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音楽との邂逅 [回想日記]

扨て、音楽とやらは特別視すればこそ深みを増しますが、老若男女問わずして音楽というものは人々を魅了するモノですし、魅了された人達が総じて楽理的側面を知っているどころか知らない人が圧倒的に多いワケですね。場合によっては音楽の深部であり且つ正しい事を言っているんだけれども、あまりに乖離しすぎてドン引きされるコトだってあり得るワケです。バカっぽいギャグじゃないとダメなのに、ついついインテリ系のネタ絡めて恥ずかしい思いをする経験、人間誰でも一度は経験するかと思います(笑)。


楽理的側面を知らないのに音楽についてアレコレ語っちゃ悪ぃのか!?なんて声も聞こえそうですが、どんどん語ってやってほしいと思います。自分の好きな事なら尚更でありましょう。ただ、音楽を何処まで知っているのか!?ということを弁えた表現というものに留まらせておくのがよろしいかな、とは思います。その一線を越えれば耳を傾けるに値しないモノになりがちです。説得力を欠きつつ興味を惹くという事も希薄なのを知って知らずか、こういう一線を越えた人の発言というのは粗暴でエネルギッシュではあるものの、やはり説得力に欠けてしまうモノです。

私が以前大恥をかいた事はですね、目の前の人が某オーケストラの団員だという事を知らずに楽理的な側面を語ったワケですよ。大して東欧の音楽の歴史など知らないクセしてバルトークの名前出しながらジプシー系音階をエラそーに語っていたコトがあったモンですよ(笑)。後に、それが釈迦に説法だという事が判り、音楽の歴史的な背景やらその方が遥かに詳しいコトに大恥をかいてしまったという(笑)。

恥をかきたくないから尻込みする必要はなく、時にはあてずっぽうで無鉄砲な振る舞いが功を奏する時だってあるでしょう。しかしそれは若い内に留めておいた方が無難でして、場合によってはどんなに若い時でも許されないコトだってあります。許容される時というのは周囲の配慮によって自分が生かされている、という事を痛切に自覚しておく必要はあると思いますが、若い頃のこうした自覚の芽生えというのは意外に難しいものだったりもするものです。


確固たる基準を備えるためには楽理的な側面を知ることは勿論なのでありますが、音楽も深い所まで知ると「例外扱い」していた事も受け止めねばならぬほど多様なコトが判ります。ただ、この多様な世界を知るようになるには結構知らなくてはならない事が多いモンです。音楽を熟知しようとすれば、楽曲そのものの尺以上の時間を幾度となく聴いたりする事もしばしばであるワケで結構な時間を費やしたりするモノです。


「例外扱い」というシーンというのは人によって様々だとは思うんですが、ココでは左近治の例を引き合いに出して語っていくコトとしましょうか。

それは、概ね「ハイパーな」世界観に行き着く所だと思うワケです。まあ和声的だったり調的な方面ですよ。私自身はどういう風に遭遇して来たのか!?みたいな所も交えながら語っていこうかな、と思います。


左近治ブログを継続してお読みになられている方なら既にご存知だとは思うんですが、嘗て左近治は中学生時代に神奈川県民であったため「アチーブメント・テスト」(=通称:ア・テスト)を中学2年生の終わりに受けなくてはならないため、そこに出題される「音楽」もかなりの比重を置いて勉強せねばならなかったワケです。

結婚前に引っ越す時に当時の中学時代の音楽のノートが出て来たコトがありまして、今でも売られている「音楽通論」や「楽典」やらに書かれているような事はほぼ網羅してあった事にあらためて驚いたモンです。皮相的な理解しかしていなかったコトに加え、中3になった時点でその後の高校受験のために、教育の方の音楽的教養は「デストロイしちゃってもイイよね!?」みたいに考えてたモンですから、とりあえずノートだけ取っておけば間違いねーだろ程度にうわべだけでしか理解していなかった事は否定しません(笑)。

