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コード・サフィックス等の表記に伴う私感 [楽理]

 扨て、前回は所謂分数コードやオン・コード(onコード)という物がどのようにして生じたのか!? という側面を論じたのでありますが、コードという、和音を簡便的に表わす流儀に対してあまりに頭でっかちになってしまってもいけないという事を語っておかなくてはなりません。とはいえ今回は、「言葉」から音楽を最大限に読み取ってもらいたいという私の思いから、図版は敢えて用意しなかったのでご容赦願います。


 抑もコード表記に於ては、附与される数字や記号などのサフィックス類という物に幾つかの体系があり、それらを我々が明確な方法論として知識を獲得する時には、それらの体系に存在する不文律ともなるようなローカル・ルールも一即多にして理解する必要がある物の、この体系ばかりに頭でっかちになってもいけないという事を論じておきたい訳です。

 音楽など興味すら抱かなかった門外漢が、ひとたび特定のアーティストへの好意から音楽愛に目覚めて音楽に没頭する人など少なくありません。

 そうした人がいざ音楽の楽理的側面を知る時、コード表記の流儀という物が各人の音楽的素養など無関係に誰をも納得させるかの様な、それこそ「言語」が理解を保証する様な物では全く無く、寧ろ、音楽に存在する流儀を正しい知識としての名称はもとより誤謬を含めた一部の界隈で使われる正当ではない名称・呼称すらも覚える必要があるという前提で理解しておかないと心の中でなかなか整理できないジレンマを抱えてしまう事となるでしょう。

 特にポピュラー音楽界隈というのは誤謬が蔓延しやすい環境にある物で、反知性主義を是とする潮流がある物です。それが禍いして既存の呼称を略して縮めたり、蔑称が高じて言葉そのものが変容したり、或いは正当な知識を持たぬ人がある程度の音楽社会でのポジションを確立してしまい、其処で充てられる言葉を作られたり等色々なケースがある物です。

 こうした所を容認しつつも、真の意味で「正答」に到達するには、西洋音楽(=クラシック音楽)体系を拝戴する時になる事と思います。

 但し、こうして音楽全体を俯瞰する時に多くの人は「なにゆえ西洋音楽を知らねばならないのか!?」という事に一定以上の理解を示す事ができる様になるまでは相当の時間と道程が必要になる事でありましょう。

 こうした過程が単なる「遠回り」にならない為にも、本来ならば楽理的側面はポピュラー界隈の知識と並行して西洋音楽体系を学んでいた方が後々役に立つという事も実感出来る事でありましょう。


 扨て、巷間能く見られる五線やコード表記の内のひとつに、主旋律である単旋律が五線で表わされ且つコード表記附与されて記されているという例があります。

 こうした譜例の中にはコードがジャズの様に重畳しい響きが適切である様な場合でも一部の譜例ではコード体系すらも簡便的な物として均されてしまう事も少なくはありません。

 亦それらの簡便的な譜例に附与されるコード・サフィックスの多くは、コードが略記されるどころか正確さを欠いている事も往々にして起っているのが現状なのであります。

 そうした「簡便的」な例が本来意図している物は、原曲の雰囲気を醸し出す特徴的な伴奏のリズムなどを全く知らずとも、主旋律に対して漠然としたリズムで以て伴奏を付与するに当って主旋律を妨げない程度の簡便的な和声感を附与する事で楽曲の全体像を映し出すという事が優先されている物で、時にはコードそのものが簡略化されてしまう事も少なくはありません。

 然し乍ら、全くのファースト・サイト(初見)であった人が漠然と楽曲に対して伴奏を付与するに当って楽曲のイメージを捉えている大枠の和声感という物が、奏者に伝わっていれば充分とするのがこうした簡便的な譜例である訳です。


 コード表記というのは、あくまでも「便宜的」且つ「簡便的」に楽曲の大まかな雰囲気を演出する事を目的としている為、原曲の持つリズムの特徴など全く考慮しておらずとも簡便的にはハーモニーが得られたりする事です。それがひいてはコード表記として表わされ、歌詞と単旋律が楽譜で表わされる事で楽曲の概観が即座に理解・演奏する事が目的となっている為、その簡略化が更に簡略化されてしまう事もあるという訳です。


 そのような簡略化される事態をどうしても回避したいのであれば精確な楽譜を手にしたり緻密に採譜する必要がある訳ですが、簡素化されたコード表記を目にしても旋律の雰囲気を瞬時に把握した上で簡素されていたコード表記を敢えて複雑なコードの類に変容させるという様な方法を採る事も可能です。

