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枯れたる骨(不毛なオッサ)から学ぶもの [楽理]

 扨て、今回は近親的な調性への情感を一時拝借するかのような、元の調性では得られない調性外の音を巧みに使う例を挙げ乍ら、そうした調性外の音への魅力を原点から見つめてみるのも面白いのではないか!?という視点に立って語って行こうと思います。



 いわゆる近親的な調性の情感を拝借するという技法を繙くと、その調的な関係は五度圏で見ると隣接し合っていたり、五度の累積としてその累積回数が少ないタイプに収まるモノが多いものでして、ハ長調とト長調は五度圏の関係で見れば「隣接」し合う関係の調であり、ヘ長調とト長調は五度圏において五度の累積回数が2回で済むタイプの調的関係にあります。


 何を今更、と思われるかもしれませんが、調性外の音を呼び込むという事はとても重要な音楽的な味付けだと思われまして、私は特にダイナミックに転調をするのではない一時的な経過だけで調性外の音を使って「いけしゃあしゃあ」とやり過ごすそれを「調性の嘯き」と表現したりしますが、いけしゃあしゃあという言葉そのものにネガティヴな意味合いを持ってしまうかもしれませんが、音楽があまりに可愛く、小憎たらしいからこそついつい使いたくなる「いけしゃあしゃあ」であり、

 「調性の嘯きなど感覚的に判っちゃいるんだけど、まーた物の見事に騙されちった!!」


 とでも形容したくなる様な、音楽への可愛さを表現したのが「いけしゃあしゃあ」でありまして、小動物が時折見せる「頭隠して尻隠さず」という行動が愛おしく見えるのと同様に、音楽的な調性の嘯きというそれも、時にはバレバレでベッタベタのベタな感じすら受ける時もあるんですが、ついつい目を細めてしまうような「調性の嘯き」など結構色んな所に潜んでいたりするモノであります。


 そうした調性の嘯き方はいくつも方法論があるワケですが、次の様な例は、前回引き合いに出したブルースの音のそれとは違う音の表れでありまして、主音から見た音程的な位置は同じ所に変化が起こっていても、母体となる和声的な背景は異なりますし、今回の例は古い西洋音楽の歴史の中で「8つ目の階名」として組み入れられようとした音でもあるモノですね。
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 人はアカデミックな音楽教育を受けたワケでもないのに、こうしたシューベルトの「野ばら」の譜例5小節目に見られる「旋法の変化」を忌避するのではなく、受け止めて楽音を吟味します。調性という仕来りを学んだ者からすれば「異端」の始まりであり、調性外の音への邂逅となる楽曲の遭遇とでも言える例なのではないかと思います。


 音楽的な仕来りを学べば学ぶ程、この様な調性外の音というのは転調と呼ぶには仰々しくなく一時的な音の変化に過ぎず、「野ばら」5小節目に現れるD音からA音までの下行音形は、A音までの「滑り」をよくさせる為にC#音という調性外の半音を与えられて「滑り」をよくさせられ、重心はA音に向けられているワケです。和声的に音を稼ぐとするならば上声部にGメジャー・トライアド下声部にAメジャー・トライアドを与えてもハマるという、つまりGから見たナチュラル11thを包含している11thコードの形でもある「G△/A△」という、これを属和音のドミナント・モーションの解決先の音の先取りという風には形容してはいけない、先取りでもなんでもない、A音への傾斜の為にあった接続先を共有するだけの「D音」のさりげなさが、11thコードの在り方というのを知らしめるための物として知らしめる好例と呼ぶ事ができると思うのであります。

 もちろんシューベルトの「野ばら」の当該部分の和声は須く「G△/A△」という事を言わんとするのではなく本来は「A△」ではありますが、5小節目当該部分を現在の形式にそぐう様に和声を与えた場合、属和音がナチュラル11thを包含する事というのは一般的にアヴォイド・ノートの包含なので和声的には忌避される物として知られているにしても、それが許容されるシーンの到来など古典的なシューベルトの作品にすら存在する、という事をあらためて理解していただくと現在の音楽の和声感覚というのは、そうした古い音楽の中からにもヒントが隠されているという事を言いたいワケです。

