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ジャズ/ブルースの6度 [楽理]

 ジャズ/ポピュラー音楽界隈にて用いられる和音表記の体系はバークリーの体系だというのは広く知られる所であります。無論、こうした体系化に関わった人達にまで目を向けるとなると、和音(=chord)表記から得られる直喩的な響きとは距離を置く知識となってしまう事もあり、直喩的である「音」を求める人からすると学識的な側面が理解を遠ざけてしまう事など往々にしてある物ですが、そうした側面を成る可くスポイルさせない為にも今回あらためてそうした側面の理解の重要性を語って行き乍ら話題を進めて行こうかと思います。


 抑も、バークリーのコード体系に一役買ったのがソ連から亡命したシリンガー。スクリャービン楽派なのでありますが、神秘和音でも知られるそのスクリャービンの謂わんとする物は、不協和音に存立する三全音の齎す器楽的色彩なのであります。

 三全音を含めば結果的にそれは属和音および属和音の機能を持つ和音の響きに体系化する事になるのですが、多くの人は次の様な理解をぞんざいにしてしまう嫌いがあるのであらためて附言する事にしましょう。属和音の属和音たる色彩というのは、主音に対して属音の位置(=つまり完全五度の位置)として聞く事で、自然倍音列の合致と、協和/不協和のバランスが「不協和」へと合致する事で、その和音の後続に対して「協和」を欲する(=落ち着きを求めようとする)事で「初めて」属和音の機能が強化される、という風に理解する必要がある訳です。

 更に約言するならば、ドミナント7thコードたる《長三和音+短七度》という構造の和音あるいはこれを基底和音たる上音としてテンション・ノートを纏っている物も含めて、それを「属音以外の位置」で聞くと、これは「色彩」的に粉飾された和音として響く事もありますし、部分的には他調へ転調した様にも耳にする事ができる訳です。ドミナント7thコードを「属音の位置で聴く」事が属和音たるドミナント・コードの振る舞いという訳ですが、それ以外の音程位置で聴けば性格も情感も変わって当然な訳です。





属和音と自然倍音列

 属和音の「重力」とは、和音構成音が自然倍音列と合致する事で強化される訳であります。倍音はその構成音が正弦波でなければ自然法則に則った倍音列を含んでいる状況にあるのだから、その「強化」という側面は腑に落ちる自然摂理とも呼ぶ事ができるでしょう。例えばハ長調で「ド」の音を1音鳴らした時。ドの音を根音とした時のⅠのダイアトニック・コードとなる四和音は「ド・ミ・ソ・シ」で構成される訳で、ドを鳴らした時に生じている筈の自然倍音列とは本来なら喧嘩をし合っている様な状態であるものの、こういう実際は、音響作用は本来の和音を実体を壊そうとしてまで音響部分を露にしようとは耳にしないのであります。和音の実体が音響作用と合致する時、それが属音の位置で属和音を捉えるという事でドミナントとしての力が発揮される、という事を意味しているのです。

(※各倍音の強弱や分布は変わります。どんな音も一様に2〜x次の自然倍音列を同じ音量・分布で持っているという訳ではないので、机上の空論や思弁的に倍音を捉えている人には注意が必要)


属音の位置とはなにか

 この様な、属和音を属音の位置(※《属音の位置》が意味する事は、主音に対して完全五度に位置する音程にて聴かれる音という意味)で耳にする時の妙を端的に説明していたのは、私の知る限り小倉朗著『現代音楽を語る』(岩波新書)であり、現今社会から見れば相当古い時代からの金言とも云える訳でして、ドミナント7thコードが何故他のコードとは趣きが異なる性質を持っているのか!?という事を深く掘り下げて学ぶとこうした数々の側面を深く知る事ができる訳であります。

 ところが、協和/不協和というあまりにも耳の知覚ポテンシャルが精確な為に、労せずして協和感という物を感じ取る事ができる凡庸な人間からすると、そうした知覚の成り立ちをアレコレ考える前に早く音を出して音楽という動作やシーンに酔狂したい為、勉学に等しい方面を軽視してしまうという訳でありまして、本来必要であった知識を得る事もなく音楽をやって来た人間が己の音楽観を語る時に臆断で粉飾しようとしてしまう訳です。

 誰が聞いても嘘っぱちだと判らない様に言葉のボキャブラリーで真相を丸め込めて己の言葉の表現力で粉飾しようとしてしまう訳です。実際の音楽的無知をさらけ出す事は自尊心が許さないからこそ粉飾を伴う様になって来る訳です。往々にしてまともに音楽に向き合わなかった物の悲嘆というべき末路を示している時でもある訳です。

