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分数コードに慣れ親しむ [楽理]

 今回のテーマは分数コード。コード表記としては分数の類ばかりではなく [on 〜] とも書かれる言わば「オン・コード」も分数コード表記に括られる物で、そうした体系を語る事になります。


 但し、そうした分数コードの成り立ちなど知ってはいても、その響きを体得していない人が圧倒的に多い事の方が問題であり、コードの体を知って居乍ら体得できていないという事は音楽を思弁で語る事に等しい事でもあり、思弁で以て語れてしまうという事ならば和声的感覚の体得なくしても音楽を語れて了うという本末転倒な事が罷り通ってしまいかねません。

 処が音楽とやらを思弁で語る事も出来るこの側面は、体得など出来ていないにも拘らず分数コードとやらを語る事が出来る輩を産んで了うという事になり、体得など程遠い音楽観を持つ物が言葉巧みに佞口ぶりを披露して表現し得る語句を並べて恰も音楽を正当に評価するかの様に騙る輩など少なくありません。


 こういう悲哀なる側面を一旦無視して、分数コードの響きをきちんと体得してみようではないか、という狙いがあるのが今回のブログ記事の試みな訳です。そんな体得もなく分数コードとやらの体系を語る事位はある程度コード表記の体系を知っていれば誰でも出来る事なのですが、そういう方面とは違う、体得の必要余りあるという部分で以て語って行く事になるので、少なくとも分数コードの体得に苦手意識がある様な人ほど目を通してもらえればと思います。


 抑も「分数コード」とやらの、そのジャズ/ポピュラー音楽界隈にて使われている表記ルールというのも隅々まで厳格なルールが存在する訳ではなく、三和音体系を表記するコード表記こそが厳格であり、その表記からの「オルタレーション」的変化で派生しているものであり、sus4とてそのオルタレーション的動作のひとつに括られる訳ではあります。

 とはいえ便宜的に表記した和音が、基底に備わる和音の体を全く疏外してしまっていけしゃあしゃあと表記してしまう、それこそ「○7sus4 (9)」の様な馬鹿げた表記をこれまでも散々私が非難して来た事は記憶に新しい事かと思います。

 いくら多くの人が最低限の表記ルールを理解しているからといって、そこに甘んじて和音の基底部分が全く存在しないにも拘らずそこに和音の存在の軸を求めて了うのは、もはやそれこそが「分数コード」化してしまっている事にすら気付かぬ詭弁を弄する事だと散々行って来ているのが私であります。そりゃそうでしょう。「G7sus4 (9)」とやれば、いくらその表記を相容れない私であっても構成音そのものは「g・c・d・f・a」を謂わんとする事位は理解はできます。

 しかしその和音の体は基底として備わる和音としては全く存在しない侭に、単純にg音が分数コードとして存在するかの様に上声部にDm7を存在させるのと等しいのであり乍ら、そんなコードに対してg音に主体性を持たせる表記を充てるとはあまりにも馬鹿げているという事を述べている訳ですね。


 前述の馬鹿げたコードの最低音として在るg音が、少なくとも「基底和音」として存在する為にはg音を根音とし且つ完全音程が併存する状況で無ければ基底和音としての存在は無理なのです。g音から見た完全音程であるのはd音ですが、g音・d音とを満たす三和音としての体として少なくともB♭ or B音(独:b or h音)の存在がどうしても必要となる訳です。しかし、sus4である以上、そこに存在理由となる和音を抑もsus4という事が避けてしまっております。

 sus4という表記が基のトライアドの第3音を「便宜的」に変化させている表記である利便性に乗じて、その上声部にどんどん3度累積の和音を累積してしまってりゃ世話ねーわって事なんですね(笑)。基底和音は3度累積ではないのに、上声部に3度累積をd・f・a・cとやってりゃ、そりゃあ和音としての在り方が上下逆転させてしまっているのに、それを分数コードとして判断してしまうのが厄介だから基底音(ベース)も上声部も一義的に捉えてしまう事が演奏上都合が良いから和音表記を手前勝手に変えてしまうというのは和音という存在自体も知らぬ馬鹿のやる事なのであります。


