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(後編)坂本龍一の演奏に見られるポリ・メトリックとノート・イネガル考察 [楽理]

(承前) 結論から言えば先の「Elastic Dummy」の当該部分というのは、8分音符のリズムを感じ乍らそれに飲まれない様に1拍5連を刻むリズムで奏する、というのが最大のポイントなのです。故に、その「飲み込まれない」為の重し付けとして、上声部と下声部に分けた音符で表わした訳なのですが、その辺りは順に説明して行きますのでご容赦を。


 扨て一般的な音楽シーンに於て(※西洋音楽界隈とは別のシーンという意)、よほど熟知していない限りはノート・イネガルや前述の様なポリ・メトリック構造に関して学ぶ事は稀だと思います。音楽教育の側面から鑑みれば、音符の音価こそが主体であって然るべきですから学ぶ順序が違うのは先述にある通りです。

 俗間に於てはそれくらい取扱われる事が少ないであろう、そうした例から学ぶ事は多いので私はこの様に述べている訳ですが、我々はひとたび楽器演奏の熟達の度を増す毎に、簡便的な記譜という物に対して「深読み」をする様になります。それは演奏解釈の為の深読みでもある訳ですが、殆どの場合楽曲における記譜というのは「均されて」書かれているのでありますが、細かな表現が記譜という大枠に埋没させられてしまっているケースなど多々ある物です。テンポが均一なシーケンサーを母体にして演奏するのは稀な例であり、多くの人間的な実演というものは呼吸感や揺れなど多くの装飾的な表情を纏う物でありまして、そこに醍醐味という物が生じます。


 西洋音楽だけに限らずとも世俗音楽界隈とて、ひとたび誰かが或る楽曲のカヴァー演奏をしたとして、オリジナルを深く堪能する人からすれば演奏の違いなどは峻別が可能な程に違いを即座に聴き分け吟味する事でありましょう。概ねオリジナルを超越する様な演奏に遭遇しないのも大きな特徴かと思います。そうした違いというのは、譜面《ふづら》上には表われない異なる人が弾く事の演奏の揺れや表現の違いが差異感となって表れるのは至極当然の事ですが、この至極当然という部分が楽譜では均されて記譜される事が大半なのであります。まあ、ブライアン・ファーニホウの様な奏者の独自解釈を許さぬかの様に厳格な記譜というのも存在する訳ですが、ファーニホウの様に極端ではなくとも、平常とは異なる様な形で見掛ける様な記譜というのは往々にして作者が多義的な解釈を許容せずに細かく指定している場合が考えられる物で、こうしたケースもそう珍しくはない物です。


 何度も言う様ですが1000年前に記譜法が始まり、そこでは音高は示しても音価を示さなかったのが最初期。一つの音に対しての装飾的な技法は口承だった訳ですから、後に続く者は大変だったかと思います。無論我々も亦、そうした先蹤を知らず識らずの内に利用して来た上で最後尾に続く者たちと謂えるのでありましょうが。

 記譜法という物は、譜面そのものは簡便的に書かれ乍らも楽譜の読み手(=奏者)がそこに「重み付け」を行なって演奏するという方が音楽史に於ては過去に遡るほど、奏者の解釈に重きを置いた物でもあったのです。ターン、モルデントやプラルトリラーと呼ばれる記号など最たる物ですが、それらの様な演奏記号が多用される背景には、楽譜を読み取る奏者が奏者毎に微妙に異なるのを許容していたのは、旧くは作者の地位よりも奏者の地位が高かった事もひとつの要因である事でしょう。ある程度の共通認識としては具備し乍らも、各人が備えている呼吸感や脈拍が全く同じ訳ではない様にそこから個性が生じます。それに随伴する様にして物理的な速度の違いや音量の違いなどが生じて来る様にもなる訳です。

