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基底に諂うのか、背くのか [楽理]

 我々が感ずる「調性」というのは主音と属音が大きな役割を握っている事は言うまでもありません。というよりも、オクターヴという絶対完全協和音が次なる低次の「完全協和」へと割譲する為に今度は完全五度が生じ、その「端切れ」の完全四度の地位は完全五度よりも低いものであるという理解とするのが正しいのであります。


リップス/マイヤーの法則というのは、19世紀末にリップスが旋律の情感に於いて「旋律を形成する音高の異なる2音の内、2の倍数の音と他方2(n):3、5、7の音と聴いた場合は、2の倍数である音に終止感が生ずる」という事にマイヤーが依拠し次の様に補足したのが次の法則。

 「旋律を形成する音高の異なる2音の内ひとつが2の倍数であり、他の音が3・5・7・9・15という音高で生ずる時、2の倍数を持つ音に対して終止感を以て聴こうとする」

 という事の法則な訳です。

 とはいえマイヤーのこの論述の場合、f音を中心音として見立てた場合(音組織はハ長調)、f音に対してc音はもとよりa音とd音が2の倍数を持った音となり、f音が2の倍数を持っている以上f音が主音となってしまいかねません。そうした反駁にマイヤーはファに対するドを3:4と考えずにソに対する7度として(つまり属七)考えた訳ですね。するとドとファは3:4ではなく16:21になる為ドの方が2(n)という倍数を持つ為主音として復権可能となる訳です。

 こうしたマイヤーの補足を受けたリップスはマイヤーのこの説の中にある主音である「トニカ」という言葉を享け止めた訳でもなかったのですね。リップスはそれを"Zielton"(=目的音)という風に位置付けていた訳でした。

 ともあれ、リップスとマイヤーの二人に依ってこうした「終止感」及び調性感に伴う理論は補強されて後に「リップス/マイヤーの法則」として敷衍する事となった訳です。


 今一度、ハ長調の音組織を用いつつド・ファ・ソを夫々中心音とした並びを見た時にドから見た時の他の音の音程はどういう比率で構成されているのか!? という事を見た場合、単純な「2の倍数」を終止感としての牽引力を持つのは疑いの無い所であります。
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 余談ですが、第6音であるa音を27次倍音由来の音として使うのは聊か音脈として遠いのではないか!? と思われる人も居られるかもしれませんが、これは旧くはアリストクセノスに端を発している事なので御承知おきを(笑)。



 これらの事を踏まえると、全音階にて生ずる所謂「ヨナ抜き音階」という第4・7音を省略したペンタトニックを用いて、それらの5音が夫々中心音として振舞う様に次の様に羅列してみると、中心音から上方に短三度を生ずる短旋法の断片とも言える旋法を作るのは「2の倍数を持たない」音という事でもあります。それは「イ」の五音の旋法と「ホ」の五音の旋法という事になり、短調が持つ独得の溷濁感はこうした、2で割り切れない音を持つからともあらためて言える事でしょう。
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 ヨナ抜き音階というのは全音階上に現れる半音音程を作る音を省略している訳です。半音音程が曲想に大きな特徴を作っているのかというとそうでもなく、中心音の振舞わせ方ひとつで長音階風にも短音階風にも聞こえさせる事が出来るものです。

 巷間能く言われる事の一つに、「この曲はヨナ抜き音階で作られている」という類の物がありますが、そうした物の殆どは主旋律が偶々音階上の第4・7音を使わずに構築されていて、和声的な背景には第4・7音に相当する音が補完されて伴奏部分を補強していたりする物が殆どです。長音階風なヨナ抜きで和音進行を作ろうとしてもサブドミナントの和音を使うとそこで第4音を和声的には補完する事になるので、純然たるヨナ抜きとなると短旋法にて処理する事が多様性を生み易いという事になります。


 所謂「セリエル」と呼ばれる12音技法というのは、簡単な2の倍数、もしくは2の倍数を持つ比率の音程の音を巧く避け乍ら鏤めて行かないと調性的な薫り付けがされてしまいかねないという事の裏返しであるとも言えるでしょう。調的な薫りをかき消して呉れるであろう減五度の音程比は「64:45」。他方増四度の音程比は「45:32」。これらの音程を早期に使用してしまうとセリエルの技法的には残された音程は調性の薫りを強く感じてしまう方が残ってしまう訳ですから、そういう意味でも12音技法としての「完全に」調性を消し去るという類の音脈というのは実際にはかなり少なくなってしまうのというのも事実です。

 ※セリエル(=12音技法)というのは厳密には、整数比が生ずる音律では無意味であり12EDO(十二「等分」平均律)にて初めて等価な効力を発揮する物です。先の三全音の整数比は12EDOに対する近傍値で引き合いに出しているだけの事で、その辺りは誤解なきようご理解の程を。

 猶太人迫害への反発という側面もあり、ワーグナーが齎した調性感を一掃すべく其處に一石を投じたかったシェーンベルクが経済的に窮乏に瀕し、社会への痛切なるメッセージを体系化させたというのも皮肉な側面であります。

 何故茲で三全音の話を出したのかと言うと、先のマイヤーの論究の反駁でも起こり得た、「ハ調域の音組織を用いた時の《ファ》と《ソ》の親和性」を今一度語る事としますが、この件を語り終えた時に三全音の話題がどのような意味を持つのかがお判りになる事でしょう。

