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ジャズ・コード表記体系のジレンマ──ジャズ/ブルースの6度 [楽理]

 所謂バークリー・メソッドたる方面にて整備されたコード表記の体系というのを鑑みた時、それらは四和音、五和音、六和音……という風に、副和音以外では13度音まで積まれた属十三の和音を見たりする事もあるでしょうし、副十三の和音をバークリー体系で見る事があるのは少ない事であるでしょう。


 また、こうした体系を学んだ時にはハ長調域にてEm7に九度音を附与する場合、ハ長調域での本位音程は短九度になってしまいますがそれは基底の和音の響きを疏外するので疏外しない方の長九度をマイナー9th系統のコードに靡かせて奏する、という体系を「いつしか」覚える事になっている訳です。

 概してフリジアンを想起して欲しい時のマイナー・コードは四和音だとフリジアン相当のそれがコード表記だけでは見えない事があるため9th音の有無にてフリジアンである可き箇所か「ドリアンまたはエオリアン」で済まされる体系なのかと判断しうる材料が乏しい時には事前にそれを綿密に理解し合うものです。
 それは同時に、基底の和音の響きを疏外するので疏外しない方の長九度をマイナー9th系統のコードに靡かせて奏する、という体系を「いつしか」覚える事になっている訳です。マイナー・コードの九度音が付与される場合は長九度である事が是認されている為、フリジアン・モードを想起して欲しい部分で長九度を附与する様では目も当てられません。

 「いつしか」としているのは、そこに深い説明もないままに、和音体系の流儀に迫られ、並行してその和音の響きを体得した時には「確かにマイナー7thに短九度を附与すれば響きが疏外されている」という事を体得する事で、それ以上の説明は不要とばかりに詳述される事なく語られて行く嫌いがあるのです。併しチック・コリアは自身のチック・コリア・エレクトリック・バンドの2ndアルバム『Light Years』収録の「Flamingo」にてこうしたコードを使う訳です。勿論その際の表記はⅢm7に短九度が附与される物ではなく、Ⅴ7にスラッシュ・コードとしての分数表記で「Ⅴ7/Ⅲ」というコードを使っている訳です。

曲冒頭の当該部コード譜はコチラ。これと同様に、ブログ文中で不明な語句等があるときはグーグルで検索する前にブログ内検索をしてみて下さい。


 属和音で13度音まで積み上げている状況以外で、副和音では13度まで積み上げる前に、所謂「アヴォイド・ノート」が生ずる事を、コード体系の方から我々は知らされるのでありまして、アヴォイド・ノートをきっちりと説明する所は意外に少ないのも確かです。一般的には

「和音構成音から想起されるアヴェイラブル・スケールの中の和音外音であるテンションとしても(☜それはポピュラー・コード表記体系に入らない)用いる事のできない音」

という風に説明される物ですが、実質的にはトライトーンの包含を避ける事に立脚している訳です。つまりは、副和音はトライトーンの包含を避けて呉れよ、という事です。とはいえ〈○M7(♯11)〉〈○M9(♯11)〉などではご覧の様に、副和音の中に根音と増十一度で三全音(=トライトーン)を形成しているのにこれはどうして良いのか!?という風になってしまい、先の前提のトライトーンの包含という説明の存立を脅かしかねない側面があるのです。
 
 私のブログでも述べて来ておりますが、ドリアン/リディアン・トータルと為す全音階の総合ではトライトーンが複音程に跨がる為に、その三全音は単音程での「重力」よりも他の音程の力に晒される為、音響的に用いるには充分である為アヴォイドにはならないという事を述べておりますが、これも実際には《協和/不協和》に立脚しているが故の解釈なのです。

 そこであらためて《協和/不協和》という事を見つめ直してみますが、トライトーン(=三全音、トリトヌス etc.)というのを思弁的に整数比で示すと〈5:7〉〈7:10〉の事であります。こうした整数比として見ただけでもそれらの整数比は整数だから綺麗なのではなくて、単純な整数が隣接していないからこそ、また約分を困難とする比率であるからこそ「不協和」なのであります。

 処が〈5:7〉〈7:10〉が複音程となった時の〈5:14〉〈7:20〉音程比である〈14〉〈20〉は、それが存在する前に下支えされる他の音程に依って新たなる地位を得る訳です。その「地位」とは、何故その場所にそうした音が存在するのかという確固たる理由を得たという風に理解してもらいたい訳です。突拍子もない音程は〈他の音程(☜他の不完全協和音程)〉に依って下支えされている為決して脈絡の無い音ではない、という訳です。