 こうした演奏上の「慣習」を通り一遍学んでも、多くの人は紋切り型な理解や一義的な捉え方をしてしまうものです。また、そうした短絡的な理解に陥らない人でも、簡便的な記譜ありきで、実演にて己が異なる解釈の重し付けを行なう、というスタンスを採る人も居ます。色んな人を対象にしつつ、それらの人になるべく「共通理解」で収まる様に書いてあるのが楽譜の大枠の姿であると謂えるでしょう。然し乍ら今回は、「共通理解」に埋没してはいけない楽譜の捉え方を主旨としているのであります。


 そうした前提を踏まえた上で、「Elastic Dummy」の当該部分を語る事にしますが、それが次のex.7に見られるリズム構造となります。私がYouTubeにて表わした当該部分の符割の構造はex.7aの物で、上声部はアタマ抜きの5連符に対して下声部は「4連符」としておりますが、この4連符自体には特別な意味は然程持たせてはおらず、実際には連符表記を外した8分音符の連桁と何ら変わりない物として解釈可能な物です。とはいえ、ex.7bの様に下声部に連符表記を無くしてしまうと、上の5連符に釣られた上での「重し付けのある8分音符」という風に錯誤してもらいたくない為に態々4連符として振ったのであります。その4連符とて実際には音の数は「2連符」なのですから何故2連符表記にしなかったのだ!? と思われるかもしれませんが、2連符表記としてしまうと、上声部の1拍5連に対して恰も半分の歴時の2拍5連が由来となっている処のパルス2つ分だと錯誤されても困るので、《16分音符のパルス4つ分の4連符》なのだと、当てこすり的に態々書いている訳です。
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 無論、拍に対してきちんと間隔が整列されている様にして書かれていれば、連符の数字がなくとも何となくは伝わる物なので、前後の音符の「拍」をきちんと確認していれば、2拍5連やら他の連符に錯誤する事は無いとは思うのですが、読み手の器楽的経験まで勘案した場合、器楽的経験の浅い人にも咀嚼して表わす様にして明記しているのが下声部にある4連符という表記を附した理由であります。加えて、揺れ幅の大きい多義的な解釈を許容したく無いが為の表記なのでもあるのです。

 上下二声部に表わした書いたそれの発音構造をパルス状にして表わしたのがex.7cの例であります。白丸が発音を表わす物ですので、視覚的に見ると上下共に先の例の様なパルス構造となっている訳です。こうして図示されている様に、拍頭こそは上下揃っているのは至極当然でありますが、下声部の2つ目の発音部は、上声部のパルス3・4個目の間にあるという事を示すのですから、仮に上声部の5連符のリズムがヨレて、下声部の8分音符に等しい歴時に「吸着」してしまう様な演奏になると、自ずと上声部の5連符観というのは失われる訳ですし、同様に、下声部2つ目の発音部が上声部5連符のリズムに吸着する様な事があれば、下声部の折角の律動観は喪失する訳です。


 ポリ・メトリックで得られる律動観の最大の醍醐味というのは、他の律動観に埋没しない事が肝要となるので、演奏者からしてみれば、他の伴奏を耳にし乍ら二種のメトリック構造を意識する事が必要となる訳です。例えば1拍子毎にクリックの鳴るメトロノームに対して16分音符を奏するというのは、1つのリズムに対して別の1種のリズムを奏するだけで済む訳ですが、1つのリズム構造というのはこの場合「小節」こそが総てであり、1つの観念に対して別の「2種」のリズムを奏さなければポリ・メトリックというのは実現しない訳なのです。

 他人の演奏に対して埋没する事なく自身の別種の律動を強行するのも難しい事ですが、それを一人でやってのけるという事は殊更難しいという事があらためて理解できる事でしょう。ですから、F.ショパンの「幻想即興曲」の左手3連に対して右手の16分音符というのが難しいというのもそうした所以であります。

