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特殊な記譜 [楽理]

 祝サッカー日本代表ブラジルW杯アジア最終予選通過!というめでたいニュースの後にこうしてブログを書こうと思うのですが、今回は少し趣向を変えて楽譜の一部の特殊な記譜という側面を語って行こうかと思います。


 五線譜を読めないという人も少なくはないと思いますが、おそらくそれは解釈する事に時間を要するだけで時間を掛ければ読む事ができるのでありましょうが、文字を目にして脳内でパッと閃いてくれる置換の作業が遅い事で、それを「読めない」と解釈している人が多数なのではないかと思います。或る意味では絶對音感を持つ人というのは、先述の様な「閃き」が、音を聴くと何の音の名称か!?という置換の作業が即座に行われているだけに過ぎません。絶對音感というのはそういうモノです。


 こうして繙いてみると、時間を掛けさえすれば五線譜を認識する事は可能となる人は多くなるでしょうが、五線譜を読む事を苦手とする人は色んな思いを抱えているでありましょうが、楽譜という体系が自分の尺度に合っていない事に起因しているのではないかと思う事しきりです。例えば、五線譜上では音符は左から右に読む事で時間は左から右に流れているという前提そのものに疑問を抱いてみたり、なんで五線でなければならないの!?だとか、もっと読みやすい体系をもしかすると楽譜を読めないと思っている人こそ新たなヒントが隠されているのかもしれません(笑)。でも、こうした体系の変化は決して笑い事ではなく、iPadやiPhoneのマルチタッチ・ジェスチャーという操作体系がその後爆発的に取って代わった事を鑑みればポピュレーション・ステレオタイプの在り方という物の重要性に對して改めて痛感させられる事でもありまして、五線譜という音樂の体系という物も必ずしも有識者ばかりから発展する譯でもないのではないか、と思うばかりです。


 DTMやDAWという環境がある程度認知される様になった今日、なんだかんだ言っても音符の入力形式には五線譜を基にして左から右に時間が流れる「ピアノロール」と呼ばれる入力インターフェースが用意されたりするモノですが、歴史を遡ればそもそもピアノロールという物は「自動ピアノ」という嘗ての骨董品の様な楽器からヒントを得ているモノなのでありまして、決して音樂シーケンサー・ソフトの誕生に依ってそうした入力インターフェースを操作者が強いられているモノではなく、遥か昔からそうした「自動ピアノ」という所からのアイデアが基になっているという事を先ずは理解しておく必要もあるかなと思う譯です。


 「ピアノロール」の原型というものは、或る意味では反物上に紙が巻かれていて、その紙には点字の様に穴が開けられていている譯ですが、これらの穴の位置というのはピアノを自動的に弾かせる為の音高とタイミングを決める周期的な配置となっていて開けられていて、喩えて言えばオルゴールの様なモノでもあるワケですね。こうした反物の様なピアノ・ロールを色んな做品用に取っ替え引っ替えする事で、いつでもどこでも名做を自動で聴く事ができますよ、というのが自動ピアノな譯ですが、シーケンサー・ソフトをごくごく当たり前の様にして使うだけの人の多くは、こうした背景を知る人は少ないのではないかと思います。


 とはいえ、今後の音樂に於ける譜面の在り方という物がどういう物に取って代わろうとするのかという事を考えてみると、従来の体系を全く利用する事なく置き換わるのは難しいモノでもありましょう。とはいえ今日知られている「五線譜」というのは現在永い事「五線」が使われているだけで、旧くは、五線以上の線で用いられたり、それこそ現代音樂の世界では特殊な線の數で用いられたりする事も珍しくはありません。特に現代音樂というのは、既知の調性システムから反駁の様に作り上げられる事も少なくないため、数オクターヴに渡って7つの階名を表現する事が「圖形的」にもバランスの取れた体系が採用されていて(ヘ音記号に下加線2本を付加してト音記号に上加線を2本を付加すれば4オクターヴに渡って音域を俯瞰する事が可能)、4オクターヴを調的に見つめる事と、4オクターヴ内を調性など無関係に微分音も平たく見渡す事が重要とされる音樂では楽譜の在り方も異質な物が用いられる事が必然でもあったりもする譯ですね(笑)。