 ハ調域の音組織を用いた旋律は、一見すればどれもが「2(n):某」持つ事と等しい訳で「トニカ」的牽引力を秘めているのではないか!? と懐疑的になられる方も居られるでしょう。然しその地位があるのは属音よりも長二度下方にあり且つ長音階(=ハ長調としての)の音組織があるからこそ、旋法「ファ」の地位は「ド」の地位と同様に見えるだけで、調性が準えている音組織というのは主音あっての属音ではなく、属音あっての主音でもある訳です。

 なぜならば、我々の聴覚器官の基底膜は入って来た音波の波動に従います。加えて、その入力された音波のスペクトル分布に依って神経発火される神経は、その音波と同様のスペクトル・パターンで発火します。この発火は幾多ものインパルスの集まりでもあります。後者の神経発火の方は1kHz付近を境にそれより高くなっていくと神経発火の同期はだんだん芳しくなくなり音高そのものの判断が怪しくなって来ます。つまり鳴ってはいてもピッチが曖昧な状況です。これが5kHzを超えるとピッチ判断が出来なくなるという所の依拠する研究です。

 他方、我々が音を知覚する際の神経発火のスペクトル・パターンというのは上方倍音列という整数次の振動比に準えている所もあり、この整数次の振動比が、失われた低音を補強する様に聴かせる(ミッシング・ファンダメンタル)という様な状況にもなる訳です。人間の声の基音というのは100〜200Hzの周波数帯を使っているにも拘らず、電話信号というのは300〜3600Hz帯に間引かれて伝達されていても、受信者の方は発信者の声をきちんと把握します(携帯電話の場合は別人の似た声を瞬時に取り出してそれを瞬時に並べて聴かせています)。


 属和音の役割というのは、属和音が上方倍音列という「因果」が作用し倍加する様な状況です。自然倍音列など主音由来であろうが下属音由来であろうが等しく作用しているのでありますが、属音と上方倍音列が同軸で作用する時、属和音という支配的な地位が表れる訳です。この自然の摂理とも言える「支配的な」力がある限り、属音の長二度下にリディアンが生じている状態がアイオニアンと同様の様な、主音がドであるかの様にリディアンの持つ「ファ」が「ド」と同様の地位を贏ち得るという事は決してないのです。なぜなら、リディアンもアイオニアンも在るべき場所にドミナントがある事に依って成立しているからであり、旋律から見た調性判断の重力判断であってもリディアンがアイオニアンと同等の地位を獲得するという事は無いのです。


 これと同様の誤謬にジャズ界隈では、ジョージ・ラッセルが提唱したリディアン・クロマティック・コンセプトという物があります。日本語版では武満徹の対談も載せられている為、近視眼的にリディアン・クロマティック・コンセプトを礼賛してしまう人が後を絶たないのでありますが、武満徹は氏なりの配慮でもって手厚くジョージ・ラッセルと接しており、西洋音楽に固執しない「盲人蛇に怖じず」という所から大膽に他の音脈を引っ張って来る強引なそれに感心しているという所は明白であり、武満徹がリディアン・クロマティック・コンセプトに屈服してその手法を採り入れたというのは早計な理解なのであります。リディアン・クロマティック・コンセプトを通じて最終的に得られる音は、その道を使わずとも通る道なのでありまして、ジョージ・ラッセルを無礙に扱いさえしなければ最終的に出て来る音はリディアン・クロマティック・コンセプトの薫陶を享けた音と同等にはなるかもしれませんが、決してリディアン・クロマティック・コンセプトを通じて出た音ではないのです。


 リディアン・クロマティック・コンセプトの始まりは抑も、Cから3度堆積を続けていった時、ハ長調の全音階としての総合よりもf音が半音上がる音組織によって「ハ・ホ・ト・ロ・ニ・嬰ヘ・イ」と積んだ方がC音を根音とする和音として綺麗に響く音組織はト長調の音組織を生ずるという所に端を発しております。その見かけ上の音組織はト長調の音組織と同等の物で、その音組織のコモントーン(=共通音)=ハ音(c音)を根拠としている以上は、ハ長調の重心はト長調にあるという驚異的な詭弁を弄したのがリディアン・クロマティック・コンセプトなのです。

 こう考えてみましょう。「根音・長三度・完全五度・長七度・長九度・増十一度・長十三度」という風に構成された和音が綺麗に響く音組織=ハ長調の音組織とする場合、それはヘ音を根音とする時のヘ長調から見た時の音であるにも拘らず、ヘ長調の音組織ではなくハ長調の音組織を使った和音であるという事になりますね。すると、ハ長調の重心はト長調にあり、ヘ長調の重心はハ長調にあると言っているのと同じなんですね(笑)。はてさて「真のハ長調は如何に!?」
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 この様に、これから語る事は別段背理法を用いて語る訳ではなく単純な論理の世界で判断するだけでも、リディアン・クロマティック・コンセプトというのが甚だしい誤謬から生じているのがお判りになるでしょう。

 ではなぜ、「Root・M3rd・P5th・M7th・M9th・aug11th・M13th」という和音が綺麗に響くのかという真否を確認してみる事にしましょう。これは結果的にその和音の調所属の音組織をそのまま準えて使うならば下属音を根音とする全音階の総合(=総和音)という7声の和音であります。扨て、これがどうして綺麗に響くのか!?