 但し、右手と左手という神経経路が別の物であっても、夫々が別の律動を奏するというのはある程度強化されるとそうしたリズム感の体得は決して不可能な事ではありません。むしろ、連続した卑近なリズムを利き手に遣らせて、脳の深部を経由せずに最短経路で「乍らのリズム」を出すかの様な感じで演奏し乍ら、もう一つの手で他のメトリックを刻むという感覚で奏する方が巧く行くかと思います。そういう面から鑑みると、坂本龍一がこの「Elastic Dummy」での当該部分を両手で弾いているのかどうかは知る由もありませんが、これを片手で弾き切る事も難しい事ではないでしょう。然し乍ら、このポリ・メトリック感(8分音符のリズムを奏で乍ら1拍5連を刻む感覚)を片手で演出していたとしたら、それはもっと高次な事をやってのけている(両手の方が楽)という事を同時に知っておく必要があるかと思います。

 「Elastic Dummy」のシンセ・ソロは、それこそハープのフレーズに似た跳躍をシンセに投影させているのであろうと思いますが、その「ハープ感」を態と見せているのが、今回私が譜例で表わした連桁の構造でもある訳です。ですから連符鈎もクランク状の鈎を態々振って、左右の手の感じを出しているのですが、実際に坂本龍一がこの様に両手で演奏しているとは私は思いません。おそらく片手でやってのけているとは思います。唯、狙いとしてハープ感の演出と8分音符のパルスを忘却の彼方に葬らない感じを常に意識する為に、1拍5連が上声部に現われようとも常に8分音符を意識している事を指し示す為の、上下の声部に分けた表記だという事を理解してもらいたい訳です。

 また、次の例のパルス構造に見られる「白丸」こそが発音する部分であるので、ex.7dが図示するように水色の矢印を追う様にして奏してほしいという事があらためてお判りになるかと思います。4連構造と5連構造であるリズム構造の折衷感を伴う、凸凹感を備えた歪つなリズムであるとしても、それは単にミスに依って生じた不均等なリズムなのではなく、高次なリズム感に依って形成されたリズムなので、これこそがまさにノート・イネガルという技法の象徴的な姿なのであります。無論、このようなポリ・メトリック感が聴き手に備わっていなければ、単に不揃いなリズムという風に感得してしまうのは致し方ない事でありましょう。何故なら、音楽的体系は身の丈に合った物しか味わう事ができないからです。また、机上の理論を学んだだけに依る思弁にて体得を実現できる物でもないのが器楽的習熟であります。学問を突き詰めて、それこそ象牙の塔にて思弁的に追究しようとも、本を読むだけで楽器が弾ける様になる訳ではありませんし、音楽の技法を学ぶ上でも思弁だけでは到達し得ない側面をあらためて実感し乍ら音楽を傾聴してもらいたい物です。
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 8分音符を刻み乍ら1拍5連というのは確かに大変難しい物ですし、シャッフルを刻み乍ら16分音符を刻むという事も大変だというのはお判りになるかと思います。

 5連符というリズムの体得は、実際には色んな演奏にて確認する事はできるのですが、肝心の楽譜の側が5連符を反映させる事なく表記してしまっているので、そのような楽譜を愚直に読んでしまう人のリズム感が本来のリズムを忘れてしまって、原曲をきちんと反映していない方の楽譜に捉われ過ぎてしまっているという例も少なくはないのです。そうしたリズムの難しい方に重きを置いて演奏をしてしまうと、ポリ・メトリック感を演出する必要性があるシーンに於て注力する方のリズムに己が屈伏するという事になる訳でありまして、こうした状況は単に己の拙劣たる部分が高次なハードルを飛び越える事が出来ずに卑近な所に収まってしまっているという事を同時に意味する事となります。とはいえ自分可愛さに甘んじて、こうした体得をせずに等閑にしてしまう連中も存在する訳です。概ね技量や知識も拙劣なのにプライドばかりが高い人は失敗を怖れるがあまりにこうした処に甘んじてしまう人も少なくはないようですが、自身が到達できぬ領域を知る事が出来る訳もなく、本来なら耳にした音を自身の能力に均してしまう事になる訳ですから、茲での例に置き換えるならば、5連符の体得が出来なかった者が5連符を耳にしても某かの別のリズム体系だと勝手に解釈してしまうという、己の拙劣さに丸め込まれてしまっている事にも気付かぬ陥穽に陥る様になる訳です。


