって来るのも事実です。但し気を付けなくてはいけないのは自身の感覚を基準にして捉えてはいけないという事です。


 扨て、西洋音楽の歴史では和声が現れる遥か以前から驚くべきことにドリア調が本来の短調の姿であったのです。つまり、能くあるグリーンスリーヴス(Greensleeves)は主題がドリア調であったりエオリア調であったりするものですが、史実的に準えればドリア調を本体として進行感を得るときに第7音が可動的に導音化する(この局所的な導音化だけを注視してメロディック・マイナーと見てはいけない)というのが本来のグリーンスリーヴスであると言えるのです。エオリア調でのそれも同様で結果的に導音として可動的変化をする部分以外は導音として可動的変化を起こさない体系だからこそエオリア調であるので、局所的な導音の変化ばかりで和声的短音階と判断してはいけないのと同様です。

 さて、今茲で述べてきた短調(=エオリア調)というのは、現今社会での短調という観点からグリーンスリーヴスという曲を判別するに際して、どの短調としての姿がオーセンティックな物なのか!?という観点から生じた変化に依るもので、それは西洋音楽史を無視したポピュラー音楽由来の「自然短音階こそがオーセンティックな姿であるという誤謬」から生じた違いであり、その違いというのは正しい西洋音楽史から見るとエオリア調というものが突如ドリア調からの変容を求められた物に映ってしまいます。

 そこで今度は「正しい西洋音楽の歴史」としての過程に於て、短調の終止形は長和音である可しという事。つまりピカルディ終止と呼ばれる所の、現今社会では同主調の主和音を拝借する体系として識られる「ピカルディの3度」という、メジャーを伴う音で終止する。これが歴史的にはドリア調の後に訪れる短調の基本形となっていた訳です。

 ドリア調の第七音が主音の為に半音の可動的変化として導音化したとしても、これは一時的に旋律的短音階に変化したとも云えますが、孰れにせよ、こうした可動性や終止形の「規制」に依って短調の世界は多様であったという事が改めて判ります。

 そして時代が進んで18〜19世紀位になると、その短調の在り方が余りに「ベタ」に感ずる人も現われて、短調が単なる自然短音階としての「エオリア調」が出来する様になります。つまり、エオリア調というのは漸く爰にて自然短音階というスタイルとして登場するのでありまして、時代的にはこれほど遅れて登場するのです。

 西洋音楽史における短調の歴史への理解が念頭にあれば、本来ならグリーンスリーヴスがドリア調 or エオリア調か!?なんてアタマを痛める必要は無かったのであります。それら2つのいずれかという前提こそが間違った解釈な訳ですから。その後短調は「ジプシー調」という風にも変化をするようにもなります。ジャズ/ポピュラー界隈でのハンガリアン・マイナーとして知られている和声的短音階の第4音が半音上がるタイプの物です。

 ジプシー調を使う様な頃には、異名同音的な解釈が其処彼処で生じるため、減三和音の第3音が半音上がる(硬減和音)ものや減三和音の第3音が半音下がる(二重減和音)ものなどを目の当たりにする事になります。特に二重減和音を構成している一部の音程は「見かけ」こそは全音音程なのにそれが二度音程ではなく三度音程であるという同義音程であるという事を強く意識させられる体系であります。


 扨てジプシー調は兎も角、ピカルディ終止というのはジャズ・シーンで謂うならばこれこそモーダル・インターチェンジの魁でもありますね。つまり、短調という多様さは凡ゆるシーンで二面性を発揮する事になるのですが、和声が発達して長・短の和音が取扱われる様になった時、トニック、ドミナント、サブドミナントという和音が長・短の二面性を持つ事になり、多様化する短調組織に於ける和声機能が同様に長音階組織にも置換される様に使われて行くと、次のex.1の様な組織を俯瞰する事が出来る訳です。
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 赤文字は短旋法組織、黒文字は長旋法組織であり、それらの旋法を司るためのダイアトニック・コード群(茲では主要三和音)も示している訳です。

