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NHK-FM『テクニカル・ギタリスト三昧』に思う [飛び道具]

 来る2017年7月17日に、NHK-FMにて『テクニカル・ギタリスト三昧』なる企画が登場するとの事。思えば茲四半世紀ほどの間の私は、ギター・プレイを追究する様なジャンルやプレイヤーを追う事は少なくなり、旧知のアーティストを追いかけるばかりで新たなアーティストの情報にアクセスする事すら疎くなっております。


IMG_3659.JPG 「テクニカル・ギタリスト」なる括りである為、私もギター・マガジンなどを振り返りつつ、そういえば80年代後半にギター・マガジンが通巻100号となる節目の号が手許にあるのを思い出し、振り返れば今から丁度30年前の1987年との事。私は新しいギター・マガジンほど処分してしまっているので古い号ほど遺しているのでありますが、30年(若しくはそれ以上)経過した号を読み返す事などよっぽどの機会ではない限り目を通さないので、こうした機会に目を通してみるとあらためて懐かしさと共に、己が齢を重ねた事を実感させて呉れるというモノです(笑)。

 先のギター・マガジンの通巻100号は1987年5月号。Twitterでも呟いておりましたが、この号が刊行された2ヶ月後位に私は中野サンプラザにて渡辺香津美、Bill Bruford、Jeff Berlinのレーザー・ディスクにもなった「Spice of Life」のライヴを観た事を同時に思い出し、ギター・マガジンを能々読んでみたらコンサート告知の広告が打たれておりました。この時のライヴにて、私のシモテ(左側)5席位の所にCharさんが鑑賞されていたので記憶に鮮明に残っております。

 渡辺香津美率いるバンド・アンサンブルはトリオ編成でありまして、PAは結構な音量で圧倒されていたのですが、更に驚いたのが、そんな消魂しい音量から聴こえてくる香津美さんのPRSのギターの生のピッキング音。これには相当驚かされた物です。

 ジェフ・バーリンもHi-Aピックアップ搭載の例のPBとミニムーグを弾いていたのでありましたが、右手のダッピングでダブル・ストップをする時、左手の押弦に加えてタッピングの押弦で用いていない右手の薬指と小指で弦をピッキングしていた事を思い出します。ジェフ・バーリンのソロ・アルバム『Champion』収録の「Dixie」は斯様なプレイにて繰り広げられているのだと、視覚的な情報にて大いに勉強になった物です。


 話を戻して、通巻100号では生前のザッパの巻頭インタビュー、ジョン・エサリッジの特集(!!)、渡辺香津美のJ・F・Kのスコア、そして表紙は鮎川誠、布袋寅泰、Charさんという三人の鼎談や、布袋寅泰のBOΦWYでのライヴ・エクィップメント紹介など多岐に亙っている物で、手広く載せていた所はやはり記念号という事もあってか、そんな力瘤が蓄えられた情報にはあらためて「これぞギター専門誌!」と思わせる充実した内容であった事を再確認できた物であります。NHK-FM三昧シリーズが良いキッカケとなって昔を追懐させてくれた訳でありますね。大概の雑誌の情報など、10年もすると相当錆び付いてしまう様な物が多い中で、30年前の記事でもグイグイ読ませてくれる情報に、当時如何に編集者が力を込めていたのかという事を痛感させてくれます。


 70〜80年代というと現今社会とは異なり、インターネットの情報などは無い時代であります。勿論、PC-9801界隈にて繰り広げられるパソコン通信とやらはありましたが、そうした環境が万人にとってシームレスだったのかというと全く異なり敷居の高い物であり、情報を探求するという方面を追究するならば、アマチュア無線やハム無線、こうした所に興味を抱く人がパソコンにも手を広げている様な印象だったのが当時の私の世界観。そして私個人の環境を振り返るならば、Nortator欲しさにATARI 1040STを手に入れ、直後不調に陥った1040STからMacintosh Ⅱciに鞍替えというプロセスでパソコンの世界に踏み込んだ物であり、それらのハードウェアの導入はシーケンサーや楽譜編集、MIDI管理を集中的に行なう事に注力していた物であったのでネットには全く関心が無かったのであります。

 当時をリアルタイムに生きていた身からすれば、当時の社会がそれほど情報に欠乏していたとは思えず寧ろ「情報過多の時代」などとも云われていた位でありました。但し、チョットした疑問を抱いてそれをググれば殆どが解決してしまう様な現今社会と比して当時は矢張り情報黎明期であった事を匂わせるのか、謬見や偏見が今よりも強く蔓延り「都市伝説化」する傾向は強かったと思います。然し乍らその都市伝説は、一人の強大なるインフルエンサーが瀰漫させるのではなく、一般大衆の「共通認識」として都市伝説としての謬見が蔓延ってしまう側面があったかと思います。皆が思い浮かべている共通認識が成否は兎も角、是認される傾向が強いという時代です。


