So-net無料ブログ作成

木を見て森を見ず [たわごと♪]

 前回のデモ曲に於いて、最初の4小節に注力したと述べている事について今回はスポットライトを当てる事にしますが、「注力」という言葉の意味についてあらためて述べますと、その注力というのは自己顕示欲のアピールという側面とは全くの別物で、ポピュラー音楽の類では通常用いないであろうというコード進行の形式を忍ばせたモノでありまして、そうした部分をもっとも重要視してもらいたいという理由がある「注力」なのであります。


 ポピュラー形式のコード表記であろうと、その体系化の利便性に肖っている方は多い筈。ジャズなど知らなくともジャズ理論を知る事は可能ですし、ツーファイヴ進行を延々繰り返してジャムる事だって可能(笑)。そんな体系化の利便性を手に入れた人達の多くはまるで、鬼に金棒の様に振る舞っているかもしれません。音楽という難しさから体系化を学ぶ事で拓けて見える2回目位の壁の突破が概ねこういう状況ではないかと思います。器楽習熟度の壁はまた別にありますけどね。


 今回のブログ記事タイトルにもある通り、「木を見て森を見ず」という類の人は本当に多いモノです。音楽という、本来なら感覚的なやり取りだけで済ませたい方面についつい興味を持ってしまったが故に難局に遭遇する事もあってソコが音楽の厳しさで受け入れ難い所だったりもします。そんな壁を突破するには習得しなくてはならない物が発生するので、これを忌避する人はその後音楽を「感覚的」に語る程度でしかやり過ごせなくなってしまうのです。何を形容するにも全ては文語的な表現任せで本質を捉える事などないという。

 複雑な和音が響く様を形容するとすれば、色んな表現や熟語など並べて文才を発揮したとしてもその和音がどういう姿なのかという実体を捉える事は不可能だという事を私は言いたいワケですね。

 楽理方面を皮相浅薄乍らも知っている方ならコード表記の体系位はお判りの事でしょう。しかし乍ら言葉に拘ってしまう類の人はそういう所も実は学んでいなかったりするので、器楽的な理解があればすぐに理解できるモノでも仰々しい言葉の羅列やら、感性的な表現に終始してしまうのが関の山なのです。


 音楽というのは「音」に対する共通理解があってこそ初めて語れるモノなのです。楽譜だって実音の音の成立からすれば「うわべ」しか捉えていないモノでもありますが、「共通理解」が根幹にあるので、実体を僅かにしか捉えていない表記だとしても共通理解が下支えしてくれるワケであります。

 ところが文語的な表現でしか音楽を語る事のできない連中は、音楽を語る上での共通理解を持たずに文学的な語法を音楽に持ち込もうとするだけで決して音楽界の共通理解を採り入れようとはしません。おそらく、自身が見聞きする音を言葉に表現する際の「言葉巧みな語彙」を発生させる事がその手の人達の「嗜み」であって、これは本来は音楽を吟味する事とは違う感性なのでありますね。おそらくやこの手の人達は、器楽的な方面の共通理解を身に付ける事で従来の文語的語彙の感性が阻害されてしまうのでないかという尻込みから来る心理と、自分可愛さの保身の心理が働いて悪循環に陥っているのではないかと思うんですな。


 つまり、私が声高に語っているのは、音楽における器楽的な共通理解を蔑ろにしたままでは音楽など絶対に実体を見付ける事は出来ないのという事なのです。自分可愛さで自分の感覚こそが全てと思っていて他の共通理解を寄せ付けないのであるのは、音楽理論はおろかチューニングすら覚えようともしない愚かななんちゃってミュージシャンと大差ないワケですな(笑)。自身に備わっていなかった能力のひとつ「共通理解」を新たに身に付ける事が怖いのでありますね。それを身に付けて元の感性とやらが阻害されてしまう様な感性など所詮その程度だったのだと自分自身を貶める事はしないのです。自分が可愛いから苦労をする事を拒むのですね。


 ブログなどネット環境があれば誰でも書き込めるワケで、音楽の共通理解の為の語法など持っていなくとも言葉巧みに皮相的に語る事は簡単ですわ。まあ、それを信条とする人達に言いたい。そうした感性とやらで次のコードをどうやって区別・表現するのか、と。


◇マイナー9thコード
◇マイナー・メジャー9thコード
◇ドゥアモル和音
◇オーギュメンテッド・メジャー7thの2度ベース
◇ディミニッシュト・メジャー7th
◇ペレアス和音



 扨て、彼らの殆どはこうした和音の成立での音楽界での共通理解を知りません。和声体系化のための枠組みを知る人も殆ど居ないでしょう。居たとしたら、こういう事を知る事が出来た人は文語的な表現で終始する事をやめてしまう(馬鹿馬鹿しい)からであります。