 が、然し。この手の手法は音楽的経験が物を言うので、音楽的素養の薄い人へ文章だけで伝えようとしても無理がある側面でもあるのでなかなか実感しづらい人もいるかもしれないのも事実。結局のところ原曲というそのものを忠実に再現する事が優先されるシーンあろうとなかろうと、コード表記という物に関しては最終的にそれを弾く者が表記通りに遵守するか、または高度なアレンジを施すかという解釈に委ねられる物でもあるという解釈の自由という理解の「幅」がある物なのでもあります。


 例えば、単旋律とコード表記があったとしましょう。勿論中には歌詞が併記されていたりする事も屢々でありましょうが、少なくともこれらの情報の中から「深読み」する必要がある情報は、単旋律である五線譜に書かれた「調号」、その次に「拍子」「テンポ」でありましょう。

 なぜかと言えば、単にコード・ネームばかりに頓着していた場合、ト長調で生ずる「C」とハ長調で生ずる「C」の違いを文字だけから読み取る事は相当難しいのにも拘らず、これらの、文字上では同一のコードであっても全く役割と響きが異なるそれを響きとして体得せぬまま文字だけで読んでしまうのは音楽を理解する上ではとても重要な事を蔑ろにしてしまう訳ですね。


 コード表記に於ては色んな流儀があるものの、表記の体系を獲得すると異端な表記に遭遇したとしても「謂わんとする事は判る」という風に理解は出来る物です。現今社会では異名同音まで網羅させて電話帳の様に分厚いコード・ブックなども出版されていたりする位ですから、それを暗記するのは却って莫迦らしいと思わせて呉れたりもするのですが、本来「和音」という物を理解する為には以下の条件を瞬時に峻別する事が重要となる訳です。


 演奏を高度に仕上げる為に楽曲を深く掘り下げる必要があるならば、そもそも単旋律とコード譜に頼ってしまう事は無謀でもある訳ですが、コード表記の体系は多くのシーンにて和声感を充たせてしまう事もある為、コード表記そのものが重視されがちな側面が特にインプロヴィゼーションや原曲とは異なるアレンジが許容されるシーンでは却ってその簡便さが楽曲本来の姿を露にしない事で功を奏している状況も少なくない為、コード表記が重視されてしまうケースもある訳です。


 処が、前回の様に上声部が「Ⅲ→Ⅵ→Ⅱ→Ⅴ→Ⅰ」と進行するプロセスに於てベースが「Ⅲ→♭Ⅲ→Ⅱ→♭Ⅱ→Ⅰ」と強行する場合、ベースは上声部で生ずる各和音から想起しうるモードにも準えないカウンター・ノートを弾いている訳ですから、コード表記から類推可能なモード・スケールとは異なる体系の音をベースが弾いているという事実をベース以外のプレイヤーは頓着していないかもしれないという事実がある事でしょう。

 無論ベースにしてみれば、上声部と下声部との両方に注意を払い乍ら演奏している事となり、そういう意味ではベースはこの場合他のパートよりも楽曲を深く掘り下げてアプローチする必要にある、という事を表わしている訳です。

 ベースのカウンター・ノートとて上声部の和音構成音から外れているだけで、後続和音へ「示唆」する三全音あるいは三全音代理の勾配を伴った牽引力を用いているのは明白であり、本来なら三全音の重力があるシーンをコード表記が隠蔽してしまっている訳です。これだとコードは一体何を示そうとしているのか!? という事が陥穽となってしまう事実を露にしてしまっている皮肉な例の一つとして挙げる事ができるでしょう。

 Key=Cに於て「Ⅲ→Ⅵ→Ⅱ→Ⅴ→Ⅰ」は〔Em7 -> Am7 -> Dm7 -> G7 -> C△7〕という風になる訳ですが、これらのコード進行にベースがカウンター・ノートたるダブル・クロマティックにて下行クリシェを「強行」すると〔Em7 -> Am7 (on E♭) -> Dm7 -> G7 (on D♭) -> C△7〕という風になるという意味ですから、ベースはご覧の様に上声部の和音から想起しうるモード・スケールに準拠しない音を用いる事がある訳です。

 更に重要な事は、強行したベースの下声部と上声部を纏めてひっくるめて想起可能なひとつのモード・スケールというのは少なくともヘプタトニックでは無理なのであります。やったとしても単に人造的な物であるに過ぎず、上声部の響きがその人造的なモード・スケールに靡く事は無いでしょう。中には、曲解を重ねて偶々見慣れないヘプタトニックのモード・スケールを想起する事が可能と成る事があったとしても、ベースの強行と上声部に生ずる卑近な進行の間には、分離感のある世界観が用意される様に響く事でありましょう。