 そんな嘗ての時代、音楽という物はMTVともリンクされる様にはなった物ですが楽器のテクニカルな面に於ける情報という物はクローズアップされている物は極端に少なく、自身が得たいという情報に必ずしも遭遇出来る事など稀でした。加えて、器楽的な情報を得る為に聴覚だけに頼らず、視覚からの豊かな情報に依って情報量は飛躍的に増大する事を実感してはいても、肝心の情報を視覚的に得られない事など日常茶飯事というのが実際。そういう意味では雑誌という「静止画」から多くの情報を吸収せんとばかりに、現在の視覚的な情報の捉え方よりも注視していたかもしれません。特に器楽的経験が浅かったり自身の体得の埒外にある様なプレイは視覚情報は多大なる貢献を与えてくれる物です。


 これらの様な時代を経て現今社会を鑑みると、情報が氾濫していたと思っていたバブル期位の頃ですら情報黎明期と呼べるに相応しい位に情報に欠乏している事に対し、現今社会では容易に情報にアクセスが可能となっている物の、真相を捉えていない皮相的理解に陥っている事を思うと、一体どちらが良いのかともあらためて思わせる事頻り。


 私にとってのHR/HMというのはディープ・パープルから始まっている様なモノなのですが、その後KISS、スコーピオンズという所に触発された物でありましょうか。ウリ・ジョン・ロートに依るフリジアン・ドミナントの速弾きプレイの「カロンの渡し守」は特筆すべきプレイであり、その後に5弦開放を駆使したマイケル・シェンカーに依る「キャプテン・ネモ」のプレイは、ライヴ盤であるのに多くのギター小僧を魅了した事でしょう。その後、ランディー・ローズに依る「ヒロシマ・モナムール」に魅了され、やって来ましたイングヴェイ・マルムスティーン。スティーヴ・ヴァイ、ポール・ギルバートもこういう時代を生きて来ている人達でありますが、比較的礼節のあるギタリストの2人でありましょう。そうしてジョー・サトリアーニが脚光を浴びる頃というのは、先のギター・マガジンの頃辺りですな。ストーンズの来日公演のサポート・ギタリストにジョー・サトリアーニが迎えられた事におかんむりだった人々はまあ数多かったモノで、それに対する愚痴など枚挙に暇がありませんでした(笑)。


 とまあ、私も通り一遍とまでは言いませんが、一応皮相的乍らもHR/HMのさわり程度は耳にして来たものでありまして、意外にもこうしたギタリスト達に依る名曲の中には、コードの構造で言うとオン・コードだったりワン・コードや移旋を駆使している曲が多いのにも拘らず、肝心のギター小僧達の音楽的素養の少なさと来たらホントに目も当てられない程に暗いモノでありました(笑)。そこまで好きなのにも拘らずなんでそんなに無智なの!? といわんばかり。

 ディープ・パープルの「スモコン(=Smoke on the Water)」だって、判ってはいるかとは思いますが、オン・コードの代表と言っても過言ではないでしょう。とはいえギター小僧を魅了するフレージングというのは、それまであまり聴いた事もない様なフレージングであり、それは概ね大きな音程差=leap と共に構築されるフレージングであります。

 運指の側面から見ればフレージングというのは下行形の方が速く奏する事が可能であります。指の物理的な運動特性からすれば至極当然でもありますし、その構造に逆らえない側面も持合わせた上で出来上がるフレージングという運指のジグザグをどの様にして卑近に聴こえさせない様にするか!? という所が概ね卑近・非凡の分水嶺となっている処でもあります。

 ベースにしてみても、4フレットのワイド・ストレッチはジャコ・パストリアス、5フレットのワイド・ストレッチとなるとスタンリー・クラークの代名詞ともなる運指の活用例がみられる様に、ギターという物は異弦同音を活用する事で多彩なフレージングが生まれる事を実感させてくれたのは他でもなくアラン・ホールズワースの存在を挙げない訳にはいかないでしょう。

 亦、1〜3弦辺りを使って2度音程の分散を用いれば運指の方は自ずとワイド・ストレッチとなる訳ですが、こうした点を逆手に取った順次進行と跳躍進行を巧みに用いた速弾きフレーズがスウィープ・ピッキングの到来となっていく訳でありますね。茲にはジョージ・ベンソンとフランク・ギャンバレの名を挙げなければなりませんが、フランク・ギャンバレの名が知られる様になる前は渡辺香津美もかなりのスウィープ・ピッキングを多用するギタリストでありました。アルバム『Mobo』収録の「All Beets Are Coming」の長尺ギター・ソロは一聴の価値があります。