 もう一つ附言しておきたい事があります。それは属和音と副和音という対照し合う関係。これらは非常に重要な対照関係であるにも拘らず、殊にジャズ/ポピュラー音楽の間でも言葉が古めかしく聞こえてしまうせいか避けられる様な感すらあり、そちら界隈の音楽書でも詳密に語っている物を見掛けなくなり久しい物です。2014年か15年辺りのNHKでナベサダさん(=渡辺貞夫氏)がインタビューにてインタビュアーの女性に対して楽理的な話になりそうになり、

「属七と副七、わかります?(インタビュアーは首を横に振る)」

という遣り取りがあった物でしたが、現今社会では往々にしてこういう物でしょう。ナベサダさんは属七と副七の重要性を理解されておられるからこそ両者の部分を反故にしない訳です。


副和音とは何か

 扨て、属和音以外の全音階の和音群を「副和音」と言います。ここにコード種(メジャー/マイナー/オーギュメント/ディミニッシュetc.)は関係なく、属和音以外の和音を「総称」している所に「副和音」という特別な事情にて呼ばれる名称だという事がわかります。

 この「属和音・副和音」の関係が判ると、現今の音楽社会では、予見とやらが甚だしく見通す事のできる属和音→主和音という進行感の忌避(=暈滃)や、副和音の重畳しい活用或いは副和音もの暈滃という手法が大いに活用される事になっている訳です。特に調性を見渡す事が容易である属和音は避けられ副和音を活用するという事が重要でして、これは何も世俗音楽だけの事ではなく西洋音楽でも勿論調性感を背く例は幾らでもある訳ですが、器楽的な感性に未習熟な者が音を思弁的にしか捉えず(紙の上でしか実態を捉えようとしない)、言葉が実態とそぐわない為に肝心な音を体得せぬまま調性感覚すら無知蒙昧となってしまっていて、機能和声の和声感をもまともに体得していない人というのが余りにも多く存在してしまっている事に嘆息せざるを得ない現状なのであります。


 機能和声にて整備されている用例は非常に厳格な物です。而してそれが時には学び手にしてみれば、まるで物理や数学の様な一義的な物として他の解釈をも許さないかの様に理解してしまいがちですが、物理法則や数学のそれとは異なり音楽の「用例」に於て一義的な公式の様なものなど存在する方が却って少ない物なのです。

 処が「暗記」をする事が知識を多く掠め取る事ができるとばかりに暗記ばかりを是としてしまうのは音楽を学ぶにあたって好ましい物ではありません。音楽というのは「欺く」方面に殊更多数生まれるので、従順な音楽を「暗記」してしまっているだけでは欺いた方面の解釈に即断する事が難しくなり途端に知識の停滞を起こしてしまうのであります。

 基本をみっちりやって覚える事は勿論重要ですが、その「みっちり」は暗記の為にあるのではなく、咀嚼と反芻を重ねて、自身の耳と体で時間を数十倍に引き延ばして体得するのが音楽を学ぶ重要な事であるのです。自身が音楽に対して少なくとも5万時間程向き合った時には、時の流れよりも更に速く音楽的判断が可能になっている事でしょうし、そうした経験に裏打ちされた時でも、咀嚼と反芻を重ねて音楽を学ぶという事は重要なのであります。

 CDやレコードから流れて来る音楽の実時間と同様のリアルタイムの生活を満喫する事に安堵しているだけでは音楽的に習熟が足りぬと謂わざるを得ません。音楽の体得とはそういう物です。音楽の物理現象を科学的に分析するのであればそこには一義的な解は多く存在する事でしょうが、それを知る事と楽理面で整備されている体系のそれとは異なる分野の事であり、音楽の物理的側面での新たな発見に依って調性感すらひっくり返る様な事が起こる事は無いでしょう(笑)。

 そうした分野の一義的解釈の存在をそのまま器楽的方面に持って来てもスンナリとフィードバックされるという訳でもありません。自然倍音列だけに則った音楽ばかりが是認されてしまうのならば、あらゆる音にドミナント7thコードを纏わせれば良いのかというと、それをやったら愚の骨頂でしか無いでしょう。


ジャズにおける和音体系の整備

 では今一度シリンガーの話題にまで遡る事にしましょう。スクリャービンの楽派であったシリンガーがアメリカに亡命し、そこでシリンガーの薫陶を享けたニコラス・スロニムスキーがその後本格的にバークリーでのジャズ和音体系化を熟成させた訳であります。
 
 三全音を包含するタイプの和音はドミナント7thコード以外にもメジャー7thコードを基底とする♯11thや、マイナー7th、マイナー・メジャー7thコードを基底とする和音に於ても同様に根音と増十一度にて三全音を作る訳でして、マイナー7thコードに於て♯11thを附与する和音に関してはA・イーグルフィールド・ハル著『近代和声の説明と応用』に触れない限りはそうそうお目にかかる事はないでありましょう。また、三全音を含むという事が何もドミナント7thコードの特権ではないのでありまして、その上で和音を体系化したヒンデミット著『作曲の手引』巻末の和音規定表など大いに参考になる事でありましょう。


