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2014年度私的音楽関連図書ランキング (2) [書評]

 扨て、前記事は私的音楽関連図書ランキングの10位〜4位までを紹介したので、続きを語っていくことに。


fav-book2014-003.JPGヘルマン・フォン・ヘルムホルツ著 『音感覚論』 星雲社刊

 音響心理学者ヘルムホルツの名は器楽的な心得が無くとも一度は耳にした事があるかもしれない──近年ではダイソンのCMでもヘルムホルツの名から取られた名称が語られた──その有名な名前は、日本国内では純正調オルガンの祖である田中正平博士が師事していた事もあって所縁のある人物であり、2014年暮れにも京都にて純正調オルガンのニュースがあったばかりなので記憶に新しい所であります。

 まあ、純正律と純正調というのは単なる名称の違いだけではなく、実際には「違い」があるのですが、それは以前にも私がブログで述べている事なので改めて語ることはしませんが、ヘルムホルツは特に「結合差音」を発見した事でも広く知られている訳で、特に結合差音と楽音の関わり合いを詳細に語ったヒンデミットの『作曲の手引』の存在を無視する事ができない程重要な音響的な側面であるのです。

 処がこの差音をなぜか「虚構」だと考えてしまう人も少なくはなく、特にフーゴー・リーマンの「下方倍音列」のそれは実像ではない虚像の世界ですからリーマンのそれと一緒にして、本来なら聞き取る事が可能な差音自体をも「虚構」として断罪してしまう皮相浅薄な理解にとどまる人が少なくないのも是亦悲しい哉事実なのであります。

 扨て、これまでヘルムホルツの大著『On the Sensation of Tone』は和訳される事なく時は150年ほど経過しているのでありますが、その150年という鹿鳴館の時代をも思い起こさせる程昔の時代の音響的な科学など、楽理的側面に疎い者ほど150年という数字的には古さを感じさせるそれを甘く捉えてしまい、科学は最先端こそが総て!と思い込んでいる人も少なくありません。しかし、音楽というのは進化はしているものの、新たな発見の探求の為に存在するのではなく、寧ろ過去の体系を利用し乍ら新しさを僅かに加えていく様なものであり、音楽史に登場する音楽的な先端性を具備した音楽も、過去の体系への啓蒙は決して失われてはおりませんでした。

 そんな訳で、ヘルムホルツの論は現今社会に於てもまだまだ新鮮味がある程奥深く、その大著が今回和訳され『音感覚論』として上梓された訳ですから、これは大変有難い事なのであります。ヘルムホルツに依拠する音楽書は少なくありません。伊福部昭著『管絃楽法』としてそうですし、某かの影響はあってもおかしくない程広汎に亘る内容であるのです。その内容に関しては今更取り上げる必要も無いでしょう。

 惜しむらくは完訳ではない所。私の所有するのは英訳『On the Sensation of Tone』Dover刊のみですが、和訳はAppendix XIXまで。つまりAppendix XX(20)以降の英訳文130頁数超は割愛されているのが残念なのです。この部分は多くの音律の詳らかな表や計算式および時代毎のピッチの差異など非常に精緻な対応表があるのですが、その部分が割愛されているのは残念。この英訳130頁数でも補足するとなると『音感覚論』の2/5位の書量を更に追加する程の文書量だと思うので、この辺りは頑張って貰い度い所。無論、これには理由があり「原著」の訳を充たしている物で、現在広く知られている物はその後にアレクサンダー・J・エリスが「翻訳者の付録」として先の充たされていないとする訳が付されている事を前提の上で「全訳ではない」と敢えて表現しているので誤解なき様ご理解の程を。




fav-book2014-002.JPG蔵本由紀著 『非線形科学 同期する世界』 集英社新書

 本当は1位にしたかったのですが、その1位に相応しい音楽関連図書がその後上梓されたのでこの順位になったのあります。

 本書は「平均場」つまり平均場近似という、秩序がなさそうな所に均齊という整列が発生してしまうような自然的な現象を多くの実例を挙げているのです。ホタルの光や虫の鳴き声、停電は伝送に伴う位相の乱れで起こるとか、何本ものロウソクの炎が同期し合う現象など、そうした現象の不思議を語っているのですが、ある程度音楽の楽理的考察が可能な方ならこれらの「秩序」を音楽に於て「なぜ」起こっているのか、という事を深く首肯させられる物ばかり取り上げられており、大変興味深い内容になっております。