 5連符という、例えばそのパルスが1〜5まであったとして、総てのパルスを発音させるという連なりで奏するならば然程難しい物ではないでしょう。特に「五指」が備わっていれば、それに伴う運指を平滑に1拍に押し込めば良いのですからこれに関しては特に難しい物ではないでしょう。

 5連符の、そのパルス5つ分総てのパルスを発音させるという連なりで奏するならば然程難しい物ではないでしょう。特に「五指」が備わっていれば、それに伴う運指を平滑に1拍に押し込めば良いのですからこれに関しては特に難しい物ではないでしょう。

 5連符のリズムに於ては過去にも色々語って来たので今改めて詳述する事は避けますが、もっと多様な5連符の体得がなければ、本来の5連符の深みを知る事は出来ないでありましょう。例えば5連符とはいえ5つのパルスの歴時が1:4の音形の場合、実際には後発の「4」は5連符のパルス4つ分の音価なのですから2音があるものに過ぎません。それは5連符で示される多様なリズムのひとつとなるのありまして、先の譜例ex.8で示した「Elastic Dummy」のシンセ・ソロの当該部のアタマ抜きの5連符は最たるモノです。

 例えば5連符というリズムの体得の前に他の卑近なリズムに飲み込まれてしまう様な感覚しか持合わせていない様な人であれば、このようなアタマ抜きの5連符を意識するという事は到底無理筋であると思う訳です。飲み込まれない様に5連符を意識しながらも、所謂「卑近」というか、誰もが脳裡に映じ易い4分音符のそれこそ4 on the floor系統のキック4つ打ちや、8分音符のフレーズなどを念頭に置き乍ら他のリズムを奏でるという事は難易度の高い物だという事をあらためて知った上で、5連符の体得の次に、ポリ・メトリック感のある別種のリズムを己の独力で奏するというのはあらためて注目すべきと私は述べたいのであります。


 イネガルにある、5連符のルレのリズム(←詳細を知りたい方はブログ内検索を)の感じを体得したければ、細野晴臣のソロ・アルバム『泰安洋行』収録の「蝶々San」の林立夫のドラム・フレーズが参考になるでしょうし、また、こうしたルレのリズムは聴き手や採譜者によってはそれを「3連符系統のシャッフル」として判断してしまう様な事も考えられる為、シャッフル系統のリズムとて易々と楽譜を信じてはいけないシーンなど往々にしてある物です。3連のシャッフルとて場合に依っては付点音符(=付点8分音符+16分音符という、16分音符のパルス3:1の構造)で表記されてしまっている楽譜すら遭遇する事など珍しくもありませんので。


 シャッフルのスウィング感や平滑した8分音符などが混在する様な演奏というのは西洋音楽界隈では多い物です。こうした由来はやはり、楽譜表記の揺れや多様な「歪つ感」を備える様な表現力を求められた歴史的背景が一因となっているのでありましょうが、ジャズ/ポピュラー音楽界隈における、徹頭徹尾シャッフル表記を許容できる様な音楽が実際には少ないというのが実状であると思います。

 
 例えば、アニメ「巨人の星」のオープニング・テーマ曲など最たる例だと思うのですが、本曲の原譜は扨置き私が採譜するならば、この曲はシャッフル表記(=つまり平滑した8分音符の連桁が実際には3連符2:1の注釈つきの指定)をせずに、平時の3連音符をそのままに、3連符主体に依るスウィング感を主体にして表記しようと企図する事でありましょう。しかし、この曲の歌唱部は実際には非常に多様な符割で表わす必要があると私は感ずるのですが、主体となる伴奏が3連のスウィング感が主なので、3連符主体か12/8拍子で書く人が大半でありましょう。3連符主体の表記として前提に仮定した場合、例えば次に記す「血の汗流せ 涙を拭くな」という歌唱部分では、概ね次の譜例ex.8の様に「均して」表記してしまう事でありましょうし、恐らく多くの読み手の方も、この表記を否定する事なく受け入れる事と思います。
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 然し乍ら、この「血の汗流せ 涙を拭くな」という歌唱部分の実際の演奏を採譜するとなると、次のex.9の方が、より適切な表記になるのであります。これはYouTubeで譜例をアップロードできる様に敢えて初音ミクに唄わせた簡易的なデモにしていますが、楽譜の方が重要な意味を持って居りますので、初音ミクの方はどうでもよいのでその辺りはご容赦願いたいと思います(笑)。