 先の例では、A△という背景の和声に対してメロディはD音が与えられています。このD音は元の調性のト長調が有していた5th音の名残りであり、G△という響きが記憶としてこびりついて居る所に調性外のA△が表れ、実際にはA△上で明確にG△の響きが存在しませんが、現在の音楽シーンでこれと似た状況を考えると、11thコードに相応しい音になるという事を述べているワケです。単純にモード・チェンジという旋法の変化が訪れるだけでなく、調性とやらを強固に感じ取る事ができる音楽にも拘らず、調性の逡巡をさらりとしのばせる所が絶妙なワケです。


 しかも背景にあるA△という和音の出現に属七の体を求めるワケでもなく、属七という体を態と殺してA△という和音に対してD音をド頭から与えるというのが実に心憎いモノであります。


 ト長調の世界が有していた強固なトニック=G△という調性感を強固に示す音への記憶と、そこに身を委ねたくなる様なメロディの揺さぶりが調性感をさらに強く押し出すもので、単なる記憶が「固執」に代わり、その「固執」は予想外の音の訪れに依って新たな彩りとして「G△/A△」をさりげなく見せられるのであります。

 こうした音の到来を、Asus4からの断片だと片付けてしまう愚か者は居ないでありましょう(笑)。母体の和音から見た時のナチュラル11th音はトニックから見れば「ファ」の音に相当し、属和音から見れば解決先の「ド」の音を先取りしている音ではあるものの、使い方次第でこうも和音は表情を変えてくれるワケです。通常の枠組みならば「アヴォイド・ノート」として教わる音がごく普通に存在する事実にすら忘却の彼方へ葬ると、ハイパーな音という音への理解など無秩序に和声に音を集積させる事という風に捉えてしまう愚か者を増やすだけにしかならないのでありますね。


 元々の調性の範疇で見ると先の増四度の音の訪れは、隣接する調域(ト長調から見たニ長調)を呼び込んだ結果でありまして、前回の私のブログは短調をベースにした方からの「ブルースな音」の出現の一例を語っていたものでありまして、短調をベースとする調域は隣接し合う調域の呼び込みというよりも、九度の音程関係にある調域の呼び込みの方が「増四度」の音の到来を即座に呼び込めるようでもあります。


 例えばイ短調(=Am)に於いてAドリアンを当て嵌めて弾くとしましょう(調性を嘯く)。ジャズ・シーンではマイナーを嘯くこの技法、モード奏法を習得する上で初歩的な常套手段のひとつでもあります。ところがマイナーをドリアンで充てるというのは、ブルースな音の発生ではなく六度の音を和らげる事にあるため、元の調域から見た増四度音の発生を呼び起こすにはまた別のアプローチを伴います。


 Aマイナー・キーにおいてAドリアンを充てる際のよくあるコード進行としては「Am7 -> D7」や「Am7 -> Am7 (on D)」や「Am7 -> CM7(on D)」や「Am7 -> CM7aug(on D)」という体系に大抵は収束すると思われますが、Aドリアンというのはそれらの「Am7」部分だけの事であり、他のコードのモード・スケールは更に異なるモード・スケールへ変貌を遂げる事など珍しくもありません。ツー・ファイヴ進行をIに帰結させぬ延々と繰り返すこのようなコード進行は、耳馴染む四度進行に聴衆の耳を「固執」させておいてコード毎に変わるモード想起によって聴衆の「固執」と「新鮮味」をくすぐる事でメリハリを演出しているワケですね。

 これらのコード進行で「固執」を巧く演出しているのは四度進行という強固な体系を利用している事ですが、話を戻してイ短調において増四度の発生「D#=E♭音」の呼び込みをスムーズに行う事を前提に考えた場合、先の「体系」を巧く利用し乍ら別のコード進行を用いるのもひとつの手段だと思われるワケです。