隣接しない整数比優位のジレンマ

 スクリャービン楽派に通底している事は、不協和音における「粉飾」であります。言わばこれはジャズ界ではオルタード・テンションを纏わせた属和音の体系の一つの側面と理解する事もできる訳ですが、「不協和」というのは何を以て不協和なのかというと、耳内で2音以上の音程に依る「震え」が著しい現象である事を「不協和」としている訳です。不協和な感覚に慣れてしまった物はこうした感覚に痴鈍化してしまった訳では決してありません(笑)。

 「不協和」を物理現象から鑑みると、協和関係にある様な低次の整数比(=隣接し合う簡単な整数比。1:2、2:3、3:4 etc.)とは異なり、簡単ではない整数同士の比率やまたは非整数次などに依って齎されている音程なので、それが「不協和」であるという風に定義されている物であります。

 実際の等分平均律に依る調律ならば整数比同士の協和関係を耳にする事の方が稀な現象でありますし、隣接し合う低次の整数比〈2:3〉は、隣接し合わない〈1:3〉に協和性では劣ります。これはオイラーが指摘している特殊な例でありますが、音楽の体系が築き上げた和声学の世界では〈2:3〉も〈1:3〉も同様に扱う(※低位の音がオクターヴ違いである事に注意)のが慣例ですし、西洋音楽を厳格に取扱った人でもこのオイラーの指摘を知る人はそう多くないのも現状ではあります。

 また、対位法の世界では完全十二度にて構築される対位法の体系があったりもします。今回それらを語るのはテーマにそぐわないので取扱いませんが、厳格な仕来りの西洋音楽界であっても科学方面からの指摘に背いたり、或いは別の体系では準えていたりするという、ある意味ではダブル・スタンダードな側面を垣間みる事は往々にしてある事です。

 簡単な整数比同士ではない比率とて「整数比」な訳ですから、厳密にはこうした音程比も「純正音程」な訳です。一部の調律の純正律とは異なる比率が生じていようが、整数比であればそれは「純正音程」なのであります。

 純正という事を調律以外の部分で耳にする事が少ないのに、それを字義から崇高に価値付けしてしまって純正律の世界をよもや辿り着かねばならない神秘的な世界の極致かの様に錯誤してしまっている人も居るので御目出度いとしか言いようがありませんが、ハリー・パーチなどはあらゆる純正音程を巧緻に整列させて、整列させた各音の音程は不等分であるものの、それを43音階として整列させたりしています。パーチの示したこうした純正音程の整列に依って最も眼前に明らかになるのは、我々が通常の音律で認識している協和/不協和という物がグラフィカルに明らかになっている訳であります。例えば、パーチは「一本足の花嫁」と称されるグラフィカルの図版を以て協和/不協和を示した訳です。

 そこであらためて気になるのは、その「一本足の花嫁」としてグラフィカルに例示しているそれが協和/不協和の強度を示す物としても、こうした図版が音楽的なイメージとはなかなか一致しないのでピンと来ないまま理解を等閑にしている人は少なくない事でしょう。「一本足の花嫁」が示している図版が「対称形」となっているのは、その図がオクターヴを半分に折り返している事を示している訳です。つまり、三全音音程(増四度/減五度)で折り返している訳で、完全五度に相当する曲線はピークが急に止む訳であります。
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 この様に協和/不協和を図形的な曲線で見ると、短二度というのは非常に不協和であるという事を示している事があらためて理解できる事でしょう。因みに短二度を微小音程的に「完全一度」の方へ少しずつ近寄らせた場合協和具合はどうなるかというと、調弦/調律と同じ現象が起きて来ます。つまり、音程が迫って寄り添ってくる為、うなりが段々少なくなって来て柔和になって来るのであります。それでうなりが消えれば完全一度というユニゾンが生ずる訳であります。短二度から100セントの旅をして来て音程という物をあらためて詳らかに調べると、短二度の「鋭さ」という物をあらためて実感する事でしょう。それくらい短二度は「不協和」だという事が判るのです。

 
短二度が長二度方面へ微小音程的に拡大する時も、完全一度と比してそのうなりの消失具合は雲泥の差がありますが、うなり自体は遅くなるので不協和度は若干弱まる、という事です。

 こうして《協和/不協和》を語る事で、ついつい体系に甘んじてしまい易い我々はあらためて音楽の始原性の重要性に気付かされる事など多々あります。概して体系は通底している根幹を暈してしまいがちであります。そこであらためてジャズ/ポピュラー音楽界隈が整備したコード表記を例に語ってみましょう。

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