 扨て、YouTubeで確認できるex.9ですが、5連符の1:4のパルス構造や、16分音符1:3のスコッチ・スナップである「逆付点」の形、3連符の1:2のパルス構造など多様に混在しているのがお判りいただける事でしょう。これらのパルス構造は細かくなる程、音と音の物理的な時間が「詰まる」訳ですので、「涙を拭くな」の「ナミ」の部分は、少々歌詞の言葉に重みを与えない様なリズムで採り乍ら、直後の「拭くな」の「フク」の部分では5連符の1:4パルス構造を用いる為、その詰まった感が「吐き捨てる」様な感が演出されるのがお判りいただけるでしょうか。吐き捨てたい感じと、中庸であり乍ら若干詰まる感じ、或いはゆったりと3連を乗る感じという使い分けが生じているのでありまして、ex.8の様に、平滑な3連スウィングを基として理解してしまって実際の演奏もこうした簡易的な記譜通りに済ませてしまったら実に味気ない演奏になってしまい、表現が活かされなくなってしまいます。

 「巨人の星」のオープニング曲であれば大概の人なら知っていそうな曲ですし、深く曲を聴いた事がなくとも、日本語の実際の多様なリズムと唄が表現している多様な言葉のリズムの振れ具合を我々は曲の「個性」として初めて曲と遭遇した時から無意識にその「個性」を感じ取っている筈なのです。その「個性」を実演奏通りに記譜するとなると、ex.9の譜例の方がex.8よりも遥かに近しい物となる訳です。曲を深く知っている人からすれば、何も「巨人の星」であろうとなかろうと、簡易的な音符を愚直に演奏しただけの演奏からは却って「違和」を感ずる事が多く、それ故オリジナルの良さや価値が高まるのであります。

 然し乍ら、西洋音楽というのはある意味では「カヴァー」曲が数えきれぬ程「再現」される訳です。それが世俗音楽のそれとは違って「やっぱりオリジナル(初演)に勝るモノはない」という風に感ずる事が極めて少ないのは、楽譜の皮相的な部分からは感ずる事のできない楽曲の築き上げた歴史的な側面を忘れる事なく細部に亘って演奏解釈を突き詰めているからこそ、後世まで残るのであります。尚、余談ではありますが、ex.8に用いている連符鈎の括り方は世俗音楽形式で、ex.9の連符鈎の括り方は西洋音楽系統のそれだという処も感じ取っていただきたい部分ではあります。


 5連符を伴うポリ・メトリックの話題をこうして語ったついでに折角なので、8分音符や16分音符のビートを意識し乍ら5連符を体得する上で好例となる楽曲をレコメンドしておきましょう。今から丁度30年前になる1986年に発売されたフィッシュボーンのアルバム『In Your Face』収録の「Knock It」を聴いてもらう事としましょう。YouTubeにもアップされていたのでそれを参考にしていただきたいのですが、冒頭のドラムのフィルイン直後のスラップによるベース・リフの1小節目1拍目は5連符のパルス4:1のサムピングとプルであります。直後の2拍目は付点16分音符のサムピングとプルを経て2拍目の八分ウラという風になっているのです。
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 このベース・リフ冒頭1小節目1拍目は、終始5連符で奏している訳ではなく、更に弾みを付けた様にハネた16分やら16分3連スウィング形の物やら、とにかく重し付けをして奏している事だけは判ります。付点部分として聴かせたい音をとりわけ音価を長く採ろうとしているのは明白であり、その後の2拍目の拍頭が現われる時までの音価の短さというのは「吐き捨て」観が備わる感じがあるのは恐らく日本人だろうと外国人だろうと似た感覚を持っているのだと思います。然し乍ら本曲とて、楽譜にて通例的な表記を施した場合は、九分九厘、付点8分と16分音符による符割で表記される事でありましょう。