 例えば「Am7 -> F7」とした場合、F7で生じる7th音でAmキーにおける「D#=E♭音」を演出しているのですが、ここでのF7というのはB♭7やE7に脈絡を作る為のドミナント7thコードとしてではなく、「体系を維持」させる為に便宜的に用いられる類のドミナント7thの配置なのであります。


 チック・コリアを例に取ると、チック・コリア・エレクトリック・バンドの2ndアルバム「Light Years」収録の「Flamingo」の冒頭の例など好例ですが、「フラミンゴ」の方ではDmキーに於いて「Dm7 -> B♭7(on G)」と進行します。これは先のAマイナー・キーの例として移調すれば「Am7 -> F7(on D)」と進行させた事と変わりないモノなのであります。


 過去の私が「Flamingo」を語った事でも述べましたが、ドミナント7thコードの短三度下にさらに最低音を与えるという事は別のコードなのではないか!?という疑問を抱く人に対する回答でしたね。


 移調後のイ短調の世界に於いての「F7 (on D)」というコードは、あたかもDm7に短九度の音が付随された様な音とも認知されるので、通常マイナー・コード上ではイ短調の調域ならば、Dm9は許されてもEmの所では長九度音はアヴォイドとなるため、そのような、マイナー・コードを母体とするコード体系で短九度方面の音を忌憚なく用いるのはどうなのよ!?という疑問を抱く人が必ずしや存在するであろうという反駁の為に説明をしていた過去の私の記事をもう一度読み返していただけると助かるのですが、五声の依る和音で見かけ上四声体のマイナー7thコード上に短九度の音が形成される和音というのは、和音の古い歴史からも「中音の九の和音」という風に体系化されておりまして、こういう所を知らずに、見てくれだけのジャズ&ポピュラー界隈のお兄ちゃん達が必死こいてやいのやいの言っても無駄なんですね。やいのやいの騒ぎ立てるのはてめえの無知なアタマの方へ向けろ!と言ってやりたいモノですわ(笑)。
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 中音の九の和音というのは、今回の例にも出しているようにF.リストの「枯れたる骨(不毛なオッサ)」でのホの旋法の総和音の断片とも言えるでありましょう。赤い部分がすなわち中音の九を示しているワケですね。
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 譜例での1の和音はイ短調における「F7」であり、2の例は「F7 (on D)」という和音。そして3の例は赤色で示しているのが中音の九の和音。つまりこれは先の例の2の移調した物とかわりなく、さらに3度を累積させると「不毛なオッサ」と同様の総和音を生ずるという事を示しているワケです。


 すると、ホの総和音というのはハ長調/イ短調の調域で生じている和音であるワケですから、本来イ短調の世界観に於いて「D#=E♭音」の出現を近道にして調性外の和音を導入して呼び込んだ結果「F7 (on D)」という和音を生じさせたという事は、「変ロ長調/ト短調」の調域で生ずる中音の九の和音を導入した事に等しいワケですね。


 つまるところ、短調をベースにした時の増四度の呼び込みは、五度の累積+五度の累積=九度という調域を導入して呼び込まれた音のひとつの例だという事が今回お判りになっていただけるかと思うワケですな。そうすると、長調をベースとした時の増四度の呼び込みとは亦別のアプローチだという事が判ります。

 五度圏で隣接するか否かという側面は、教会旋法の正格旋法と変格旋法がなぜ五度違いになっているのか!?という事に加え、それら(正格と変格)が「嘯き」として作用する音程関係と、上方に存在する高次な倍音への音程にはどのような音程の重畳や累積から得られるものなのか!?という所に多くのヒントが集約されているワケですが、長音階を基本とする世界では、調性外の音は倍音への牽引力も頼りに隣接した調域に依って作用しやすく、短調では隣接した調域がそのように反映されない所に多大なる発展が隠されていたのである事に疑いの余地はないでしょう。