 これらの和音体系から判る様に、自然長・短音階組織以外の和声構造はどこかで長・短の和音構造を「拝借」している構造として見る事が出来ます。

 この様にして調性の変遷を見る事が出来る訳ですがジャズの場合は、先のex.1で示した和音群のそれらに対して更に七度の音を附與すると思えば多様化は更に著しいと映るでありましょう。しかし実際に7度を附与する事はジャズでは「当然」の如く「基底和音としての硬さ」を求めてられて作られている物です。無論和音の構成のあり方としては基底和音こそはトライアドであるべきですが、ジャズの基底和音は七の和音として捉える事を是とした事から単に撥して、その後は、七度の音が和音を多様化しているのではなく更に附与される9・11・13度の音が和音上で変化する逐次の「オルタレーション」として現れる事が取り扱いやすく、ブルー3・5・7度がヘプタトニックに附與された10音音階の音組織として使っている訳ではありません。その取り扱いは決してメジャー・トライアドの第3音や第5音がオルタレーションした物として使っている訳ではないのがジャズのコード進行の特徴でもあります。

 しかしジャズの基底和音こそが七の和音を前提とする考えのままだと、後に起こり得るポリ・コードや分数コードとしての解釈で奏する必要がある時閉塞してしまいます。つまりジャズの「壁」を見る事になります。ここには、オルタレーションさせた音の取り扱い方は習得したのに、本位9度の音や、やがてはsus4という便宜的な和音、掛留が解決しない為の4度音の独立体系の為の表象ですが、つまり、sus4=本位11度の音の取り扱いに難儀する様になりかねないので注意が必要であるので、こうして順序立てて述べているのであります。

 オルタレーションを取扱う事が楽なのは、長・短という両性具有を一気に俯瞰した見渡しが可能で取り扱いが楽であるからという事は先述した通り。そのオルタレーションというものは、ブルー3・5・7度を視野に入れた変化音ではなく、長音程・短音程を俯瞰した変化音だという事もあらためて気付いてもらいたい陥穽である、という事もお忘れなく。#11thというオルタレーションをブルー5度の同義音程だからといってもそんな理解に収まっている輩は決して、本位11度が有りつつ完全五度が半音下がるという様な、つまりブルー5度と本位11度が併存する様な体系を使っている事はないでしょう(笑)。何故か、いつしかブルー3・5・7度がオルタレーションで生ずる同義音程に置き換えられてしまっているのが落とし穴だという訳ですね。

 ブルーノート(=ブルー3・5・7度)と長・短の両性具有化で生ずるオルタレーションがゴッチャになってしまっている事を当のジャズメン達の殆どは何の疑問も抱くことのないままそうした体系を理解している筈です。無論そういう理解である(矛盾も受け容れる)方が目先の取り扱いに楽である事はいうまでもありません。その柔軟性も亦ジャズのメリットであったでありましょう。特に初期に於ては。
 
 扨てジャズというジャンルを理解する上で何種類か存在する『ブルース・スケール』(*ブルース・スケールは1つではなく幾多の解釈があり統一されていない)の中には、ヘプタトニックという7音組織を超えた解釈でスケールとして充てている解釈も無くはありませんが、ヘプタトニックを超えた音組織でモードを形成している訳ではなく(8音超での音組織のまるで新たな調組織とでも呼ぶような物ではない)、あくまでも既知の7音体系の一部の音の可動的な変化で彩るのがジャズであるので、たった一つの本や一人の理論家の解釈を一義的に捉えてしまってはいけないのがブルース/ジャズにおける可動的変化の仕組みである事は肝に銘じておかなくてはなりません。


 一般的なジャズという音楽を取扱うに際して、ドミナント7thコードが出現する局所的な場面ではオルタレーションという、長・短音程を拏攫する事で多くの音の変化を可動的に使う事が容易になるため、ドミナント7thコードの出現時に「オルタレーション」化させ、それ以外では調性という性格を強く押し出す事で調性感を演出(モード想起)する、という事が安全な手段として発展していった訳です。


 オルタレーションを「強化」するとそれは、元々は長調として存する曲の楽想が短調「風」に感じられる局所的変化を為す様に奏する事もあれば、短調の楽想を長調「風」に奏される場面が出て来ます。これは、主旋律さえ変奏されていなければ、伴奏として和音が楽想を投影している訳ですから、その和音が「長・短」を互いに置換させる様にするだけで、伴奏は長・短の両性具有化を生じ、その上で主題が原調に沿って奏する中で伴奏の変奏で生じた可動的なオルタレーション化された音が主旋律を著しく疎外させないと感じられれば、その時点でジャズの色彩は一段と色濃くなる訳です。つまり、こうした長・短旋法の拝借のし合う構造は、先述のex.1で見られた和音群を事細かく拝借し合っている事と等しいのであります。


 そこで、オルタレーションが更に強化するに際して、基本的な和音進行から更にツーファイヴとして解体する(既知の和音を着地点として「ツー・ファイヴ・ワン」を形成すればよい)。
 