 それではハ長調/イ短調の調域で考えてみましょう。ハ長調/イ短調はそれぞれ平行調の平行長調/平行短調という関係です。長・短の平行調夫々の下属音はf音とd音。これらを根音として全音階の総和音を形成する時、それらは夫々和音構成音内に生ずる三全音が最も乖離する。

 これが調的勾配を稀釈させている遠因です。三全音を形成しようとも和声的根拠はf音にあり、且つ全音階の総合は三全音「ファ・シ」の夫々の上行導音・下行導音も行き場の無い閉塞状況である。和声的に独立峰的形成として旋法的振る舞いにも成り得る。そして和声的響きが進行感を生まずして響く。だから綺麗に響く。基底和音も疎外していない。根音は半音下に行きたがっているでしょうか!? それとも第11音は半音上に行きたがっているでしょうか!? という事なのです。

 カデンツで齎される調性感というのは、《先行和音の根音を後続和音の上音に取り込む》で起承転結の様なダイナミックな変化が起る物です。然し乍ら総和音という状況で下属音を根音とした時の総和音が属音を根音とした時の総和音へ進行するという事を考えた場合、f音というのは後続和音の上音に取り込まれるべきですが、トリトヌスとしてある以上は下属音を根音としつつもこれ自体がドミナント的機能を持ってしまうのでf音はe音に行きたがっているのを堪えて進もうとしていて、これが「閉塞」状況であるとも言える訳です。
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 この和音がこのままの状態で居られるならば、態々後続へ進行しなくても済む事になります。だって響きは皮肉抜きに綺麗なのですから。ではなぜ総和音としてのそれを使わないのでしょう? それはアヴォイドだからと他の見聞で見聞きしたからですか!?

 アヴォイドという観念は、基底和音の響きを疏外する所から端を発している物です。総和音が進行的には閉塞している状況であるならば、進行が無いという状況になる。その進行が発生しない状況を「発生する筈」であったろうというケースとして「因数分解」するとなると、ハ長調という調域で「Dm7→G7→C」と進行せずに「Dm7→Dm7 (on G)→C」としているのと同じなのですよ。これらの「S→D→T」という動きを垂直レベルに基底和音の第5音音をコモントーン(=共通音)と持ち合う様にして「G7/C△/F△」という和音を生じているのが下属音由来の総和音なのですから。完全協和音程にはそれをコモントーンに新たに長和音が積み上がって行くという協和性。この協和性を頼りにしているという事は調性感よりも和音の色彩感を重視して音を積み上げているのですから、ハ音(=c音)を根音にして和音の色彩感を重視した協和性を重視するならばハ長調の音組織よりもト長調の音組織が綺麗に響くというのも無理もない事です。和声的色彩から見れば当然の事ですから。

 それは本来複調由来となる関連性の示唆なのですが、複調として見立ててしまうとリディアンを主軸に据えるという単体の音組織として見る歪曲の世界観を構築する事ができなくなってしまう為、「リディアン・トニック」としての世界観を主張する為には他調由来の音組織を呼び込む魔法めいた言葉で読者を魅了する必要がある為、そのような断章取義的な音楽観にて突き進んで行って了う訳です。


 和音が進行せずに静的に陥る状況というのは旋法性を伴った社会と言えます。機能和声社会では和音の各機能(トニック、ドミナント、サブドミナント)を巡って全音階の音総てに水が染み渡るかの様な物と言えますが、旋法的社会では和音進行は静的で、平行性、弱進行を伴い、和音の体はその後五度和音、四度和音(二度和音然り)という風に発展します。余談ですが四度和音に依る全音階の総和音を次の様に連結させているレビコフの様な例も存在するのも知っていて欲しい所であります。

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 機能和声を動的に扱わない静的な社会での和音というのは、仮にその和音体系が既知の3度堆積型であったとしても基底部分を省略する事で機能が稀釈化され、上声部に聳える様に積まれていく音で上下の和音の本来の機能を暈滃し合い中性的な色彩を帯びる様な振る舞いになります。

 例えば「G7 (9、11)」というコードがあったとしましょう(譜例では「G11」)。シーンを変えれば「F△/G△」とも表記されるでしょうし、何れにしても重要なのはG7というドミナント7thコードを包含しつつ、長九度と本位11度を備えているという所が最大の特徴である和音です。
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 和音の基底を暈滃するという事は、基底部に備わる完全協和音(5度)或いは不完全協和音(3度)の音を省略する事で機能が「暈される」「中和」されるのであります。

 つまり「G7 (9、11)」で完全協和音をオミットすれば基底側に備わる完全協和音を失う事でそこに纒わり付いて居た音は上声部の和音に隷属的に振舞う様になります。結果的には基底音が低音としての地位を振る舞いつつh音が上声部の和音の一部の音として附与される様になり、他方基底和音の不完全協和音を省略するとこれは基底和音を空虚な響きとして成立しているものですが、結果的に「Dm7 (on G)」と同様となる訳です。
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 和音が綺麗だからそれに靡いていたら和音進行感を演出する事なく静的に移ろわせてもどうにかなるという世界観。これがモード(旋法的)な社会です。和音機能を逐次強調する様な世界観ではありません。