 こうした側面とやらに興味を惹き付けられる前に、きちんとした分数コードの体得を以てすれば、体得の難しさの前に表記の一義的解釈が和らげてくれるという馬鹿げた理解を妨げてくれる事になるのです。



 そういう訳で分数コードという物をあらためて「体得」する為に必要と思しきステップを語る事にしますが、基本的に分数コードとは云っても、能く使われる「3度ベース」と云われる類の物は、アッパー・ストラクチャー的振る舞いに依る和音のそぶりとは全く事なる物として別個に捉える必要があるかと思います。何が云いたいのか!? というとつまり、トライアドがある處に、第3・5音をベースにする類の和音の響きという物は「体得」云々ではなく、それは体得するまでもなく聴覚(脳)がきちんと苦もなく判断できる事なので別個の物であるという意味なのです。

 アッパー・ストラクチャー的な振る舞いというのは基本的には「複音程」に備わる音脈という事ですから次相のオクターヴ相を利用する音脈の事となるので、3度堆積タイプの形から云えば9・11・13度音の音脈を最低音として利用する事がアッパー・ストラクチャーの音をベース音に用いる事となる訳です。しかし、分数コードの体系では単オクターヴ(単音程)の相貌でもトライアドでは得られない音脈となる「遠い」音が一つある事を忘れてはいけません。それが「7度」の音脈です。

 つまり、7度音がベースとなる状況の存在を忘れてしまってはいけないという事です。所謂、基底和音の第3・5音以外の音をベース音にする類の物で、7度音をベースにする事の方が最も和音感覚として「遠い」音脈であり、且つこれを体得すると、9度、11度音をベース音にするという「響きの体得」は楽になるのです。


 例えばG7という和音があったとしましょう。この7度音をベース音にしてしまえばG7 (on F)であり、和声的に全体を俯瞰すればG7という和音機能は消失する事はない侭、ベースがG音ではなくF音であるという處が本体を仄かに暈しているという状況でもあるという事がお判りいただけるかと思います。仮に構成音が上声部にG△というメジャー・トライアドがありそこに単純にF音というベースがあったとしても、和音としては「G7」に等しいのですが、G7そのものを柔和にしている響きであるという事を述べているのです。


 とはいえ、その「和声的俯瞰」がG7であったとしても、G7 (on F)というこの和音が明確に五度下行進行を行わない状況があったとすれば、それは実に「旋法的」な物であると謂えます。つまり、G7 (on F)の後続和音がCあるいはCmに行かないという状況が「旋法的」という意味です。

 そうすると、和音機能としての属七の体は弱まった事になるとも謂えます。つまりG7 (on F)がG△ (on F)でもある状況にもなったと見る事もできるでしょう。


 こうしてG7という、本来ならドミナント7thコードという強い機能を備えたコードが稀釈化されているのはお判りかと思いますが、和音を垂直的な構造として見た時にこのような稀釈化されるシーンという物もごく普通に有り得る事であり、音楽の形式としては和音を暈すばかりでなく、和音の連結が暈されるシーンもあるという事を忘れてはなりません。それが弱進行や偽終止に繋がる事なのです。

 つまり、和音が暈されるのは垂直的な構造が稀釈化される事であり、水平的に暈されるのは和音進行や終止に伴う世界観が稀釈化されているという事を意味するのです。


 分数コードという物は、それそのものの構造が稀釈化されていたり機能が複合化されている物です。だからこそ分数コードなのでありますが、そうした和音が連結し合う際に、既知の、それこそ五度下行進行に宛てがう様であるならば、それは機能和声のカデンツを素直に進んだ体系で和音を垂直的に暈しているだけにしか過ぎず、仰々しく感じる進行感をせめて和音の響きで稀釈化しようとしているだけの事で、メリハリとしてはあまり良い使用例ではなくなります。