 「陰鬱な響き」「茫洋とした響き」「逡巡するかの様な」「刺々しいほどの鋭さを備えた音」「卒倒感のある」


 いやいや、こんな言葉を用いていくらこねくり回しても和音の実体を披露する事は永遠にありませんよ。語彙を使い尽くす事など有り得ないでしょうから幾つもの表現の多さに凭れ掛かっているだけが関の山じゃないですか(笑)。前述のコードだけでもいいから、御託並べるヒマあったらそれらのコードを区別してキッチリと表現して貰いたいモノですが、おそらく不可能でありましょう(笑)。


 読譜を始めとする音楽界に必要な「共通理解」を身に付けたとしても、今度は「聴こえて来る音」という現実に遭遇しなくてはなりません。和音そのものが複雑な響きで自身に備わった音楽的語彙では処理しきれない類の和音への遭遇です。


 そうすると、折角和音の体系を学んで理解しようとも、おそらくや唯単に自身の拙い音楽的語彙の前にあっさり登場してしまった複雑に集積された和音の響きに圧倒されて捉えきれずに「汚い不協和音」という程度にしか読み取る事ができずに、結果的に「言葉」に頼っていた頃の感性を再び思い起こす事になって、次のステージに進まないのであります。

 音楽がある程度の体系に収まると同様に、そうしたシーンに遭遇する人もある程度体系化できるのであります。器楽的習熟を高めて来なかった人や和声的感覚を磨く事に希薄な人達など、器楽的な心得がある人間からすれば多数見て来たワケですから、こうしてある程度体系化できてしまうのであります。故にきちんとした器楽的な心得がある人は、無責任な、言葉の方でしか語る事の出来ない評論を毛嫌いしたりするのであります。


 ネット社会が徒に成熟してしまった事で本人を騙って発言してみたり、有名人や偉人の言葉を借りてさも自身の発言の様に発信してみたり、ネットでは色んな声を見付けたりする事が出来ますが、私が今現在7年ほどブログにネタを献上できているのは、音楽への方面を語れるネタを有しているから他ならないと思っております。


 厄介なのは、きちんとレコメンドして紹介したそれを唯単に論う様にして扱ってしまう所。

 例えば、本来なら尊重しなくてはならない筈の物を理解も進まぬままに引用・借用をして論い、いつしか自身は同様亦はそれ以上の理解と咀嚼が進む様になると信じ込んでしまう人間も居るのが悲しい側面でもありますかね。同じ本を読んだり同じニュースをテレビで見ようとも感想が人夫々異なる様に、人というのは何処を向いて理解しているのか千差万別である筈なのに、今度は「共通理解」さえあれば皆同じ感覚や感性を共有できるのだと錯覚してしまう人が居るワケですね。そんな事言った日にゃあ、松平頼則の近代和声学が刊行されてから半世紀以上経過するのに、そうした傍証をきちんとした和声の感覚を伴って新たな傍証をする様なブログとやらに遭遇した事ございますでしょうかね!?(笑)。近代和声学読んだだけで感性も一緒に手に入れられると思ったら大間違いです。


 つまる所音楽という物に対しては、聴き手があらゆる言葉を駆使して表現しようとする以前に、その社会を形成している共通認識(=楽譜など)の存在を軽んじてはいけないのであります。楽譜への読譜ばかりではない音楽への共通認識とやらへの理解が必要だという事を意味していて、それは読譜が必要とされない場面に於いてでも、共通認識として知っていれば充分の音楽的な語句などもそれに含まれます。和音を形容する際に体系化されたコード・ネームなどもそうした共通認識に含まれます。



 然し乍ら、共通認識が有る者同士のコミュニケーションに於いては亦別のハナシでして、共通認識にプラスしてそれとは亦別の文語的な表現を駆使するという事は「共通認識を理解した後で必要とする」音楽への尊大なる敬愛を伴うボキャブラリーを駆使して用いる言葉なのであるので、そうした行動を共通理解が及ばぬ者が真似しようとも無理があるというモノです。

 共通認識を習得する事は少々骨が有るからと言って等閑にしておいて、言葉巧みな方を音楽に持ち込んでしまって荒唐無稽に文語的な表現でアレコレと語句を並べて音楽を語ろうとも、そんなのは自身の主観の押し付けでしかないのです。共通認識が無くとも有る程度の文語力を発揮すればソコソコ読み手の心を掴む事は可能ですが、音の本質を掴んだ表現ではないので結果的に読み手も徒労に終わる事となり、そんな書き手に騙された読み手の双方は怠惰の連鎖に陥っているだけにしか客観的には映らないのです。どちらも無駄足なで本質を捉えていないのです。おそらく両者の大半は捉えているつもりで悦に浸っていると思いますが、本質を捉える事を履き違えてはなりません。