 リディアン・クロマティック・コンセプトというのは、アイオニアンだと思っていた所にリディアンという近似性のある音組織を「嘯く」事から始まっているのです。そのリディアンをⅣ度とは捉えず「Ⅰ」と常に捉えつつ、「リディアン・トニック」という特殊な見立てから生じて、リディアンと近似的な音並びとなる幾多の音階やジョージ・ラッセルの人造的な音階を呼びよせる事で、リディアン類はどの様に取り出して変換して使う事ができるという風に体系化した理論であるだけの事なのです。

 「嘯く」という事と、テトラコルドを近似的なテトラコルドに変換する、或いはパーシケッティの投影法やらを知っていればリディアン・クロマティック・コンセプトを用いずとも同様の音脈は使いこなせる物なのです。

 「太陽を直視すると眩しいから右に30度目を逸らして太陽を見てみよう。まぶしくないでしょう!? その逸らした所を《北》として見ましょう」

 もしもこういう風に喧伝する人が居たらツッコミどころが満載であるのは言うまでもありませんが、『太陽を直視すると眩しいからそれを回避する事が目的の様だし悪意はなさそうだから聞いておくか』

 こういう状況に等しいのがリディアン・クロマティック・コンセプトだと思ってもらえればどれほどの物かという事があらためて窺い知れるという物でしょう。

 半音階的なフレージングの導出に手をこまねいてしまう様な輩がこうした単純な体系化を手にした時は確かに魔法の様に思える事でしょう。日本語版なら1万円という値段を超えて売られている本(他の音楽書と比較しても決して安くはない)であり、それを手にした後に端的な体系化というのは人に依っては有難い教本であるかもしれませんし価値付けをしたくなる物でしょう。

 でも、誤謬(=あやまち)から生じた理論は綻びがある物ですが、便利な方ばかりを知った人間はその後更に惰性で人生を謳歌する物です。リディアン・クロマティック・コンセプトに有り難がる輩はその原点の矛盾を知ろうとはしない人も少なくない事でしょう。

 ジョージ・ラッセルはなぜアイオニアンをリディアンと嘯く事を決定付けたのか!? 勿論それは主和音としての地位を振う主音から3度堆積させていった和音が美しく響く方を選択していったからです。和音の美しく響く方が常に主和音であるのか!? という誤謬に気付かなくてはならないでしょう。


 トリトヌス。つまり三全音。これは別名「悪魔の音程」とも言われています。確かに扱いづらかった事でありましょう。しかし三全音というのはこれ「単体」では悪魔かもしれませんが、この音程が複数ある時には神にも等しい存在になり得る物で大変重宝している物なのです。恐らく最も旧い使用例は「減七」の分散としての形でしょうね。其の他には幾多のドミナント7thコード上で生ずるオルタード・テンションを見れば、複数の三全音を見付ける事など、特にジャズ・シーンに所縁のある人なら即座に私の言う事は理解できる事でしょう。

 このトリトヌス。長音階上ではシが上行しファが下行するという側面を持っている訳ですが、直近の全音階がそれぞれ「ドとミ」ですから半音で近接し合っている状態なのです。この半音で近接している事が属和音(ドミナント)の持つ弛緩の「引き締め」から主和音(トニック)という弛緩の「緩和」というメリハリが起きていて解決感を得て調性の機能和声の社会観があらためて強調される訳です。

 概して全音階の総合である「総和音」という状況は全音階で犇めき合っている状況なので、Ⅳ度を根音にした総和音がドミナントという機能として見做し得る音を根音に持つ総和音に進行する状況を考えれば、和声学的にはトリトヌスを包含しているのだからそれはドミナントであり、属音を根音とする総和音の第4転回形という特殊な見立てになるのです。無論、機能和声的には複音程(=8度以上のオクターヴ・レンジ)を見渡した転回形は生じさせない(長属九の第4転回形、つまりG9のa音が根音にある転回形は通常習わない)のが通例なのですが、複音程側を転回として見渡さないという理由は次の様な事に立脚している事をお忘れなく。

 それは、和音体系として3度堆積を用いた手法で構築された世界観は決して根音に3度音程が附与されているのではなく、完全協和音(5度)が先にありそれに不完全協和音(3度)が附与され、その後に過渡的協和音(2度や微小音程)が附与されて行く世界観に立脚しており、3度堆積を積み上げて9度以上の音程を構築する際にその9度音というのは上方倍音列に依拠する積み上げならば8:9(これは長二度)という風に見做す事ができない訳です。9度は「4:9であるべき」という見立てに立脚する物なので、複音程側にある音として「第4転回形」を多くの機能和声社会の側が認めないのはそうした理由からであります。

 つまり、下属音を根音にして3度堆積によって作られた全音階の総合という総和音の体は、実質的には属音を根音とした第4転回形を「下属音」由来として聴いているだけの事で、属音というトリトヌスが開離されて響きが散逸される事で下属音由来の和音として聴いている事に変わりない訳です。