そんな左近治も小学校高学年から、器楽的な経験においてはドラムから端を発して当時はまともに弾けないけれどもコードの成り立ちやらヴォイシングを確認するためのフォークギターという経験があり、一般的なコードの構造は理解しておりまして、その後私はベースを弾くようになるワケですが、周囲にベースがとても少なかったことと、ベースを弾いてはいてもコードに詳しくない者ばかり遭遇して来たのが大きく影響していたのだと思います。ちなみに私にプログレやらジャズ・ロック界隈やらを聴かせて来た年長の連中というのはドラム、ギター、ピアノやらそんな連中ばかりでした。


そんな私が中学生になった時、音楽教育において幾許も価値を見出せなくなっておりました。ジャズ理論やらへの偏狭的な信奉に加え、根拠の無い反体制的な振る舞いというのもあったでしょう(笑)。そんな私でも「この先生の言うことは聞いていた方がイイのかも」と思った教師が赴任していたのが私の通った中学校だったワケですわ。

その先生はNHKの合唱コンクール全国大会で賞をもらう先生が音楽教師。奇しくも私は中学生活の間の1年間、その先生が担任となったのはまさに幸運だったワケでありましたが、それは中学時代を満喫していた当時はそんな有り難みを全く感じていない不届き者であった左近治でありました。


後になって(卒業後暫くしてから)その教師の凄い所に気付くコトになるワケですが、それは、フーガを書ける所でありまして、まあそのアレンジ力の素晴らしさは折り紙付きでありまして、合唱コンクール用の曲なんかやった日にゃあ、「なんでお前その調歌ってんの?調違うだろ」みたいな(笑)、まあ3つ4つの異なる調性が縦軸方面には現れるワケですわ。この「異なる調性が併存」という部分においては多くの学校でも経験することかもしれません。


私の中学時代というのは、ポピュラーな世界におけるコードネームやコードの構造とやらは当時から把握していたので、その世界限定であれば音楽教師よりもポピュラー界隈のコード表記の流儀は知っていたワケですな。私はココを振りかざすのか、周囲からそっち方面でチヤホヤされているのも手伝ってよせばいいのにその先生に音楽談義をいたずらに煽って職員室に話に行くワケですわ。

ところが先生の方は出題される方面の音楽的知識の必要性とそれらの用語を絡めながら、私の不毛な「音楽自慢」を去なすワケですわ(笑)。こちらからすれば同じ土俵で勝負してくれないワケですね。ところがいつしかその先生は私が知るコード構造のそれを熟知するようになるんですな。私がメモっていたものを見せたコトがあるんですが、それを覚えたというワケです。

その先生は「お前がきちんと理解していたから私は覚える事ができたのだろう」と言ってくれるワケですな。勿論その先生にコード表記など全く無縁で、きちんと五線紙があるだけでイイ筈なのに私の土俵へ乗っかって来た時には、私が思うそれ以上のことを携えてやって来たワケです。そこで一言。

「おまえもきちんと学びなさい」

冗談は通用しねータイプだし、なんか面白おかしくしてると「何がおかしい!」とかいっつも怒鳴られるし、なにしろ学者的な喋り方で異性への興味なんてあんのか!?みたいに根拠無く色眼鏡で見ていた左近治でしたが、やはり凄い凄いと言われている先生がひとたび向き合ってくれるとですね、なんかこうその時間だけ独り占めできた事が嬉しいのか、やはり心の中で喜んでいるワケですな、左近治は(笑)。


で、その一言の後、先生に

「センセイ、ハッキリ言う。俺はコード理論知っていることが自慢だったけど先生はきちんとした基礎があるから難なくそれを覚えるコトが出来て凄く羨ましく思う。で、俺が今音楽的に壁に当たっているのは、先生が合唱コンクールでアレンジしていた”別の調”が幾つもある時。ああいうのはどうすれば判るようになるんだよ!?」


と言ったワケでした。こうして言葉を書いている私が本当に恥ずかしい(笑)。文章にした口調よりも遥かに悪ぶっている当時の私だったワケですから(笑)。人様に教えを請う態度とは思えません(笑)。