下属音上の和音

 
リディアン・クロマティック・コンセプトでもその名を知られるジョージ・ラッセルは、長調のⅣ度を根音とする和音を上方に3度ずつ堆積させていった時、その和音が結果的にFM7(9、♯11、13)という十一度音をノン・ダイアトニックのテンション・ノートを用いる副十三和音を形成した場合、この和音は響きを損ねていない。しかも調域はハ長調ではなくト長調の調域である音の構成音を用いている。この関係性を基に、彼はハ長調の重心はト長調にあるという風にしてリディアン・クロマティック・コンセプトという独自の論究を展開するのであります。

 ジョージ・ラッセルの言葉に対して確かな知識に乏しい者からすると、自然摂理に訴えかけて来る様な説得力がある様に感じられる物です。私はこれまでブログ上で何度もジョージ・ラッセルのそれには反旗を翻しておりますが、それらは私の主観に依って断罪しているのではなく、音楽面での謬見を抱えている事でジョージ・ラッセルが真実に見えてしまうだけの事なのです。次の様に話題を変えれば首肯したく人は多くなると思います。例えば、

ブルース/ジャズに用いられる和音で顕著なドミナント7thコードを属和音としてばかりでなく主和音・下属和音としても聴く感覚の時のフィナリスを注視する事が肝要である。

 フィナリスというのは、旋法的社会における「中心音」の意味ですから、喩えるならばDマイナーというキーをDドリアンで奏する時のフィナリスはD音であるが故の「嘯き」なのであります。先述した様に、属和音を属音の位置で聴く事が属和音としての重力は倍音列のそれらと合致する事に依って調性感のコントラストが更に明確になる訳ですが、この言葉の裏を返せば属和音を属音の位置で聴かない状況、というのもある訳です。

 ブルースで発展したブルー・ノート(=ブルー3・5・7度)を使う際、自ずと半音階に均された時にそれらのブルー・ノートを纏った和音の一部にはドミナント7thコードを属和音としてではなく主和音や下属和音として奏される事が増えて行った訳でして、私は何も、「ドミナント7thコードは属和音として聴け!」とばかりに慫慂して已まない立場に固執しているという考えなど全く無いのでありまして、寧ろ、ドミナント7thコードを属音以外の音程位置で聴く事を是認している立場ですから、そうしたフィナリスの振る舞いを判っているからこそ、ジョージ・ラッセルのそれは余りに当然の事であって失笑が漏れてしまうレベルに映ってしまうのであります。

 こうした件を鑑みてあらためてジョージ・ラッセルの先の言葉を振り返ると、「属調の調域を中心音として聴く」。リディアン・クロマティック・コンセプトというのは、言葉の上では結果的にこうして言い換えるのと同じ事なのです。本当は、属調側にある音の属和音(※ハ長調から見た時のト長調での属和音=D7由来の和音)が多彩なオルタレーションを起こしている(筈)の音組織の因果関係をD7の時にしか用いないという様な事ではなく、それをモードとして使っているだけの事なのです。多種多様なリディアン類の変化的な音階は、実際にはオルタレーションから生じた音組織をリディアンの因果関係として持込んでいるだけの事です。


 オルタレーションというのは何もジャズ界隈の特権ではないのですが、コード体系を覚えると目に飛び込んで来るドミナント7thコードには豊富に用いられるオルタード・テンションというのが最たる例。コード体系の側から見ればドミナント7thコードの時にこれだけ豊富に用いられる事のできる音を、「音組織として竝べて、ドミナントばかりではなく、トニックやサブドミナントの時にも使ったどうだろう?」という事を提示しているのがジョージ・ラッセルのそれと同様の事なのです。極言するなら、「Gオルタード・スケールの音組織をドミナントばかりではなくてトニックやサブドミナントで使ったら音に変化が付く」という事の裏返しな訳です。ジョージ・ラッセルは、それを「リディアン・クロマティック・コンセプト」という大言壮語に依ってある意味では成功したのかもしれませんが、この体系には謬見に依って立脚している物なのです。


調性を直視せず

 
 彼の云う様に「ハ長調の重心はト長調にある」のなら、それは「属調を属調として聴かない」のであるのですから、「属和音を主和音」で聴く事と同様になってしまいます。それならばハ長調を属調として聴かれるヘ長調は、「ヘ長調の重心はハ長調にある」という事になるので、真のハ長調とはト長調?あるいはヘ長調?と矛盾する事になってしまうのです。