 私はこう問いたい。「ハ長調の主音はヘ音なのか!?」と(嗤)。飛んだお笑い種です。仮に下属音を根音にした全音階の総和音を「複調」として見るならばまだ話は判るのです。但しそれはFトライアドは原調としてではなく、他調の共通和音として立場がすり替わった上で複調和音を生じていると考えるべきです。上声部に原調があり、基底部が他調の共通和音という風にスルリと変わった状況と考える方が自然でありましょう。処がリディアン・クロマティック・コンセプトは複調的な視点でも見る事はしません。


 基底の長和音の響きを疏外せずにリディアンに近しい音列を呼び込む事が出来るのであれば、それは結果的に高次の上方倍音列を12平均律に均して呼び込んで来た因果関係に過ぎない訳です。なにしろ下属音を基底としている以上属和音の機能性も暈滃しております。トリトヌスの音程も開離して閉塞状況。こういう状況ならば後続和音への進行感は薄れ、独立峰的にこの和音「1発」という状態でも旋法的和声状態で成立する訳ですから、高次の倍音列由来の音を呼び込む事は自由自在です。


 ハ長調を原調とする事でなぜリディア調がそぐうのか!? これは旋法的ではなく和声的な意味両面で考える必要がありますが結局は同じ事です。但し、舊來からの西洋音楽の「変格旋法」と、ジャズ界隈での「嘯く」という手法は少々違います。体系はどちらも「旋法(モード)」を使うのですけれどもね。その嘯き方にどういう違いがあるのかは何れ説明する事にしましょう。

 それと、近視眼的にリディアン・クロマティック・コンセプトを理解している人というのは概して皮相的に下方倍音列という物も理解しております。今回下方倍音列というのは全く無関係であるので、よもや「下方倍音列はオカルト」だのと恐らく皮相的に理解されている人も御安心下さい。今回私が下方倍音列に依拠した事を述べるつもりは毛頭ありません。下方倍音列を卑下する前にオイラーに就いて詳しく知っておいていただきたいとは思いますが(笑)。


 先程語っていた様に、聴覚器官の基底膜はなぜ音波に呼応するのでしょうか!? 勿論共鳴現象に外ありませんが音波というのは物理的な空気振動であるが故に、「私とアナタ」と居る所で空気が大幅に異なる物ではないですし、あるコンサートを一緒に見聞きした時でも「私とアナタ」の場所で耳に届くピッチが全く別物になっていたという状況は考えられない物です。アナタが聴いていたベースの音を私の耳には1kHzで届いていた、なんて事は有り得ない訳です(嗤)。

 ベースの音はドップラー効果になってしまったとしても1kHz相当になる事は無いでしょう(笑)。そうした周波数帯域(音域)の音波というのは「物理的」な波長という距離を実は持っています。数メートルにも及ぶ物理的な波長をたかだかミリ単位の基底膜が呼応している事を思えば、音波を捉える際に、我々は物理的な波長に等しい(または相応しい)だけの大きさを持つ聴覚器官を持つ必要は無くとも拾える訳です。


 平行短調の属音(ニ音)を根音とする時の総和音は自然短音階系統。
 導音欲求が属和音外で表れる時の音組織が和声的短音階である時、マイナー・シャープ11thはマイナー11thではなくなる(アーサー・イーグルフィールド・ハル)。またこの和音はディミニッシュ系統の減五度ではない。完全五度と増四度が同居する。

 和声が綺麗に響く為にイオニア系統ではないリディア系統の旋法が生ずる音組織に変えたという事は次の論理が成立するだろうか?

 和声的短音階の音組織で下属音を根音にした「Dm7 (9,♯11,13)」を生ずるも、旋律が和声的短音階では増二度を発生する為旋律的短音階の音組織にて和音を「D7(9、#11、13)」に変えてみた。

 という論理が成立するだろうか!? リディアン・クロマティック・コンセプトでは和声的に綺麗に響かせる為とはいえども、こちらの場合はその対偶として成立させる為の論理である。この演繹は成立するだろうか? 基底和音は短和音から長和音に変わっているのにこれを後者にするというのは最早別次元の話であり同列に語る事は出来ないのです。つまり、イオニアがその近似性の為にリディアに近しい親和性を持つ事で和声的に綺麗に響くのは、調性の主軸を原調に残した侭性質を変容する物ではなく、F△7(9、#11、13)のそれが「完全協和音程」を持ち合う様にしてG7/C△/F△を生じただけの事である。極言すれば完全五度音を持ち合い乍ら長和音を共有し合っているので綺麗に響くだけなのだ。それは単に五度圏を五度上方に見て行くだけの事にすぎない。下属音から五度圏を数えれば調域内を跳越せずに五度音程を持ち合う物の、主音を主軸とすれば五度圏の6つ目の重畳は次の五度圏を生むのは当然である。全音階が5度の重畳であるのは絶対完全音程である完全八度が完全音程で完全五度/完全四度となった所から端を発するのである。下属音の五度上に主音があり主音の上に上屬音がある。五度が綺麗に収まるのは下属音から数えて当然なのである。即ちハ長調とは、ト長調から生じた物ではないのであり、単に完全五度の累乗が和声的な色彩を乱さずに調和するから他調の調域を呼び込んでいるだけである。
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 F - C - G - D - A - E - H という五度の累乗はこの場合Fから始めておりますが、Fから書き始めたからと言ってこの音組織がF音を主音とする物に属するとでも言えるでしょうか!? この音組織はC音を主音とする音組織を五度の累乗で並び替えただけの事です。C音から書き始めるとH音の次にF♯音が出て来るからと言ってそれはC音の重力はト長調にあるという詭弁はどうして成立するのでしょうか?(嗤笑)