 特に私が高く評価したいのがパイプオルガンの項。詳述は避けますが逆相同期という点が大変興味深い所なのでありまして、それは普通に考えれば音が逆相で同期するという事は打ち消し合う事になります。

 なぜそれが起こるのか!?という事を考えると、例えば我々は声で合唱をしようとするとうなりの少ない音をほぼ無意識に目指して歌おうとするのです。これは音程面で見た秩序ですが、リズムで見た場合、強勢を感じ乍ら弱勢となる「真裏」の律動をも意識する事があるかもしれない。しかし「発声」に伴って逆相の声を出す事は無理ですが、音波レベルからするとその逆相を因果関係にするという事実があるという事が驚きな訳であります。

 喩えるなら、波動の「山」を「オモテ」とするなら「谷」は「ウラ」となる。これが人間の様に「意識」がなくとも発生するのは、これこそが意識や霊的とも呼ばれる一因なのかとも思わせる事しきり。また、秩序的な世界の現れとともに逆相が自然的に発生するそれは、音楽が軈て二元的な長・短、明・暗、陰・陽というような対比の構造を利用して構築される隠喩でもあるのだなとつくづく感じさせられるのでありまして実に興味深かった本であります。音の均齊化にも考察の応用が可能であります。特に12音ではなく微分音も視野に入れた構造で。ややもすると不等分な構造にも「真裏」を見つけて新たな考察が必要になるのではと感ずる位です。




fav-book2014-001.JPG西尾洋著 『応用楽典 楽譜の向こう側』 音楽之友社刊


 私自身音楽関連の図書は、殊に音楽理論方面の物になると多数有しているのでありますが、同じ様なテーマを違う人が取扱うからこそ興味深さというものは増すものです。音楽というのは決して、1つの物を1つの解釈で済ませるという事は回避すべきであろうかと思います。というのも、己の見立てが唯一無二で絶対なのであれば構いませんが、そこに何の迷いもなく社会的認知もそれに追従する様な物でしょうか!?おそらくそうした事はあり得ません。ですから、今あらためて楽典を識る事に食傷気味の人も居られるかもしれませんが、なぜ此処で亦新たに出て来る必要があるのか!?という価値がある物だから世に出て来る訳でありますね。

 扨て、現今社会に於て音楽の理解とは各人色々な個人的な思い入れがあると思いますし、それを許容してくれます。しかし古代の社会では、音楽というジャンルの解釈というのは様々な葛藤を経てそれに準ずる(時には殉ずる)事が肝要だったのであります。それに逆らえば、一派から離脱するどころか国家に背くこととなり国から追放された訳です。先述したように、古代ギリシャでは楽器を奏する人と作曲する人の地位は前者の方が高い物でした。音楽のフレーズというものはそれが「オリジナル」なものであったとしても何らかの体系に括られる。それは神が既知の物として肉体を伝わって報せて呉れた物であると解釈されていた訳です。

 まあ、その世界感が「真に」崩壊するのはジョン・ケージの到来が無ければ起こらなかったとも謂われております。何故なら、本当に神から与えられている物ならば、大自然の現象が「音楽」を生む事だってあり得るのではないか?「音」という物を人間が神から使わされているものであるなら、自然の音をそのまま使って聴く事は音楽ではないのか?「4分33秒」とはそういう事をも意味する訳です。「0分00秒」というのもあるんですけどね(笑)。

 つまり、自然現象が音楽を生まない事で人間はようやく「作曲者」としての地位を手に入れたと言っても過言ではなかったのですが、だからといってこれ迄の調性社会に従順である事から生じた世界感すら否定しようとする物ではなく、過去の体系が作り上げた様式美を利用し乍ら音楽は成立しているという事もまた事実な訳でして、私が先頃から哲学的な方面からも語っていたのは、そうした音楽の大系が「音楽修辞学」という側面から構築されているという事を詳らかに語っているのが本書の非常に素晴しい所であるのです。