んでまあアレコレ喋っている内に「おまえなら異なる調が併存している曲持ってそうなんだけどなぁ!?」と言いながら、「理論的な方面の根拠が無くとも、おまえが今回の例と似ていると思っている曲を持って来てみろ」と言われたワケですな。

本当が「楽譜にしてこい」と言われたんですが、私が「カセット・テープにダビングしてきたら駄目!?」と散々頼んで、学校に持って来てはいけないカセット・テープを持って来てイイことになったワケでした。担任でなければここまで許されることはなかったかもしれません。


その後左近治は、嘗て恋人に作ってあげたカセット・テープ選曲よりもなぜかワクワクしてカセット・テープにダビングしたモノです。私の思い付く曲なんて2曲しかなかったのに、46分テープの他の部分は「コレ聴かせたら絶対気に入るはず!」みたいな選曲になっちまったモンです。当時の自分のお気に入りのカセット・テープ、TDKのODに録音していった曲。まずは「対位的手法」で書かれていると思しき曲を2曲録音することに。FreeHand_UScover.jpg


Gentle Giant / On Reflection
Gentle Giant / Talybont


まあ、なんてコトはない。GGのアルバム「Free Hand」から2曲選んだだけですやん(笑)。で、持っていったらその先生は持っていなかったモノの、「知人が聴いてたなコレ」と言っておりまして、ケツの青い左近治が知ってる曲を知らないワケが無いよなーと思いながら、私に諭されたことは

「理論的な裏付けが希薄なおまえにこういう感覚が備わっていることに正直驚きではある。こういうことに本当に興味を抱いたらきちんと音楽を勉強するといいだろう」と言われたワケですな。

で、「センセイ、俺はどんなクラシックの方面を聴いてみればイイかな!?」と訊ねた所、その時返って来たのがスカルラッティでした。


折角アドバイスしてもらっているにも関わらず左近治はもう、そんな名前出て来た日にゃあ、頭ン中はギャートルズの曲がグルングルン鳴り響いてるワケですわ。「ガイコツだぁ~~~♪」って部分がね(笑)。なにせスカルラッティ → スカル → ガイコツ → ギャートルズ

ってなワケですわ。でもそんな時、過去にハイドンの名前が出た時に「位置についてヨイドンだかハイドンだか知らねーけどよー、もっと知ってる曲で音楽聴こうぜ!」なんて思ってニヤニヤしてたら怒られたコトを思い出したので、ココはグッとこらえてギャートルズの唄を懸命に忘却の彼方に一時的に葬り去った事も記憶に鮮明に残っております。


そこから私はその先生にその後の理論を習うことはないものの、その言葉でスッキリしたのを今でもよく覚えております。おそらくは、自分の気に入る音楽への情熱というモノに対して真摯に向き合ってくれたのではないかと思うワケです。



その後、私は色々な音楽教師に出会うコトとなりました。フーガに関して言えば先述の教師ほど熟知していた先生はおりませんでした。Quadra 840AVが出た時に、当時の私は周囲と比較してもMac導入が早かった方だったので、色んな方面から重宝されていたワケですな。音楽的な方でのMac導入のための知識とかソフトのレクチャーとかですね。その時期に出会ったのが、ある高校から依頼があって出向いた事があったんですが、今では政界やらTVでも結構有名な方の出身校の音楽教師だったワケですが、その先生のフーガの能力もかなり高かったように思えます。

いずれにしてもそんな先生が教鞭を執る学校で学ぶ生徒は羨ましいものだとあらためて思いますし、私自身とても幸運だったのだなあと、その時あらためて実感したモノでありました。

但し、私が言いたいのはフーガを書く事を礼讃するワケではないのであります。対位的な手法において生じる事なる調性の併存するシーンに直面する事そのものを凝視せよ、と言いたいワケですな。