 つまり、上と下とが必ずしも混淆とする事の無い世界観が存在する所に、G7sus4(9)という表記の陥穽は、コード表記の流儀に慣れた人からすれば誰もがそのコードの構成音は〔g・c・d・f・a〕という事を理解したとしても、基底部の和音は和音という体ではなく単に不完全協和音程を持たぬ「1・4・5度」の和音を持つに過ぎず(=普遍和音ではない)、基底部が和音の体を疏外している形であるにも拘らず「5・7・9度」にて普遍和音たるトライアドの構造を持ってしまう様なコード表記など、下声部や基底音の役割が何たるやという事を全く無視しただけの策に溺れた方便だという事があらためて能く判ります。

 
 先日も述べた様に、分数コードと呼ばれる物の大半は分子が単音でありますが、分子が和音である事もあり、それらはポリ・コードとして集約される物です。

 十三の和音を形成した時、それを西洋音楽界隈での「完全和音」(=構成音の何れもが省略されていない形)とする体系とは異なり、ジャズ/ポピュラー界隈では、複音程に生じたトライアドを基底の単音程側に備わる和音の機能とは別個に考える様なアッパー・ストラクチャー(例:G△/F△7)などもありますが、後者のアッパー・ストラクチャーというのは、それがダイアトニックで構成音を充たそうとも複調的な想起をする事を示唆している物であり、十三の和音は属十三であろうと副十三であろうとも「総和音」の体は三全音を含むからといって同一視しようとはせずに、アッパー部(=複音程側)に生じた和音の振る舞いを基底の持つ性質とは別に振る舞おうと解釈する物である訳です。

 こうした体系の中から構成音の一部が省略される様になり、分数コード或いはオン・コード(onコード)という物が生じて来たというのが現在のジャズ/ポピュラー界隈の仕来りな訳であります。


 ですが、前回と同様に今回も例示した様に、オン・コードというのは上声部のモード・スケールに準拠しないカウンター・ノートを意味する事の含意もあるという事を踏まえた上で(※現在の殆どは「スラッシュ・コード」たる分数コードと同一視されている現実があるものの)、こうした上と下とで併存し合う世界観を表わしている訳ですが、それらが「分数コード」「オン・コード」「スラッシュ・コード」とか名称の嵌当に拘泥するのは無意味な事であります。

 コードの表記というのはそこまで厳密な意味を持たせても仕方が無いのです。本当の意味で音に拘るのであればコード表記という体系の表意ではなく、音符が示す所に厳格なまでの注意を払うのが正しい選択であるからです。

 例えば上声部と下声部とで、上下夫々が和音である事を示す場合、下声部となる基底和音にはコードである事を示すサフィックスを附与しなければ、大概の人は下声部を単音として識別してしまう事でしょう。

 仮に下声部が単音 or 和音という事を識別したとしてもその後即断しなくてはならない事は、上声部と下声部を同一のモード・スケールで俯瞰出来るか否かという峻別が必要になります。

 大概のケースは上も下も一つの同じモード・スケールで対処できる事が多いものですが、上と下も異なるモード・スケールを想起するバイトーナルのシーンがあるのも知っておかなくてはなりません。オン・コードにしたって上下のモード・スケールが同一の物、または複調的な物、或いはカウンター・ノートである事を示した物がある訳です。カウンター・ノートは上声部のモード・スケールとは異なる「もう一つの」物ばかりであるとは限りません。そういう意味では複調というよりも調性は多様に変化した上での多調性を孕んでいるとも謂える事でしょう。

 即ち、分数コードやオン・コードを見かけた場合

1・・・分数コードの上と下を同一のモード・スケールで俯瞰できる
2・・・分数コードの上と下を異なるモード・スケールで想起する
3・・・オン・コードの下声部が上声部のモード・スケールに準拠する
4・・・オン・コードの下声部が上声部のモード・スケールとは異なる
5・・・オン・コードの下声部が上声部のモード・スケールとは異なり、オン・コード部のモード・スケールも1種のモード・スケールに収まらない

という、少なくとも5種類の見立てが必要となります。更にもう1つのタイプを加えるとなると、上と下とが和音で示されるタイプのコードであるものの、下声部に想起しうる和音の一部がオミットされている場合・・・6

という物も存在します。この「6」の例である、下声部に生ずる和音がその5th音を省略している場合は西洋音楽界隈での「不完全和音」として括る事もできる訳ですが、下声部に生ずる和音のその3rd音が省略されている場合というのが稀にあります。例えば「G△/F△」という表記での下声部「F△」が実際には「F omit 3」である場合です。こういう例は非常に少ない物の、非常に狭い界隈では、このような「下声部が空虚五度」を生じている時はこれも亦不完全和音の1つである物の「分数の分数コード」として体系づける所もあります。つまり「G△/C/F」という事です。