 そうした簡便的な「大人の事情」を予測しうる状況を、学び取る側がそれに対して杓子定規に甘んじてしまうだけではいけないと思います。勿論、間違いではないのですから与えられる情報や知識の全てを信用するなと迄は言いませんが、実演とは一義的ではないという事を思い知った上で、ほんの少しでも疑ってかかったり斜に構えるだけでも知識の獲得には幅が備わる訳です。勿論きちんと身に付くのは身の丈に則した物なのですが、少々背伸びをして得た知識が、能力を手繰り寄せる様に向上させてくれる事も往々にしてある訳です。音楽を学ぶ上で、多義的な側面はとことん比較し乍ら深く突き詰めて行く事が重要な事なのであります。

 
 ポリ・メトリックの様な複雑なリズム体系など、それまで知覚の外にあったかの様な人からすれば全くの埒外の音楽的感覚である筈で、人に依ってはその余りの乖離的な状況を嘲弄するかの様に忌避するかもしれません。とはいえこうした埒外とも思える様な側面を体得する事が何故重要なのか!? という事を最後に語っておく事にしましょう。

 声楽を除いて、我々は楽器を取扱う訳ですから、身体とは別の、それこそ「埒外」の物体を用いて演奏する訳です。そんな物体を携える以前など、我々は二足歩行もままならず、身体が邪魔とも思えてしまうかの様に己の思う様に物事が巧く運ばないのをどうにか周囲の大人がサポートしてくれている状況から手足を意のままに操れる様になり、音楽面ではその後に楽器の習得がある訳です。無論これらの多くは身体的ハンディキャップを抱えていない事が前提となる例ではありますが。

 扨て、そこで身体的ハンディキャップスを抱える後天的なジレンマのひとつの例を取り上げてみましょう。例えば交通事故で体の一部を無くしてしまった人の例ですが、そうした人達は、無くしてしまった部分の痛みを感じる夢を見たり、痛みの錯誤として現われる事が往々にしてある様です。壊死したり欠損したりした部位はすでに機能しないにも拘らず。

 例えば、ドラマーなど顕著だと思いますが、スティック(桴)に意志を持たせるかの様に、身体の一部かの様にまさに「人馬一体」の様に操る人がおりますが、こうした人達も、人体の外にある外部の物体を一体化させた意志を持たせているからが故の「一体化」なのであって、人間の意志というのは不思議な物で、本来無い物に意味を持たせる事で、何らかの意味やメッセージの隠喩(=メタファー)として持たせるのが顕著なのでありまして、その顕著な例が芸術なのであります。ですから、5連符が埒外だった人からすればそれを体得する事で、従来は見過ごしていた「空っぽ」と思っていた空間に多くの意味を持っている or 持たせる事に気付くのです。

 体得をしてしまうと「意味のある」行動として反映されて来るので、意味の有る物が既知の物と強化されて更に発展する様になるのです。これは律動方面ばかりでなく音高でもそうなのですが、与えられた尺度だけで甘んじてしまう様な人には、多くの「意味」を見出せない処に収まってしまう物でもあるのです。少なくともそうならぬ様に音楽を探究するには、多義的な側面を追究する事が必要なのでありまして、卑近な方面に甘んじてしまう人には見える物が少ないでしょうし見過ごしている事も多くあるのが実際なのであります。こういう陥穽が矮小な感性として築き上げられぬ様に精進しなくてはならないのだとあらためて思うのであります。


 ですから、埒外と思える様な所に音を見出す、観ずる、それを認識する前に提供する側はきちんと音を出して届けてくれている訳です。埒外と思っていた律動が決して単なる歪つで失敗例かの様な演奏ではないという事を改めて認識できる様に精進しなくてはならないのであります。

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