 これらがリディアン・クロマティック・コンセプトへの正しい反駁なのです。

 ジャズ的語法に疎い人が突如リディアン・クロマティック・コンセプトを読めば、そのクロマティシズムの体系化には目から鱗が落ちるかの様な錯覚に陥る事でしょう。然し乍らそれは別系統から習得すべきクロマティシズムの体系を知らないから有り難がるだけの事で、リディアン・クロマティック・コンセプトには其処彼処に矛盾と誤謬だらけの理論から猪突猛進と為して読者の目に飛び込む理論に過ぎないのです。


 抑も、「調性を嘯く」という事はジャズやブルースを奏する者なら誰もが理解している事でしょうが、元来は7・5・3度がブルー音度化という風に下方の微小音程的にオルタレーションする所から端を発しております。それが当初は微分音的な微小音程ではあった物の12平均律に均されていった訳で、結果的に本位音度が半音低く変位するという事がブルーノートとなった7・5・3度なのです。

 これら3音のブルーノートはそれらが変位する前の本位音度は7度を除くと5度=完全協和、3度=不完全協和、7度=過渡的協和音2度の転回である訳ですが、7度音のそれは過渡的協和音という別称=不協和音な為、音程の情緒に曖昧な所があるのです。つまり、7度音の音の変化に曖昧になる事は3度や5度がオルタレーションするその度合にも曖昧になる様な物だという訳です。但し3度や5度のオルタレーションなど微分音的微小音程変化でも敏感に察知するでしょう。然し乍ら7度の場合はそれが自然七度という、短七度よりも32セント程も低い音程ですら甘美に響く様に観ずる物です。ジェフ・ベックの「蒼き風」での6弦のナチュラル・ハーモニクスを用いたギター・ソロで自然七度を多用するフレージングがありますが、あの音をよもや32セントも外した7度音という風に聴こえる人は居ないと思います。過渡的協和音とはこういう物なのです。不協和だからこそ曖昧、協和的な物は敏感という風に響く訳です。

 先述の三全音の音程比にて「45:32」(増四度)と述べた物がありますが、茲に「自然七度」の音程を音階の第4音として視野に入れた音程を作ると、その際下方に7:5という音程、上方に10:7という平易な音程比に変容する物なのです。三全音とて小難しい音程にはならないんですね。自然七度は属和音の自然七度として使えば、こうして平易な音組織も生まれ音響的にも甘美な物になるという訳です。こういう音響を目指したのがスクリャービンだった訳ですね。
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 扨て茲で、今一度当初述べていたリップス/マイヤーの法則での「ファがトニカである可能性」という事を鑑みれば、fa旋法とut旋法の近似性から生じた物だという事があらためて判るでしょうし、この近似性に誤謬を犯したジョージ・ラッセルがリディアン・クロマティック・コンセプトを生んでしまったというのもあらためてお判りいただけるでしょう。ファというのは旋法的にもトニカかと見紛う近似性を備え、和声的にも調性の主軸が他調にあるかの様に振る舞えるのは完全協和音程が齎している物だからです。

 西洋音楽でも舊來から「変格旋法」という風にして旋法を嘯く事はありました。然しこれらが所謂その後のジャズ/ポピュラー界隈のモードのそれと異なる点は、西洋音楽での旋法性(教会旋法)というのはそれが嘯いていようともV→Ⅰという解決感を伴うために「導音欲求」という可動的半音変化(オルタレーション)を強いられるのです。但し、総ての変格旋法がⅤ度上の和音をオルタレーションしなくてはならないという訳ではありません。つまり西洋音楽ではⅤ度を必要とするため、ロクリアンというのはそのⅤ度は完全五度ではありませんから教会旋法の中に「ロクリア」としては括られておりません。

 西洋音楽ではロクリアは、実は姿を変えて存在しております。それはフリギアが嘯く時の「ヒポフリギア」がロクリアで使われる時です。仮にモード社会においてロクリアン・モードを使うとすればトニックを減和音で使う事は避けて不等四度に依る和音でモーダルに演出すべきでありましょう。

 西洋音楽での教会旋法での「変化音」というのは先述した様に、Ⅴ度上で導音欲求を起す為に必要とされる物ですが、凡てではありません。フリギアには上行導音が許されておりません。それは「嬰ニ」音の導出を許されなかったが故の事です。ですからフリギアは下行形での下行導音しか許されなかったのであります。教会旋法に於ける導音欲求由来の変化音は菊本哲也著『新しい音楽通論』(全音楽譜出版社出版社刊)がお役に立つかと思いますが「導音欲求」という名称は与えられていないので注意が必要です。

 巷間能く云われる誤謬の一つに《君が代はドリア調である》というのがありますが、実は違います。坂本龍一は君が代を「ミクソリディア調である」という風に『坂本龍一・全仕事』内で述べております。著書内では詳述されておりませんが「千代に 八千代に」の「やーちーよーに」の所で内声が「f - fis - g」と動きますよね。これがミクソリディアの導音欲求として作用している事を見抜いての事であるかと推察に容易い物ですが、一応西洋音楽方面の導音欲求がどういうものかがお判りになるかと思います。