 ならば、ブルース/ジャズで頻繁に起こる、〈主和音がドミナント7thコード〉の状況に於てCミクソリディアン(=Cのブルース・メジャー)でのC7コードは、下属調の属和音(Key=FでのC7)を奏している事と何ら変わりありません。これは属調を中心音として聴く事と全く同様です。Key=Fの属調がCである訳で、調域として捉えた時、これはジョージ・ラッセルの謂う「ハ長調の重心はト長調にある」という調域が移高しているだけの状況である事と全く変りありません。ただ一つ違うのは、ドミナント7thコードでの粉飾 or 属和音以外での粉飾という違いであるだけの事なのです。

 ジョージ・ラッセルの謂わんとする事は、属和音以外での音楽的粉飾なのですから、単なるその程度の事をよもやドラえもんに出て来るジャイアンがのび太を騙すかの様な「この5円玉は表がウラに、裏がオモテに刻印されている大変貴重な5円玉だ」という状況をついつい投影してしまう訳であります(笑)。

 つまり、学び手が気付かなくてはならない重要な側面は「属和音以外のシーンでの音楽的粉飾」である事があらためて判ります。ジョージ・ラッセルのリディアン・クロマティック・コンセプトは単にこの方法論である訳です。然し乍らジョージ・ラッセルが抱えている音楽的謬見を鵜呑みにしてしまってはいけないのです。なぜなら

●Dマイナー(=ニ短調)をDドリアン〈調域=Cメジャー〉で嘯く時
●Cメジャー(=ハ長調)をCリディアン〈調域=Gメジャー〉で嘯く時
●Cメジャー(=ハ長調)をCミクソリディアン〈調域=Fメジャー〉で嘯く時

これらは、本来の調性をそのように正視しない捉え方で聴く(本来の調性の主音を主音として聴かずに他の音を中心音=フィナリスとして聴く)からこその音楽的な嘯きなのであり、本来の調性のⅤを属音として聴かないが故に起こる、中心音の捉え方を変える事で起こる事な訳です。モーリス・ラヴェルの「ボレロ」がどれだけ「移旋」に伴う音組織を練り上げているのかにもはや言葉は要らないでしょう。こういう事を私は予々述べている訳ですが、文章を読む取る前に文章量が禍いして理解に届かぬ人は多いのでありますね。勿論私は計算づくなのでありますが。


アヴォイド・ノート in depth

 扨て、そこで「アヴォイド・ノート」に今一度話題を移す事にしましょう。アヴォイド・ノートというのは先述した通りでもあるのですが、それは結果的に「トライトーンを含む事になってしまうから」なのですが、これは言い換えれば、「属和音以外でトライトーンを含んでしまうから」という事の言い換えにもなる訳です。処が、機能和声社会に於けるカデンツを重視しないシーンであるならば、ドミナント7thコードをⅤとして聴かない例があると示したばかりなので賢明な方ならもうお判りでしょうが、アヴォイドとはカデンツとして振舞うべき姿を自身の和音が踏み躙らない姿を維持する、という事なのであります。

 例えばC△というメジャー・トライアドにf音が加わった特殊な和音の状況があったとします。f音はアヴォイドです。基の和音を疏外しています(※この疏外の理由は後述)。もっと謂えば、C△が仮にC△7という和音を基にしてf音を附与すると、完全にトライトーン [f - h] を包含してしまい、

「アナタ、この和音は他の和音機能を踏み躙ってますよ!」

と誹りを受けかねないコードになる為、アヴォイドなのです。

 もっと謂うと、本来「アヴォイド」というのは「不協和」に立脚している事なのです。不協和というのは先述した通り短二度が非常に強いのですから、これが不協和の極点であるとも謂える訳です。先頃刊行された近藤秀秋著『音楽の原理』(アルテスパブリッシング刊)に於て氏は、現今ジャズ/ポピュラー音楽に於けるアヴォイド・ノートについて目から鱗が落ちる程詳述しております。

 それまでの他の理論書にある様な、どこか腑に落ちないアヴォイド・ノートへの浅い洞察から説明されるそれには、音への謬見と無知が蔓延っている所にジャズの「体系」だけが乗っかって来てしまっているだけというのが横行していたのが実際なのです。

 前述の『音楽の原理』の405頁を読めば謬見は払拭されるほど詳述されておりますし、その前段で書かれる短二度に於ても深く首肯し得る理解となる事でありましょう。また、書籍を読むに当って重要な事の一つに、本文を重視するのは勿論ですが脚注はそれ以上に熟読してもらいたい訳です。どんな書籍に於ても脚注や出典の豊富な物が宝となるのでありまして、特に『音楽の原理』という本は、ジャズ/ポピュラー界隈にて蔓延る謬見を払拭するに余りある良著ですので一読され度し。

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