 分数コードをもっと巧みに体得するには、進行も既知の体系から「背いて」いる方が判り易いとも云えるのです。ですから、分数コードを巧みに使うには、垂直的にも水平的にも背いている方が効果を発揮しやすいのです。


 偽終止というのはこれまでも洗足論叢の戸田邦雄の小論や『新しい和声』などでも語ったので再掲はしませんが、「弱進行」については次の様に述べておく必要があるでしょう。平凡社刊『音楽大事典』より。


弱進行  強進行の対。次のような根音進行を行う和音連結を指す用語。  (1)2度下行、(2)3度上行(6度下行)、(3)5度上行(4度下行、主〜両属和音間を除く)。これらの和音進行は古典的和声法では原則として用いられないが、16〜17世紀の和声法にはきわめて一般的で、1つの和声様式上の特徴をなしている。この時代は調性の確立の過程にあって、和声の機能も、主要3和音の優位もまだ顕著ではなかった。弱進行の使用は旋法から調性へのこのような過渡的段階における和声法として、コラールなどに豊富な用例がある。18世紀に至って機能和声が確立するともともに、調的機能を強く結びついた弱進行は例外的な用法あるいは特殊な意図の下でだけしか現れなくなったが、ロマン派における和声法の開拓が進むと、弱進行のもつ独得に魅力が再び意識的にとり上げられるようになった。リーマンは和声2元論の見地からこれを理論的に説明しようとしたが、近代音楽におけるこの進行の愛好には民族音楽や中世音楽に対する再認識や、印象派以後従来の和声学上の制約が打破されたことが大きな力となっている。


 この文章にあらためて深く首肯させられる事は多いかと思います。この文章を漠然と捉えてしまう様であるならば残念乍らまだまだその方の音楽的素養は浅く、分数コードを体得するという事は難しいでしょう。しかし、それでも分数コードという響きがどういう物を指しているものであるのか!? という事を実感してもらうのは可能なので、この実感を吟味する事で体得は思いの外早くなる物でもあるのでキッチリ体得してもらいたいと思わんばかり。


 扨て、私が先述していた中で7度音がベース音になるのが一番遠い音脈だという事は何故なのか!? という事を先ず語っておく事にしましょう。


 我々が音を知覚するに当って高い周波数を認識しやすいのは、低い音の振動数を知覚する前に高い振動数はそれよりも速い振動数で振幅運動をするから聴き取り易い訳です。仮に1:5の振動数の音波があった場合、1が1回の振幅する間に5の振動数は5回振幅する訳ですから当然です。

 また、音波の知覚に於て3度音程の類推が楽なのは3度音程を累積させる事で5度音程を見る事でその下支えを得るからでもあります。


 つまり、7度音というのは上方に仮想の3度音程を累積させてそれを類推すると9度音程上方に漸く15度音である基底音のオクターヴ相を見付ける事が出来ますが、9度音は7度音よりも近く15度音に近いので、本来の基底音の類推が近いのです。7度音の下方に3度音程を類推させれば上方に探るよりも音程的な距離は近いのですが、それですと7度音がベースとなっている分数コードの場合、最低音よりも更に音を低く類推する事を意味するので矛盾が生じます。

 つまり、9度音がベースとなっている時も同様に、それ以上低く3度音程の類推は矛盾が生ずる以上は、3度音程の類推は上方に脳裡に映ずる必要があり、そうなると本来の基底音(根音)は15度音にどちらが近いのかという事になり、結果的に9度音がベースにある2度ベースよりも7度音がベースにある方が遠い脈絡となる訳です。

 とはいえ、その「遠い脈絡」は和音の体をぼやかす程度の稀釈化であり、分数コードたる分離感とやらはやはり複音程側の音脈(つまり9・11・13度を思弁的に挙げる事が出来るが13度音は実質元の和音の3度下という近い音脈)の方が強く持っているのは事実です。


 扨てそこで、ドミナント7thコードとして見る事も可能な状況で、その7度音がベースにあり、且つ後続和音が五度下方進行を行っていない時の振る舞いがどの様に感ずるかという事を例示してみる事にしましょう。