 私のこのブログ記事を読んで呉れている人の中にどれだけ、リズムに雌雄関係がある事を知っている人が居られるでしょうか!?勿論その雌雄関係というのは、あるリズムを聴けば物事も知らぬ赤ん坊とて「男女の差異を感ずる」という物では無く(笑)、音楽というこれまでの様式美が作り上げた体系という事です。つまり男を感じさせる音形、女を感じさせる音形があるという世界観が存在するのが西洋音楽なんですが、それは大衆・世俗音楽でも決して無視すべき側面ではないのです。何故ならそうしたポピュラー界隈の音楽とて、調性の長・短、和音の長・短による「明・暗」やら、陰陽、悲喜などの二元的なメリハリがある以上避けて通れぬものだからです。

 そうした音楽の二元性を楽譜はどの様にして伝えようとしているのか!?という事を事細かく書かれているのが本書なのです。しかも、本書の本文部分だけを読んでいると、非常に端的に説明されているそれに読み手の「既知と無智」の両方が弾みを付けて読んでしまいかねない程シンプルに語られていて、熟読をしないとスポイルさせてしまう危険性があるものの、本書の大変慮られている点は、脚注がとても充実しており、逐次脚注を読む事で読み手を深く首肯させるという、まるで入野義朗が嘗て『電気技術時代の音楽』にて、単なる訳者としての域を超えた訳注を付けたそれを追懐出来るかの様な素晴しい詳悉なる脚注に脱帽です。

 近年では先の入野以外の図書では全音楽譜出版社出版刊エルネ・レンドヴァイ著森本覚訳『音のシンメトリー』の様な親切さな脚注を思い出します。それほど『応用楽典 楽譜の向こう側』の脚注の細部に亘る解説は素晴しいのです。Amazonにて4つ星を付けている様な人は、おそらく脚注はおろか本文にもきちんと目が届いておらずとも取り上げられているそれが真性な物だから4つも星を呉れて遣る!と謂わんばかりの愚行で付けておりますね。愚かなレビューを鵜呑みにしてはいけませんよ(嗤)。

 アラ・ブレーヴェの在り方、ノート・イネガルにも触れており、発想記号に於ても普段なら見慣れない記号、それは他の図書でも割愛しているような項目でも述べられております。また、フェルマータの解釈についても、重要に取扱われております。曲の終始部にあるだけでは決してないのですが、ポピュラー界隈での「バンドスコア」を見慣れた程度の人であれば目から鱗やコンタクトレンズのみならず白内障ですらも落としてくれるほどの、曇り無き音楽に対する論考に深甚なる敬意を払い度いと思います。

 例えば、西野氏の注釈67にしたってこれは単に音律を俯瞰したりするものではなく、それどころか安易に共感覚をも示唆するものでもありません。


 というのも、私は今回の2014年度音楽関連図書の書評記事冒頭に於いて、人間の聴覚は元は魚類の側線から進化したもので、聴覚は触覚と同等の感覚から進化したという事を語ったのは記憶に新しいかと思いますが、「共感覚」などと安易に根拠も無く語ってしまうと、その能力の特殊性ばかりに焦点が当たってしまって、どうもそれが当てこすりの様にも感じさせやすくなるのです。しかもそうした辟易する気分を味わう側は概して「共感覚に乏しい」連中が感じるものなのです。

 扨て、「共感覚に乏しい」とするのは私の暗喩めいた表現であり、本来、聴覚が触覚から同等であった以上、人間の聴覚は触覚と近しいものでもあり、他の感覚と「リンク」するそれは決して特別な感覚とはいえない訳です。勿論、それは「色聴」とか、味覚や嗅覚ともリンクする強い共感覚保有者のそれとは雲泥の差があるとは思いますが、本来なら誰しもが有している筈なんです。