 他方、ジャズ/ポピュラー界隈での「モード」は、コード・サウンド的にドミナント7thコードをなるべく回避した方が使い易い訳ですね。ですからモーダルな演出をする際でも「Ⅱ→Ⅴ→Ⅰ」があざとく仰々しく映える為に「Ⅱm7→Ⅱm7 (on Ⅴ)→Ⅰ」などという風に暈滃されたりする訳です。そういう意味でジャズ/ポピュラー体系は、そのモードでの音組織のⅤ度を態々ドミナント7thコードに変化させてまで適用したりしないのです。下方五度進行を避け、平行和音や三度/六度進行を多用したりする。これでモーダルな雰囲気作りに一役買う訳です。


 処がですね、ジャズメンの中には素晴しい音楽的嗅覚を持つ方が居られ、先述したブルー音度の活用に於いて洗練された活用をするのです。勿論この活用はそうしたジャズの半世紀前程に西洋音楽では見られていたのですが(笑)。

 例えば、凡庸な感性の持ち主はブルージィーな音を活用するに当って付与する和音というのはブルー七度(つまり短七度)を備える和音にて、3度と5度を変化させるか、それが短和音由来であるならば本位3度へ戻す事は少なく5度のブルー音度だけでブルージィー・サウンドを得たりする物ですが、音組織に於いて第3音のみブルー音度化させる体系を選ぶ人が出て来る訳です。つまり「ドレミファソラシ」の第3音が半音下がるだけの音組織、ミ♭が生ずるというだけの音組織を利用する人が出現する訳です。

 これはCメロディック・マイナーですね。Cメロディック・マイナーをモードとする時のダイアトニック・コードは主和音は勿論短和音由来の和音となりますが、下属音=Ⅳ度、属音=Ⅴ度は長和音由来、しかも何れも七度を備えるとドミナント7thコードなんですね。長音階から単に第3音が半音低くオルタレーションした世界は、奇しくも原旋法である長音階の平行短調(Aナチュラル・マイナー)であるこれがAメロディック・マイナーという音組織へと移調させた物と同等と見做せる事になります。何れにしてもメロディック・マイナー・モード上に現れる別の旋法性から趣きが浸潤してそれらの音列(音脈)を駆使する事に目覚めるかの様でもあります。

 メロディック・マイナー・モードでは下属音に備わるドミナント7thコードが生ずる訳です。これは言い換えれば導音欲求を起さない「閉塞的な」ドミナント7thコードとして成立せざるを得なくなるのです。何故ならメロディック・マイナーのⅣ度上に生ずるドミナント7thコードの3rd音は上行導音としては半音の勾配は生まれません。7th音は下行導音として動く事は可能ですが。


 こうした閉塞したドミナント7thコード、先述しましたよね!? 旋律が増二度であってはならないから「Dm7 (9,♯11,13)」と生ずる和音をも「D7(9、#11、13)」に変えてみた。

 これは、リディアン・クロマティック・コンセプトの対偶として挙げた例が「恰も」実証しておりますが、この例は全くの別世界&別次元の実例として見るべきなのはお判りですよね(笑)。

 つまり「D7(9、#11、13)」という総和音を生じたのは、音組織「ド レ ミ♭ ファ ソ ラ シ」を得る事で結果的に「ラ シ ド レ ミ ファ♯ ソ♯」(※茲でのド=c、ラ=aでありD音由来の和音は短調=a調上でのⅣ度を意味する)を得たかったからが故の世界観で生じた物で、これが先の「ハ長調の重心はト長調の音組織にある」という詭弁を補強する為の総和音由来の事でも何でも無い訳です。ましてや「ニ音」を根音とする総和音を例示せざるを得なかったのは、平行調の長・短夫々の下属音を根音とする総和音がなぜ和声的な釣合を持つのかという事は茲であらためて「Dm7(9、11、13)」も完全協和音程を持ち合う様にして「Em7/Am/Dm」を持ち合う様に成立するからに外ならない訳です。

 和声的にDmとD△は全く別物でありますよね!? 音組織にて増二度が許されないから和声的短音階を旋律的短音階に変更せざるを得なかったから和音はメジャーに変わって頂戴、という強要があったとしたらどんなに無理強いを強いられているかお判りでしょう(笑)。旋律が綺麗になるから和音を変えていいのなら、和音が綺麗なら音組織を変えてイイんですかね?! ねえ、リディアン・クロマティック・コンセプトの信奉者さん。

 
 メロディック・マイナー・モードでは確かにⅣ度上とⅤ度上にドミナント7thコードが発生しますが、機能的なドミナントはⅤ度なだけであって、下属音上のそれがドミナント機能とは一言も申しておりませんよ。然し乍ら、和音だけ聴かされればそれが能く有るⅤ度上のドミナント7thコードとして聴かされてしまうのは野暮ったいから、アジムスの「A Presa」ではFm9 -> A♭△7aug (on B♭)という風に「Im9→♭Ⅲ△7aug (on Ⅳ)」として暈滃させて聴かせている訳ですよ。勿論「Im9」ではFドリアン体系で後続がFメロディック・マイナー系統へと瞬時にモード・チェンジしている訳ですけれどもね。