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 今回の分数コードの用例の題材になる曲はまずボーイズ・タウン・ギャングに依る『Can't Take My Eyes Off You(邦題:「君の瞳に恋してる」)』です。原曲はフランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズの物ですが、そちらはヘ長調、ボーイズ・タウン・ギャングの物は変ロ長調であります。



 私は嘗てフランキー・ヴァリの方の『君の瞳に恋してる』に先に遭遇しているのですが、それはロバート・デ・ニーロ主演の映画『ディア・ハンター』の中で再三使われていた為とても鮮明に覚えていたのですが、国内で上映されてから数年程で日本のTVCMにて確かネスカフェだかネッスルのCMにてボーイズ・タウン・ギャングの方が用いられた事もあって、これにて一気に広く知られる様になったというのもまだまだ記憶に新しい所です。



 私の年代だとコーヒー絡みのCMとなるとニドとかクリープのCMもやっていた頃でもあるのですが、まあボーイズ・タウン・ギャングのカヴァーが取沙汰されるのは、原曲の良さを存分に発揮し乍ら現今社会のそれに十分適合したアレンジであるから他ならず、洋楽のマスト・アイテムのひとつに挙げられる位周知されているものですが、そのイントロの秀逸な分数コードが詳らかに語られる事は意外にも少ない物です。


 という訳でボーイズ・タウン・ギャングに依る『君の瞳に恋してる』のコード進行に用いられている分数コードを語る事にしますが、分数コードとやらを明確に認識してもらう為に最初は主音のみを例示した上でその後に原曲と同等となるイントロ部分を抜萃して示している物ですので、以下に示す譜例は原曲を示した物ではなく便宜的な物という事はご容赦を。

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 ボーイズ・タウン・ギャングのアレンジを踏襲するならば、下声部変ロ音(=主音)のそれは移動ド唱法ならば「ドドーソ、ドドーソ」という充て方が適切かもしれませんが、まんま踏襲して了ったらそれこそ原曲通りの譜例となりかねませんし、主音を強く意識した上で聴いてもらう事が重要なので今回敢えてこうしているのです。

 扨て、イントロ冒頭となる最初のコード「C△/B♭」この分数表記の分母部は勿論単音を示している物ですが(※私が分母側をも和音である事を示す際はサフィックスを付与します)、「C△/B♭」を和声的に俯瞰するならばそれを構成している音は「C7」と同等であり、機能的にはC7と同等で有り乍らベースが七度音のため仄かに稀釈化している訳ですが、これを「C7 (on B♭)」と表記しても別に構わないのです。処が後続和音を見れば判る様にドミナント7thコードが解決する顕著な振る舞いである五度下方進行をしていない訳です(※この解釈がとても重要)。

 つまり、明確な五度下方進行をしていない所にわざわざドミナント7thコード表記を充てる必要はありませんし、これを仮にジャズ・アレンジにしたとして、ドミナント7thコードと表記する事で盲滅法となってオルタード・スケールやらコンディミを充てられたりしよう物なら折角の背景の和声感を損う事にもなりかねません。勿論ある意味では「君の瞳に恋してる」のイントロでそうも遊ぶ事が出来るのか!? と呈示する事に貢献はできたとしても、それは原曲が持つ余薫が齎してくれる物であって、first sightとして聴いてしまう人からすれば折角の綺麗な和声感を損っているかの様にしか聴かない可能性の方が高まるので、敢えて属七の表記を避けた解釈でこの様に明記しているのです。


 すると後続和音はC△がCmに変化したかの様に見ても良い筈なのに、態々Cm7の同義音程和音となるE♭6を充てているのは疑問を抱く方は少なくないかもしれません。恐らく彼等の言い分は「C△→Cmとする方が判り易いだろう」という所でありましょう。

 勿論、判り易いのは確かかもしれませんがそうした解釈は、受け手の判り易さに手を借りただけに過ぎない付け焼き刃的な考えであるに過ぎず、それこそ和音構成音が伝わる事だけを是としてしまい「Ⅱm7 on Ⅴ」の形を「Ⅴ7sus4 (9)」と伝える事を是としようとする愚行と何等変わりない解釈と等しい状況を招きます。