 例えばG7というドミナント7thコードをトニックという、つまりKey=Gにてトニックとして使う世界観において(中心音の振る舞いを変えているが故にG7がト長調の主和音として聴こえる世界観の意味)、それは決してハ長調での属和音として使っている訳ではありません。ジャズの可動的変化で生ずるブルー7度に依って生ずるドミナント7thコードが必ずしもそれが特定の調性での属和音として聴こえないのは中心音の振る舞いを利用するからだという事はこれまでも語って来ている通り。
 
 G7が着地点=I(=ワン)である事で、ドミナント7thコードの出現は増大し、オルタレーションを重ねて行く事を可能にしたのがジャズであったのです。本来ならそのI度上のコードは七度音を与えたとしても長音階での長七度を持つ和音であった筈なのですから。この時点で、長音階の第7音がブルー7度としての変化が起こっており、音の可動的変化が多様化を増大させているのは明々白々です。

 つまりG7が一発コードとして存する状況であったとしても(*このG7はKey=Gのトニック)、G7を着地点として見立てれば、結果的に奏者はG7という進行の何の変化も無い状況であっても己だけがA7(alt)→D7(alt)→G7という風に想起して奏でても一切構わない。またはA7(alt)→A♭7(alt)→G7や、E♭7(alt)→A♭7(11)→G7という風に想起(※ex.2参照)しようが一切構わない(G7という着地点に行き着くのであれば其処に動的な和音進行を仮想的に挿入して起承転結を図るという様な進行をえられるならば如何様な和音進行を想起しても構わない)。
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 ※ex.2の譜例中のA♭7(11)にて生ずるd-des-cというフレーズは基底和音A♭から見たときの#11-11-M3という風に見る事が出来、想起している和音がA♭7(11)であれば#11thを生じる必要が無いのではないか!?と思われるかもしれませんが、この架空の和音想起こそが想起である以上、想起した和音を固執する必要はなく寧ろA♭7(alt)とA♭7(11)を瞬時に且つ可動的にオルタレーションと本位11度をそれぞれ使っている事を意味します。また、#11thをA♭から見たブルー5度の同義音程としての異名同音と見立てる事も可能であります。そうするとA♭7(♭5、11)という風に和音を表す事も可能かもしれませんが、この和音はあくまでも「架空」なので、架空の和音を想起する事は重要であっても、その架空の和音に束縛される必要はまったくありません。想起した和音が支離滅裂な和音進行になっていなければ、元々の和音「G7」という組織の体を保っている訳で、組織が保たれた進行というのはその組織内では「動的」な和音進行と同義なのであります。機能和声がトニックから進んでトニックに帰結する動的な「転がり」と同義なのです。


 さらにはEm7(♭5)(Key=Gのブルー3度オルタレーション)→A7(alt)(Aから見た時の長短音程の具有化)→A♭7(長短音程の具有化)→G7という風に見立てても構わないのであります。G7は出発点でもあり着地点でもある。これがバップ)。これは何度も語って来ている様に、実際に奏でられるG7という和音に「左右されない自由な」音を求めての想起であり、こうした実際のコードの枠組みから逸脱して「動的な」コード進行を想起して多彩なアプローチをするのがバップだったという訳です。あらためて申しておきたいのは此処で実際に和音として鳴っているのはG7であり、想起している和音進行はプレイヤーの脳裡で仮想的に想起されている物であって、G7からだけでは決して得られない逸脱した音脈の為の道標であるのです。つまり、踏み付けられた事の無い雪道での「轍」を作る。愚直な轍を作る為の物ではないという事も明らかです。

 「動的な」という所がポイントです。つまり、この動的な和音進行は想起と雖も調性を利用しているのであります。出発点でもあり着地点でもある。これも重要な考えですので、いずれ私も説明するので御安心を。




 扨て、茲で今回用意した譜例をファンク風にアレンジしたものをサンプルとして用意しましたが、エレピ・パートは譜例左手パートより1オクターヴ上げました。加えて、メロディ・パートはシンセにて4度下(5度のハーモニー)でアレンジしております。

 シンセのパートはスタンリー・クラークの「ロプシー・ルゥ」を参考にしたものですが(嗤)、四度下でハモらせる五度ハーモニーの意図は、平行五度オルガヌムを思い出していただきたいのですね。ブルース/ジャズの始原として出来したそれを。それを意図したものなので、譜例には表していないもののきちんと感じ取っていただきたい訳であります。

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