例えば、ジャズのインプロヴァイズだってアウトサイドのフレーズを奏でているシーンに遭遇することがあるとは思いますが、これだって何の脈絡も無い調性をいたずらに引っ張り出しているという事は少なく、色んな調性の集合体であったとしても、そこには「複数」異なる調が存在するワケでして、アカデミックに構築された作品やらジャズのそういったアプローチが全く別物なのかというとそうでもなく、もっとマクロ的に見ればいずれに等価だとも言えると思うんですな。自由度の高さから言えばジャズの方面に軍配があがるとは思いますが、比較するのは自由度の高さではないのはお判りでありましょう。


私が重要視したい点は、やはり調的な世界が多様に成立している時で、ある一人の強烈なインプロヴィゼイションによるプレーが調を逸脱しようとも、瞬時にそれに呼応できるまたは拡大できることが今後のジャズの姿なのではないかと思うワケですな。但し、予定調和のフレーズやキッカケは必要となるでしょうし、RTFやらの後年のチック・コリアはこういう風に楽節を構築していきながらインプロヴィゼイションを混ぜているのだろうと思います。


調的に複数の調性が織り成されてなかろうとも、想起し得る「文脈」という音楽での音形というものは上っ面だけを強固に感じ取れば、コードの響きから生じるハーモニーに身を委ねるか、もしくは調的支配によって構築される旋法的な動きによって次の音を示唆するような動きという、大抵はいずれかのタイプに収まるのではないかと思います。あくまでも上っ面的なごくごく簡単なモノとしての意味です。



patternB_BlueMoon.jpg扨て、先日私が引き合いに出していた、初音ミクに唄わせた曲の譜例部分に今一度注目してもらいましょうか。この曲は変ホ長調の姿が強い時は平行短調の主音となる6th音を強調し、サビでは平行短調を強く意識させつつ平行長調へ動いていく、というじつにもどかしいというか平行調を行ったり来たりしているワケですが、譜例のBパターンはそれらの調性からは大きく逸脱します(笑)。


例えば、譜例部分で言えば「ふりそそぐ ひかり」の「り」から次の「てらさないで」に注目していただくと、ハ短調を基準に見た場合、「り」の部分は対蹠点(※中心軸システムやらを語る時は私は「対極点」と言いますが、増四度/減五度の音程にある音の扱いが等価ではない場合の音程関係は「対蹠点」と区別して呼びたいと思います。例えばハ長調と嬰へ短調の場合は「対蹠点」であり、ロ長調とヘ長調は「対極点」と呼んでいいという事を意味します)にある音程関係となりまして、Fis音から全音音程がDまで連続する流れとなっています。


トゥーランガリラ交響曲を例に挙げた時にチラッと語ったことがありますが、こうした全音音程が連続するフレーズはマクロ的に見ればメロディック・マイナー・モードに収まるモードか全音音階を示唆する流れでもありますが、「和声の情緒」に身を委ねさせているために、それらの旋律がホールトーンのそれやメロディック・マイナー・モードを示唆する音に聴こえないのはお判りになるかと思います。但し、縁遠い調関係をなるべく意識させずに歌い手に唄わせ、聴衆にもさりげなく聴かせるという点においてはとても重要なことだと思いますし、実は左近治も工夫しながらこういう調関係を呼び込んでいるのだという事をお判りいただければな、と思うワケですな(笑)。

ツーファイヴ繰り返して延々と「転調」を繰り返していけば、対蹠点やら対極点だの無関係に12音使っていきますわ(笑)。そーゆー方面での半音の捉え方ではなくてですね、本来縁遠いはずの調関係を忌憚なく、さりげなく取り込むという例を取り上げていたワケです。


闇雲にホールトーン・スケールを用いずに、C音に対してメジャー3rd上にハモり、D音にも同様にメジャー3rdでハモる。今度はBbにも同様にメジャー3rdでハモる。楽節的にはCミクソリディアンを母体にしているように思えるのに、ハモらせた時点で全然別の、非チャーチ・モードのダイアトニック・コードすら見えて来るワケですよ。ドビュッシーのペレアスとメリザンドだっていたずらにホールトーン・スケールを用いているのではなく(笑)、それらのハモりを一直線上に見ればこそホールトーンが現れるだけのことで、鉄腕アトムのような簡単な形でホールトーン・スケールを用いているワケではないんですな。