 今一度能く見て下さい。コード進行が続く本体2小節目の和音こそが、和声的な体としてCm由来の和音ではなく、基底に備わる保続音(ペダル・ポイント)B♭音が和音構成に和声的に作用しているが故にE♭6と為すべき物であり、且つE♭6の6度音が限定進行音として後続和音に順次上行進行する(E♭→F)という事で弱進行(Ⅳ→Ⅰ ※上声部のみ)を示しているのは明白でありましょう。ですからこうして表記しているのです。

 つまり、私がこれまでドミナント7thコードの一義的ではない多義性の側面と、偽終止やら和音進行に於ける弱進行の側面などをなぜ詳らかに語っていたか!? という意図があらためてお判りいただけるかと思います。それこそ属七提要の件から含めれば1年ほど経過する訳でして、月日の流れの早さを実感しますが、この程度の事など私とサシで会話すればそれこそ30分も必要無い事なのですが、文字にするとついついこうして月日を要して了うのが辛い所ではありますね(笑)。


 とまあ、『君の瞳に恋してる』のイントロ部の和音表記の意図はお判りいただけたかと思いますが、それ以上に重要な事が譜例下段にも添え書きしている様に、最初の「C△/B♭」の上声部は変ロ音を主音とするリディア調のII度という解釈が必要であるというのが重要な解釈なのです。

 通常、長音階組織でⅡ度が長和音化する時というのはドッペル・ドミナント、つまりV7の為にIIもドミナント7thコード化するという事が挙げられる訳で、キーがB♭であるならば、本来のⅡ度は「Cm7」である筈ですが、それが長和音化している「C△」というのは、ドッペル・ドミナントである事が多いのが通常の世界なのです。

 然し乍らここはドッペル・ドミナントではないのですね。ですからドッペル・ドミナントとも違う解釈で以てこの和音を解釈してくれない事には、浅学な者が解釈してしまいがちなドッペル・ドミナントと誤解をしてしまう事を是認してしまう事になりかねないので注意が必要なのです。これは局所的にリディア調のⅡ度に対してベースはⅠ度の保続音として成立しているという事を示しているのです。

 そして2小節目の「E♭6 (on B♭)」ではリディア調が長音階(メジャー・スケール)に「移旋」して「Ⅳ6 on Ⅰ」の型として成立している事になるのです。「Ⅳ6」という和音は「Ⅱm7」と構成音こそ同じですが、何度も述べて来ている様に、後続和音のそれと6度音の限定進行を勘案すれば、決して「Ⅱm7」とはならないのは明白であります。


 リディア調のⅡ度が愚直なまでに五度下方進行をしてしまったらリディア調という旋法性の薫りは消えてしまいます。旋法的な和音進行の世界観というのは、機能和声でのカデンツとは違った振る舞いがあるという事を知っておかなくてはならないのですが、先の『君の瞳に恋してる』でのリディア調のⅡ度はペダル・ポイントとしてⅠ度が併存している事で和声的にはドミナント7thコードと同様の音が鳴ります。仮にそうした状況をドミナント7thコード上にて、オルタード・スケールを馬鹿の一つ覚えとして充てて来たり、それこそドミナント7thコードと同様に思い込んで、基の和音の体を壊さない様にと本位11度音を態々♯11thにオルタレーションさせてしまったりしては愚の骨頂です(笑)。

 曲がりなりにもそうした状況をドミナント7thコードと同等と見做すのであれば、それこそ本位11度音を使っても差支えないシーンに遭遇している状況であるにも拘らず、馬鹿の一つ覚えの様に態々11度音をオルタレーションさせるというのは、私なら人中に掌底喰らわせるレベルの愚かな行為と見る事でしょう。


 リディア調のⅡ度とやらも見抜けぬ人が次の曲を聴いたらどういう解釈をするでありましょう!?