 というのも、音楽というのは調性もさることながら二元的な世界のメリハリ(調性など)を付けていても其処彼処に生ずるジレンマというのを大家が形式を倣いつつ修復して来たという歴史の流れを脈々と受け継いではきても、音楽の高度さにジレンマがより露になる様になる訳ですね。そこで己の主観が勝手に左右しないよう弁証法的に、哲学方面の力を借りて音楽を俯瞰してみたりしてきた訳です。
 
 すると、他方からは科学の発達により、他の学問からの発見や謎が色々と説き明かされる事になって、それまでは「神のみぞ識る」という目に見えないような事柄がどんどん明るみになってきた所で、ゲーテの色彩論があって、そこから時を経て生物の「進化論」があった訳です。その進化論の後にゲーテ生誕100周年の頃に色彩論の回帰があり、そこに「共感覚」が持て囃され、音楽の二元論と結び付いて大きな潮流となった訳です。その上で音楽的に新たな色彩感を求めようとする流れで十二音音楽や微分音音楽が生まれて来たという歴史を、先の西尾の注釈はそうした流れを「示唆」した上で、音を聴く事で色合いを感じる事が多い、という事は何も特別な感覚でもないと謂わんとしている事を読み手はきちんと理解しなくてはならないのです。

 処が、こうした方面の知識に浅い人に対してほんの少しの「共感覚」的な事でも言おうものなら、即座に胡散臭いとばかりにオカルトめいたそれを断罪してしまいかねないのであります。つまり、慮られた注釈のその背景をも判らずに、本文だけを惰性で読んでしまうと、音楽図書ばかり持っているのに知力がまるっきり身に付かないという人になりかねないのでありますね。そうした本にしない為にも脚注が細かいのであるのは明白です。

 加えて、音楽の習熟に浅い人は音楽という世界にはどこか原理主義的な真正さを己の生き方に投影させてしまう事で手前勝手な重み付け&価値付けを行なう事で、真正である事に敬意を払い過ぎる嫌いがあるのも確かです。純正律の礼讃など最たるモノです(笑)。処が、純正音程ばかりで音程を採っているとトンデモない事になるという事が本書の46頁にて如実に判ります。ほぼ四分音的な音程を生じます。鍵盤ではそれを「異名同音」として扱わざるを得ないでしょうが「異名異音」であるのは疑いのない所です。

 某大家が嘗て、ヘ短調の曲であるにも関わらず変種(=♭)の臨時記号を4つ割り振った作品がありました。ヘ短調というのは調号としてフラット記号が4つあります。その上で臨時記号として4つ現れるという事は調号で割り振られた音以外の音に♭が付く事というのが自ずと判ります。なぜなら、調号に割り振られた音が更に半音下がるとしたらそれはフラットではなくダブル・フラットとして表される筈ですから、フラットの臨時記号は自ずとそうなるのだという事は判りますね。すると、結果的には8つフラットが振られる事になりまして、つまり先の8つの変化記号とやらは、変ニ短調(! ※変ヘ長調の平行調)に於て「変ヘ音」が生ずる訳です。これはヘ音より微分音的(=四分音的に)低い事を示す事なのです。

 西尾の例のそれは、五分音に程近い微分音を生む事をも同時に示唆しています。最も重要な示唆は、音程を採るのに純正に採る事に躍起になり、異名同音が異名異音として微分音的にズレてしまう事の重大性を説いているのですね。

 これを適宜演奏中に修正しなければならない術を体得しなければならない、とヒンデミットは自著『作曲家の世界』にて取り上げている訳です。つまり、都度生じる微分音程の差異を覚知して奏することができなければ、人目に触れない様に、部屋の取り切れなかったゴミを女中が他の部屋にごまかしてうっちゃる様なモノだと述べている事でもあります。純正律礼讃者とやらは今一度、この陥穽とやらを目の当たりにする事で音楽を学び直して貰い度いと思うこと頻りです。同時に、音律面に於ても、本書と同時に溝部國光著『音楽音響学 正しい音階』および、今回取り上げたヘルムホルツ著『音感覚論』を読めば、相当な知識を得られる事は間違いないと思うので、こうしてレコメンドしてきた訳ですね。お役に立つことができれば幸いです。

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