トゥーランガリラ交響曲第3楽章の上声部・下声部共に増三和音のホールトーン・スケールの総和音の所だって、あれはハイブリッドの和声の体として鳴らしている(小澤指揮以外のものは大抵シンバルに埋もれておりますのでご注意を)のでありまして、あの和声を聴いてホールトーン・スケールをイメージしてしまう人はいないと思います(笑)。そーゆーこってすわ。


つまり、皮相的にスケール・ライクに楽節を与えたり、コードの情緒だけに頼った音選びばかりしていると大した音は選べなくなりますし、加えてそういう所で収まっている所に多調的な世界を理解することは到底難しいコトだと思うワケですよ。


ただ残念なことに、ウェイン・ショーターの「Three Clowns」やら黛敏郎のNNNニュースのテーマやらドビュッシーのペレアスとメリザンドやらメシアンのトゥーランガリラ交響曲やらに共通点を見出せる人は実際にはとても少ないワケです。ウェイン・ショーターなんて音楽性が万人には厳しいモンだから過小評価されちゃっているぐらいですよ(笑)。世の中の薄っぺらいやつらの声が大きければそれは「賞賛」に置換できるのか!?というと私は違うと思うんですな。ジャズファンだって殆どは「雰囲気」に酔いしれているだけの人が多くて、器楽的や楽理的側面に精通している人達が潮流を作り上げているワケではないんですな。音楽って客の為にあるのか!?というとそれもまた違うとは思うんですけどね。無論、ジャズの中にも大衆迎合したのは少なからずありますが。


耳が習熟していない人がトゥーランガリラなど聴こうものなら、おそらくや壮麗なチンドン屋にしか聴こえないような連中も居るとは思うんですよ(笑)。でもですね、いくら耳が習熟していないからといって「チンドン屋」と形容するのはいかがなものか!?と、人によってはそんなことまかりならん!と怒る人だっているとは思うんですが、耳は習熟してはいないわ礼節は欠いてるわボキャブラリーは貧困だわ、そんなのがデフォルトな連中による率直な感想が「チンドン屋」とは、自身の欲求をとても端的に表現しているコトだと思うんですよ、逆に(笑)。よくぞそんな言葉が口にするコトも憚らず出て来たモノだと。一番責められるべきなのは、チンドン屋とかすらも表現できずに他人の逆行ったり或いは他人に乗っかってみたりと、違いを見抜いたり聞き分けたりすることもなく収まる愚か者共の方なんですよ。チンドン屋と形容する連中の方がまだマシなんですな、コレが。


だからといって、口が達者でボキャブラリーに豊富であればイイというワケではなくてですね、音楽的な語彙を知れば知るほど、それに相応しい形容やら説明が伴うワケでして、そんな特徴に気付けないものが本来感想すら言えるワケはないんです。だけど口走ってしまう。判りもしないのに酒の味や料理の味語ってみたり、操を捨てた男が全ての女性を知った気になるかのような(笑)、そんなのと変わりないキモチだと思うんですよ、おそらくは。

チンドン屋と形容したら失礼なはずなのに、それはなんで悪くないのか!?時と場合に依りますし、その人の習熟度を推し量る優しさと懐も他人は備えていてくれている事が普通です。他人が許容してくれるから可能な限り無学で居るというのは、怒らない人の良心を利用してあらゆる手段を講じてちょっかい出すようなモンです(笑)。こーゆー所に収まることの無いように、特に嗜みの分野というのは気に留めながら語ることが必要なのだと思います。


でもですね、こーゆー事を理解したからといって楽理的側面が理解できたというワケではないですよね!?だからこそ、読み違えてはいけないんですなー。
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