Stunt_BNL.jpg この曲は90年代末にかなりヒットしたベアネイキッド・レディースに依るアルバム『Stunt』収録の「Alcohol」です。そのまま日本語に直せばアルコールですが、明確に曲中で「アルコホール」と唱われているので、少なくとも今回は「アルコール」とは私は書きません。



 扨て、この曲のキーはBのブルース・メジャーです。ブルースにはマイナー系とメジャー系があるもので、メジャー系のブルースではブルー3度も附与される事が少なくありません。例えばスティーリー・ダンのアルバム『うそつきケイティ』収録の「Black Friday」は全体的にマイナー・ブルース系であるものの、メジャー由来の本位3度音が強調されるのはウォルター・ベッカーのギター・ソロ(私はこのギター・ソロは長い事リック・デリンジャーだと思っていた物でした)の時であります。
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 メジャー系のブルースは大概は長音階がミクソリディアンに移旋した状況であり、ブルース・マイナーの場合は短音階がドリアンに移旋しているケースが多い訳ですが、メジャー&マイナーのどちらのブルースとて、本来は本位3度&7度音があった上で成立して、且つ5度もブルー音度に変化するだけの事で、ブルース・マイナー系であろうとも、長三度に等しい音が併存する事は珍しくもない訳です。ジェフ・ベックのアルバム『ブロウ・バイ・ブロウ』収録の「Air Blower」とてEマイナー・ブルースですが、実際はE7(#9)で殆どのケースで本位3度が省略されているからこそブルース・マイナーに感ずるだけである訳ですね。


 そうした事を踏まえて、先のベアネイキッド・レディースの「Alcohol」はBのブルース・メジャーなのでして、それは調号からお判りいただけるかと思いますが、サビ部分は平行短調側のG#mの素振りを経由させます。とはいえ曲全体としては次の様な進行が顕著であります。

CTMEoY_BNL.jpg


 つまりコード譜の譜例冒頭「C#」もやはりB音(英名)を主音とするリディア調のⅡ度という事になるのです。そして後続和音「E」ではブルース・メジャーのⅣ度となりその後Bと進む。結果的にⅣ→Ⅰという弱進行ですね。茲での和音表記は総じてメジャー・トライアド表記ですが、全ての長和音は短七の附与が許される状況であるという理解が重要です。つまり、リディア調と示しているのは「C#リディアン・ドミナント7th」と充てるのが更に正確な物となりますが、調性格およびモードの主軸を捉える上では、ブルー音度化していない世界観で語った方が伝わりやすいと思って敢えて「リディア調」とさせていただいたので、真のリディア調と混同せぬようお願いします。


 とまあ、ほぼパワー・コードの「Alcohol」なのに、そこにリディア調の音脈を感じさせる多様な音楽観というのは、ブルーノートの多義感(ロックにも波及している)事と弱進行の普及という風に見る事が出来る訳で、機能和声でのカデンツばかりを是とする事ばかりが音楽観なのではないのです。こうした側面をもっとアカデミックな体系で理解する事が出来るのが、アルテスパブリッシングが先頃上梓した『新しい和声』でもある訳ですから、多義性とやらを獲得する事も可能になるという事はあらためて述べておきたい所です。思弁で決まりきった機能和声の方面を理解した所で、こうした和声感覚は体得出来る訳はないのですから、その辺りをどの様に受け止めるかは各人の音楽の受け止め方に依る處が大きいのですが、杓子定規&紋切り型で音楽を聴いてしまわない様な感覚を体得するには、こうした側面を知っておく必要は往々にしてあるかと思います。ですから私はこっぴどく語っている訳ですけどね(笑)。


 扨て、こうした側面を楽理的な追究をする事もなく相容れている人の方が圧倒的に多い事でしょう。若しくは音楽理論などクソ食らえ! と思っている人も少なくはないと思いますし、何よりベアネイキッド・レディースの本人達とて、このコード進行で用いているそれがリディア調のⅡ度などとは微塵も感じる事なく音楽を謳歌している事は疑いの無い処ではあろうかと思います。