 和声学的に見れば、属十一(※本位十一度を持つ)の和音で通奏低音にてバスにf音が生じた時の和声として見做されるでしょうが、こういう解釈をジャズ/ポピュラー界隈の人達に慫慂した所で支持を受ける事は極めて少ない事でありましょう。但し、理解する上で重要なのは西洋音楽方面の知識に沿って理解するという事ではなく、和音を峻別する上でどのような想起が最も適切であるのか? という事であります。

 
 そういう訳で、「コード表記」なる物に厳格なまでに取扱っても突き詰めれば無意味に等しくなりかねないので、音楽を追究した時辿り着かなくてはならないのは、コード表記とやらが実際には「多義的」である事をあらためて認識する事が肝要となる訳です。

 
 この様な音楽の大系は西洋音楽由来の体系を利用している訳であり、音楽用語の中には原語の名称が精確に日本語に訳されているのか疑わしい側面は少なからず存在する物です。

 但し、名称がどう呼ばれようとも「言語」が大枠の理解を補助して呉れる事も亦事実であります。そうした名称の是非をあれこれ議論する前に「言語」という大枠がサポートしてくれる、進むべき道を逸脱する事はない大枠の理解の為にコード表記という流儀もある訳でありまして、コード・サフィックスとて日本語が適用されている事などは無く実際には外来語をカタカナにて用いている事が「日本語」たる言語の役割程度にしか為しておらずとも、大枠を踏み外さないという前提は守られている事と同様に、音楽面に於て名称ばかりに拘って本質の議論を俟たずに重箱の隅をつつくような事はあまりに瑣末な事であり徒労に終わる事でありましょう。J・S・ミルの『論理学体系』の中に次の様な一文があります。


 《すでに使用されている名称の妥当な定義を形成することは、選択の問題ではなく、議論の問題である。たんに言語の使用に関する議論の問題ではなく、これらの特性の起源にさえ関する議論の問題である。それゆえに、名称が適用されている対象についての我々の知識の増大は、定義の改善を示唆する傾向がある。ある主題について完全な一組の定義を形成することは、その主題についての理論が完全になるまでは不可能である。そうして科学が進歩するにしたがって、その定義もまた進歩するのである。》


 例えば、和音進行から得られる「音楽の起承転結」感という物は、このような感覚は音楽の霊的とも呼ばれる側面であり、これを科学的に当て嵌める事は非常に難しい事でありましょうし、科学がどのように進歩してもこの音楽の表情に対して一義的な意味を持たせる事は不可能であると思います。

 その上で音楽の和音進行を鑑みると、それに対しての科学的考察は科学の進歩具合で概念が全く変ってしまう様な変化が起ったりする事は考えにくい事でもあり、そこに伴う音楽的な用語を特定の使用者の理解の度合や個人的主観に依って変更しようとする事など全くたわけた事であるでしょう。

 しかもそれは寧ろ、言葉を粗末に扱っているからこそ正答にも辿り着く事ができずに自身の感情の触れ具合だけで言葉を選別しようとする愚かな輩が出て来たりするのだと思います。

 和音「進行」はprogression, cadenceだのと方々では他にも色んな言葉が充てられていたりする物です。そこでresolutionという言葉に置き換えたと仮定した場合、resolutionが本来意味するのは「解決」ですから、未解決や弱進行に於てresolutionという名称は相応しくない物となります。日本語の訳書がこうした言葉を総じて「進行」とする所に、本来の名称の充て方から示唆される意味は消失している物の、これを訳者の責任としてしまうのも問題があります。

 そもそも和音「進行」と呼んだ所で、実際に進んでいるのは時間であり音ではないのであります。

 それならば「進行」という日本語のそれそのものの嵌当が誤りではないのか!? と云う者があるとしたら、それもまた実に愚かな事でありましょう。複合化した音高の変化を時間の流れと錯誤してしまう人間の感覚を冒涜する事と変りないからです。

 音楽など、その音そのもの以外に観ずる物などフィクションに過ぎないのに、たかだか数分〜数十分の間に起承転結の物語性などを投影してみてはそこに人は喚起し、時には涙する。普段の日常生活でこれほどまでに感情の起伏が起きてしまう物なら正気の沙汰ではないと見られても不思議ではない事が音楽の「霊的」な作用では起るのであります。しかもそれは誰が聞いても同一のメッセージが放たれている訳でもない「多義的」な物であるのが実際です。

 多義的な解釈があるとは雖も、作者の意図する世界観を共有したいが余りに齟齬とする側面を極力排除して本質を読み取ろうとする。数百年経過してもそこに一義的な解釈は不可能ではあるものの、深い掘り下げから新たなる解釈に到達する事は、憶説に拍車をかけた憶説という様な、よもや音楽的素養の薄い者が噂が噂を呼ぶような事とは全く異なる方面の解釈である事は云うに及ばず。

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