 基本的に音程という物は、順次進行=step(2度音程)、跳躍進行=skip(3度以上の音程)の音程を指すのでありますが、ヤン・ラルーは特に、大きな音程跳躍(概ね5度以上)の音程跳躍を=leap という風に自著『スタイル・アナリシス』第1巻で述べているのでありまして、私が述べている「leap」という物もそれに準えた物です。正直な所、増八度以上の音程跳躍などは完全なる leap である訳でありますね。


 ベースのスラップ・ソロを鑑みても、サムピングとプルが概して「完全八度」である事で大胆な跳躍進行を基にするフレージングが可能であり、そこで開放弦を用い乍ら完全15度やらを駆使する事でクラビネットの様な音程跳躍の激しいフレージングを活用して繰り広げられる様になります。或る意味ではデヴィッド・サンボーンのスタジオ・ライヴ盤である『Straight To The Heart』収録の「Run For Cover」でのマーカス・ミラーのスラップ・ソロは完全15度よりも広い leap の活用と、開放弦に対してハンマリングの装飾を施して leap に揺さぶりをかける(E弦0フレットからの5・7フレットのハンマリング・オンなど)は、先述のマイケル・シェンカーの「キャプテン・ネモ」にも通ずる物がある運指であります。


 無論ベースの分野でも、そうした音程跳躍に富んだフレージングに聴き慣れてしまうと、音程差が比較的狭い中でベースの運指が音程が広い時の運指を活用するフレージングなども生じて来たりします。異弦同音でサムピングとプルを使い分けたり、或いは同弦同音でサムピングとプルを使い分けたりするのもマーカス・ミラーはルーサー・ヴァンドロスの「See Me」にて創出したいたりしておりました。

 スタンリー・ジョーダンの両手タッピングやジェフ・ワトソンの8フィンガー奏法などが視野に入ると、ギター指板は一気に見通しが大きく開かれ、まるでチャップマン・スティックでの異弦同音を見るかの様な見渡しが出来る様になります。但し、ギタリストは弦の「濃音」を嫌う人が少なくないのか、低音弦の高フレットでの音の飽和感に伴う「圧」を忌避して、異弦との音質差を嫌う人も少なくありません。寧ろチャップマン・スティックではこの音質差はとても武器になるのでありますが、ギターの方面だと少々勝手が異なる様です。

 ザ・スクェア(T-Square)のギタリスト安藤まさひろはライヴMCでも「地蔵ギター」などと揶揄される程ステージ上では動かないギタリストでもありましたが、それが後年になるとジェフ・ワトソンの様に8フィンガーを駆使したりする様にもなったのが驚きですが、この頃になるとF1で使われた「Truth」にて、極めて主音と属音の位置が明確で調性の見渡しが卑近な曲が、フュージョン系統のレイト・フォロワー達にウケに受けてしまった事に大いなる反省点もあるのでしょうが、聴衆というのは実に残酷な面も見せる物であります。

 高速フレーズにしても、やたらと流麗に弾きこなせる人が単純なトリルやトレモロが苦手だったりする人も少なくはなく、これは西洋音楽での弦楽器奏者とて同様のコンプレックスを抱く人もおりまして、運指に伴う物理的な問題はジャンルを問わずして同じ様に存在する物であります。

 こうした変遷を辿るとギターやベースを問わずして、聴き手となる「小僧」達が非凡なフレーズを体得して耳慣れてしまった時に非凡だったフレーズは卑近な物に変容し、方法論が確立されるかの様にして耳慣れて来ると聴衆は食い付かなくなり、時にはサーカス・プレイを要求する様にもなっているという連鎖を見出す事も出来る訳です。こうした負の連鎖の過程で目を瞠るべきフレージングや方法論は創出されている筈なのですが、熟考された非凡な運指に伴うフレーズが卑近であると埋没してしまう物でもあり、聴衆の冷徹なまでの飽きの早さという物は高速フレーズよりも早いと謂えるでしょう。


 飽きの早い連中がテクニカル・フレーズを堪能するのか。それとも楽理的側面に未だ気付かぬ凡庸な者がテクニカル・フレーズを議論するのか。私にはどちらも不要な連中に依る選定に過ぎない事でしょう。負の側面に気付きつつ、テクニックという物を如何にして議論・分析できるかに依って番組への評価は丸っきり異なる物となるでしょう。無論、多くの潮流は前述の「不要な連中」のマジョリティが圧倒的である事に異論を唱える事はしませんが、衰退しか招かないこの手のマジョリティを優先する様であれば番組も衰退する事になるという事を念頭に置いておかなくてはならないのではないのでしょうか。今後の三昧シリーズにおいても重要な布石となる事でありましょう。この番組のスタンスで以後も透けて見えて来る事でしょう。

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