 とはいえ、アーティストや聴衆が音楽の小難しい側面を實感しているか否かは扨置き、そんな側面を知らずともこうした多様性のある音楽観の領域に踏み込める事こそが音楽的に本来必要な感性であると私は思うのです。然し乍ら不思議な事に、音楽理論を学ぶ事は己の感性をダメにしてしまうなどと盲信してしまっている輩こそ杓子定規で紋切り型の音楽的素養しか身に付いていない者が多いのが殆どであるのが悲哀なる現実でして、感性とやらを人一倍大切にしているクセして高次な領域に到達できないのは実に残念な現実であり、大事だと思い込んでいた事が徒労に終わってりゃ世話ねーわと思う事頻りなんですが、多義性に富んだ音楽観というのはやはり、耳からも楽理的な側面での音楽的素養を高める知識の土台の底上げがあってこそ知れる物でもあるという事を如実に示している側面だと思う譯です。


 「Alcohol」のCDタイム0:52〜0:53秒付近では、ブルース・メジャーの属和音であるF#△に対して三声に依る完全四度等音程の四度和音「e - a - d音」をぶつけて来ます。和声的には「F#7(#9、♭13)」な訳ですが、四度和音をぶつけて来るというセンスと、コード表記だけを見ればそれこそジャズ界隈でしか見ない様なオルタード・テンションを用いたドミナント7thコードを奇を衒う事なく咀嚼できている音楽的素養を垣間みる事が出来る訳で、その上でピアノ・ソロとてブルージィーなアプローチを実に巧みに採っていて(各和音上の6度の使い方が絶妙)、こうした感性をヒシヒシと感じさせる音に行き着く事もなく、卑近な音楽的用例に則られるだけの世界観に埋没していく輩を見て行くのはなんともまあ片肚痛い状態でもある訳ですが、分数コードの体得をする為に必要だったリディア調への理解と、パワー・コードから知れるリディア調の使用例など、そうした側面をキッチリ体得する事が、音楽をもっと深く理解する事ができる様になる訳でして、こうした洞察力が他の曲にも貢献する事になる訳です。本来なら私に呈示される事なく、己の力で読み解いてナンボなんですけどね。


 という訳で、ドミナント7thコードの多義的な側面とやらは背景に「旋法的」つまりモーダルな側面が孕んでいるからこその独得な世界観から生じている訳であり、和音としての基底音が暈される事で垂直的に暈滃となる側面と、水平的に稀釈化される事の意義をこの様に語った訳です。その意図が伝われば感慨深いのでありますが、一般的には「不自然」さを伴う世界観でもあるので、それを単に好き嫌いだけで反応してしまうと何れは音楽を狭い視野でしか捉える事しかできなくなりかねないので注意を払う必要があるのです。


 処で私はスティーリー・ダンのアルバムの中でも恐らく最も好きなアルバムと謂える『うそつきケイティ』というのは、そんな「不自然」な進行をする曲と共に、和声面では凝りまくった楽曲も多く、加えて唄心溢れたAOR感のある佳曲もあり、このアルバムに対してどんな評価を下すのか!? という事を観察するだけでも音楽観の違いを垣間みる事ができる基準にもなったりします。

 終止感や和音の振る舞い、そこには調性感も蔓延っている訳ですがその調性感とて「中心音」の取り方一つで堅牢である筈の調性感は揺らぐものでもあるのです。単声部となるメロディーで表せばヨナ抜き音階となるペンタトニックで構成されている主旋律とて、背景に和声付けされている伴奏を聴けば実際にはメロディーには4・7度の音が無いだけで和音にはしっかり使われているケースも多々ある訳で、主旋律ばかりを論って調性感を論ずる事は馬鹿げておりますし、その一方で和声感を映ずる事の重要性はあっても、和声「進行」の多義性もあるという事まで視野に入れて音楽に注力しなくてはならない側面など多々あるのでありまして、「不自然」な進行や響きを伴う世界観などありふれている事を是認する感覚を養ってこその音楽観なのだという事を肝に銘じなくてはならないと思う事頻り。

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