 抑も、増四度という音が発生するには長調と短調に於いて夫々状況が異なる所に端を発しているワケですが、長調の世界に於いて一時的にも他の調性感の拝借によって増四度の音を得るには、隣接する調域然も上方倍音列に則った形でその牽引力も下支えとなるという、ハ長調を基本とするならばト長調の情感を一時拝借するだけでハ長調に於ける主音からの増四度の音を得られるワケですが、ハ長調の平行短調であるイ短調の主音から見た増四度であるD#=E♭音を得るには状況が異なるワケですね。

 長調の場合だと旋法を僅かに変化させるだけで共有する音の多い隣接する調性を拝借する事で上方倍音列の高次倍音にも相当する音へのアクセスが容易なものとなりますが、短調を基本とする調性外の音というのは五度の共鳴や上方の倍音由来ではない脈絡から音を発展させるしか手はないのであります。その上で短調を基とする世界の枠組みでは三度累積にしても上方倍音列に倣う形に沿って三度累積が上方にされるのではなく、さらに下方へノン・ダイアトニックな方面に根音バスを逃げ水の様に見立てて音を探るかのように発展を遂げて行くのが短音階での独特の変化音の到来で、そうした過程を経て多様な音を生んだのだと理解が及ぶと音楽が更に面白くなるのではないかと思うワケです。


 総和音というのは、ある音の仕来りの中に於いて生ずる音を全て鳴らしたモノであり、全音階(=ダイアトニック)の和音とも称されます。通常の音世界では7音で音世界は構築されているので7音を全て使った総和音というのが和音の総合としてはよく知られていますが、全音音階の総和音やオーギュメンテッド・スケールの総和音だってありますし、それらはある調性の断片同士の複調や多調という見立てをする事もあります。また7音を超える総合も存在します。

 総和音というのはダイアトニックな仕来りからすると、調性内の音は全て埋めつくされている為トニックやドミナントだと行き場を失っている様なモノなので、総和音としての姿は概ねサブドミナントの時に姿を表したりするワケですが、「枯れたる骨(不毛なオッサ)」の場合は明らかに違うワケですね。トニックもサブドミナントもドミナントも一緒の状況が総和音とも呼べる状況なのではありますが、聴かせ方次第で音楽というものはまるで様相が変わるものでして、属七の体を包含してしまう類の11thコードにしてみたって聴かせ方ひとつで、ピーター・ゲイブリエルの「I Have The Touch」の様にも聴こえさせられますし、YMOの「Perspective」の一番最後の部分も同様ですし、松原正樹の「Been」もやはり同様なのであります。

 属七の体をそもそもドミナントとして使っていない所がミソでありまして、Key=in GだけどGミクソリディアンを充てて使う状況で和声的にF△/G△を使っているような状況とも言えるのであります(必ずしも六声である必要はないのですが)。

 そうした状況の存在を考えると、音楽というのは表情が曖昧なシーンに於いて聴き手がトニックやサブドミナントやドミナント感を決め付ける必要はなく、作者が演出している世界をそのまま受け止める事が重要な理解であるという事が言えると思います。耳が習熟されていなければ、音を聴く前に聴き慣れた形が脳内で捕捉されてしまいなかなか見えて来ない場合もあるでしょう。長七の和音の情感が掴めずにいつまで経っても主音と長七が作り出すうなりに邪魔をされて和声の美しさに気付かない人の耳が肥えきっていない状況とも似たモノがあって、感性に乏しい感覚でしかない時というのは得てして理解が及ばぬモノです。それでもガマンして取り組まなければ決して感性として身に付かないのも亦事実なのであるのが心憎い所です。和声を使いこなすという人はこういう状況を乗り越えているのだという事を理解し乍ら、まずは少なくともまともな仕来りの方面での響きを熟考して体得しない限り次はないのでありますね。

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