 「嘯く」という事をきちんと覚えるならば、ドリアンを嘯く事を学べば良いのです。殆どの人はナチュラル・マイナーをドリアンに嘯く事しか知らないモンだから、ドリアンの第7音を半音上げたオルタレーションでメロディック・マイナーにするという嘯きを知らない皮相的な人間は少なくないですよ。やれ、メロディック・マイナーは全音音程が多過ぎるからってぇんで扱いづらい。旋法的情緒を使いこなすのに一苦労する。でも、その全音の多さにホールトーン・スケールとの近似性として嘯く事の出来る人間となるともっと少なくなって了う。全音音階のどこか一つの全音を更に半音にして砕けば「主導全音音階(Leading Whole-Tone Scale)」が生まれるじゃあないですか。

 態々某かの音階を当て嵌めるまでもなく、近似性のテトラコルドを呼び込むだけでイイんです。そうすると特異なリディアン・クロマティック・コンセプトだけが有難く用いている様な人造的な音階を態々覚える事無く、幾多のテトラコルドを覚えて組合わせて投影法を用いたりするだけの事で充分広い音脈を活用できる訳なのです。

 どこかの著名な人が、判り辛い文章でこうした側面を下方倍音列と一緒に語って了った物だから、何もかもがオカルト扱いされてしまい、近視眼的理解者はリディアン・クロマティック・コンセプトの側を是とする愚かな人間を生んで了った責任は無くもないと云えるでしょう。しかし下方倍音列は全くこれらの論述には不必要な観点であるにも拘らず、判り辛くしてしまった一部の論述がそうした誤謬を招いてしまっている側面を正さないといけないと私個人は思っております。

 例えば基音が1Hzという振動数があった場合、これは耳には聞こえません。しかしそれに自然倍音列として上方に備わる状況があるとしたら、振動数比として「1・2・3・4・5・6・7・8・9・10・11・12・13・14・15・16・17 ……」という風に存在しても決しておかしくはありません。

 ではそれらの自然倍音列が等しく60倍のスケーリングになったとしたら?
 先の倍音列の数字が夫々60倍になるだけの事で、一瞥するには簡単な数ではないかもしれませんが
「60・120・180・240・300・360・420・480・540・600・660・720・780・840・900・960・1020……」となっている訳です。

 下方倍音列というのは、低次の倍音列に簡単な比率で短音程(短三度)が隣接して表われない事を危惧して生まれた「見渡し」なのでありますね。それがフーゴー・リーマンやエッティンゲンの名が偶々挙がる事で、その「見渡し」を「実際の振動」という風に言ってしまった所を論って信憑性に足りぬと評価しているにすぎません。

 ヴァンサン・ダンディー著 池内友次郎訳『作曲法講義第1巻』(教育出版刊)p105〜109にある上部共鳴:長調和音、下部共鳴:短調和音で説明する事を見ればお判りになりますが、つまり上方倍音列を知る場合、弦長の半分、1/3、1/4、1/5……というハーモニクス・ポイントに触れる事に依って得られ、下部共鳴というのはこれこそが下方倍音列なのでありますが、上方倍音列に生ずる低次の4・5・6との最小公倍数=60を用いつつ、弦長を10倍にしてその1/60の弦長で基本の音を採るという風にして短調由来の因果関係を得る物と説明している訳です。

image.jpeg Wolfram|Alphaで「LCM [4,5,6]」と入力すればすぐに最小公倍数は求まりますが本質は其處ではない。60という倍数を用いてスケーリングを変えても倍音列は等しい訳ですから、そこで下方倍音列に等しい側面を垣間みる事が出来る訳です。人間の耳にとって60倍したかどうかは無関係なのであります。その尺度は倍音列と一致する以上、下部共鳴とはこうして知覚すべき物なのです。

 処が近視眼的に下方倍音列を扱う図書というのは、単純に上方倍音列に対して1/2、1/3、1/4、1/5……と愚直にやってしまうものだから、この尺度が思弁的な側面を脱出する事が出来ず、凡てが思弁的でそれこそ実測を伴わない現象として扱われてしまうので、ここから近視眼的に「オカルト」扱いされてしまうのが下方倍音列への理解なのです。更に、ディエニ著『生きている和声』のp30-50を熟読すれば尚補強される事でしょう。

 実は、この60倍という尺度を与えたのは外でもなく物理学の権威オイラーなのです。音波に出現するこうした斥力も、まるで惑星や衛星が公転に作用するラグランジュ点として存在するかの様に唱えている訳です。音が実際に下方に出現する訳ではなくとも相互作用する耳に聞こえぬ因果関係が生ずる所に下部共鳴の因果関係が生ずるという風に理解が及べば良いのでなかろうかと思う事頻りです。

 何故なら短音程の出現に対してあまりに基音由来の短音程を求めて来たのでありますが、短音程はそれを嘲笑う様に別の因果関係で生じている訳です。音程比3:5で生ずるのも然り。そうした関連性の中に我々の聴覚があるのだと知っておかねばならない所です。こうした所を踏まえて、己が知らない所は埒外の故、知る必要もないとばかりに遠ざけてしまっては、音楽の深遠と真理に辿り着かないのは自明でありましょう。

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