 香りの素という元の分子は800種類ほどしか無いようです。これらが組み合わさって何十万種類という「香り」が世界的に登録されているモノです。十二平均律の場合、和声など遥かに少ない種類ではあるものの、種類だけでは片付けられないやり取りも存在します。

 皮相浅薄な連中というのは響きを覚える前にとっとと詰め込み型として和声の分類を知りたいだけなんですね。響きへの欲求が全く無いのです。響きを聴いた所で未習熟な耳や脳は拒絶するのが関の山で、美しさを見付けてこれないのですね。著しく厳しく鋭い不協和音の類でもそれに慣れた人というのはあらゆる振動にも対応できる船乗りの様なモノかもしれません(笑)。大半は凪いだ水面でしか音を聴くことができない様なのが器楽的な共通理解を等閑にして言葉巧み騙っているだけなのが関の山なので、そういうのに惑わされる事なく音楽を聴かなくてはならないのでありますよ。そんな連中から「音楽理論覚えて何の役に立つの?」と言われようモノなら「本質判らないヤツが何言っても無駄」と言い返してやればイイのです。本質の判らぬヤツが何の役に立つのか、是非とも連中の感性を発揮して自問自答して語ってもらいたいモノであります。


 必ずしも読譜を必要とする事が共通理解というワケでもありません。そうした器楽的心得がなくとも多くの人が知る作品を見聴きするだけでも共通認識と差異は生じるワケで、それを論ずる事が可能となります。つまりは見て聴いて、という行為そのものをきちんと言葉にすればまだしも、表現しにくい所までも背伸びして表現しようとしてしまうから胡散臭くなってしまうワケですね。共通認識を持たない人が語ろうとも無意味なのはそういう所に表れるのでありますね。


 そうした事を踏まえた上で、和声の高みとやらを吟味していただきたいと思うワケで私はあらためて前回のブログで用いた、どうでも良いくだらない曲であっても冒頭4小節の和声進行での拘りを忍ばせていたワケでありますね。初音ミクが唄っていれば何でもイイという変わり者も居たりするでしょうし、初音ミク使ってもこの程度かと罵る人も居るとは思いますが、食い付く所が全く違うという事を態とやっているのだけはご理解くださいね(笑)。

teihqtsu03.jpg


 で、今回新たに提示する譜例ですが、理論書の類の様に夫々の和声は小節線を与えていない物の、変化記号は各和音のみ有効の表記(全音符がそれを示唆する)なので、左から右に和音を映して「臨時記号の有無」に混同されぬようご理解のほどを。しかし多くの理論書と同じ手法なので迷う方はいらっしゃらないと思いますが念のため。


 扨て、今回例に挙げた「1と2」のコードに先ずは注目してもらいたいのですが、冒頭の「F#m9」の3rd音から9th音までの上四声は、次の和音に「掛留」(=ペダル)になっているという所に注目していただきたい部分です。掛留すなわちペダルという事は同じ音を持続させている結果です。


 「2」のコードはドゥアモルなので、本来ドゥアモルの表記は三度音程同士で表記するのが望ましいので実際には「Fメジャー + D♭マイナー」という風にした方が望ましいのでありますが、D♭マイナー=C#マイナーすると、前のコードとの「掛留」が見えやすくなるので敢えてこういう表記にしているのであります。

 つまり、2番目のドゥアモルで生ずるF音は、直前のF#から半音下がった「クリシェ」として見立てる事も可能なのですが、根音がクリシェしているかの様に見せかけて、その下に更に和音を重畳させている手法と言えるワケです。F音の3度下=D♭=減四度のC#という重畳です。


 こうした掛留と半音若しくは全音の各和声構成音の連結を見ると、次以降の和音の連結がどのようになされているのかという事がお判りになるかと思います。

 つまり、1~5の和音というのは私が徒に羅列しただけの和音ではないという事をお判りになっていただければ幸いなのでありまして、こうした和音に対しての唄メロがどういう風に構築されていたのかという事をあらためて思い起こしていただければ亦幸いです。初音ミクなんぞどうでもイイんです。重要なのは各和声の連結です。


 
 この5つの和音を見ても、ポピュラー音楽界隈でなかろうとジャズ方面であろうとなかなか遭遇しない和音の体系を見る事ができると思います。バイトーナル和音が混ざっているから余計に奇異に捉えられるかと思います。但し、奇異なコードもこうした脈絡で直ぐに呼び出す事ができるのだという事をあらためて知っていただければ宜しいかなと思います。ドゥアモルはまだしもペレアス和音ならば、近年ではマイケル・フランクスのアルバム「Time Together」収録の「Summer in New York」にもあった様に、私のブログでもブログ内検索をかけていただければ2011年の夏にそうした実例とレコメンドがありますのであらためてお読みいただいた上で実例を知っていただければ幸いです。

共通テーマ:音楽

Facebook コメント