 加えて、一般的な楽譜に對する共通理解があった上の事で、一見すると譜面上の音符からは事細かには表記されていないリズミックな方面の「表現の揺さぶり」という物は、言葉で与えられていたりもする物でもあり、楽譜には見えない音樂の「揺れ幅」を追究する側面もあったりして實に興味深いモノです。同じ楽譜を異なる奏者が読んでも表現に違いが出て来るモノでして、通常の枠組みに於ける楽譜の共通理解でもこうした人間味のある「差異」を生むのでありますね。


 現代音樂では「ffff=何dB!!」という風に厳密に決める物もあります。音の再生装置や、社会に蔓延する音の大きさという物を踏まえた再現性の徹底性を追求する事でこうした註釈が与えられたりする事も珍しくはありません。楽譜というのは共通理解が備わった上でのこうした特殊な記譜という物はとても興味深い側面があったりするという事を踏まえて本題に移ろうかと思います。譜面としての表現ではなくとも、先日、テレビ放送の音声の大きさ(=ラウドネス)が規格化されたというのも、社会通念的に全ての人が共通する音の大きさを定義して規格化しているという事でもあり、こうした「釣り合い」を取るために音符としては表れていない「秩序」という体系の恩恵に肖っているのもあらためて實感するのも興味深い事ではないでしょうか。




 ポピュラー音樂に於いては、記譜そのものが本来は特殊であるのに目に触れる機会が多くなる事で共通理解が高まる表現もあったりしますが、その最たる例がシャッフル表記の類でありましょう。シャッフル表記とは、本来なら連桁で繋がる音形は平準化されたリズムであるのですが、「バウンス」というハネた感じを齎す事で使われる表記だったりします。そうした表記は次の様な例で楽譜冒頭の註釈として併記され、五線内で生ずる通常の「平準化」された連桁がバウンス=跳ねたリズムとして解釈するのであります。
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 しかしこうしたバウンス感というのは時に、楽譜上に於いてやたらと杓子定規的なノリになる事も少なくなく、表現に幅のある人であればあるほど楽譜の指定を嫌悪したり、亦は楽譜の指定にもっと精度を求めたりする人も出て来ます。そうした流れで、仮にバウンスという表記を従来の枠組みを跳越して追究すると、どのような表記に成るのか!?という例を出すのが今回の本題でありまして、坂本龍一のソロ・アルバム「千のナイフ」収録の「Das Neue Japanische Elelktronische Volkslied」という曲を例に挙げようと思います。


 坂本龍一本人がどの様にして演奏していたかは判りませんが、私は嘗て「Das Neue Japanische Elelktronische Volkslied」のコピー曲を披露した事がありまして、この曲の制作時に適用した事に基づいて今回語る事にするのですが、抑もこの曲、ベースの8分音符のリズムはほぼ平準化されている(ステレオパノラマを思い切り左右に振り分け)のに對して、主メロディーは少しハネた8分音符で終始弾かれている事が判ります。しかもバックには所々林立夫と思しきリム・ショット系のSEが5連符のリズムで絡んでいたりもします。

 これらのリズム表記は楽譜で指定すると少々難儀するモノなのですが、私が制作した時、メロディー部は次の例のex.1の様にバウンスさせているのであります。
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 このリズム譜例の下声部はベースの8分音符の平準を示唆しているのですが、上声部は見慣れない表記だと思います。連桁から飛び出るかの様に突き出る直線的な符鉤(ふこう)として左角には鈎が伸びて比率を示す数字が併記されていますね。この延長された鈎について少々語るとしますが、これは私が手前勝手な解釈で徒に特殊な表記を表現しているのではなく、出自はアンリ・プッスールにヒントを得ているモノであります。


 プッスールは先の特殊な符鉤に数字的な比率を併記はしておりませんが、符鉤の角度を変えて記譜したりします。この鈎を併記した連桁というのは、連桁の次の音をバウンスさせる為の狙いでありまして、そのバウンス加減が通常の体系ではないバウンス感に曖昧さではなく精度を求めた表記なのであります。


 仮に8分音符1つと16分音符1つを連桁で繋げれば、それらの音価は「2:1」というリズムなのですが、或る意味では付点8分音符1つと16分音符1つを連桁で繋げたものは「3:1」であるとも言えます。それらと同様に、プッスールの指定する物はもっと厳格な不等分な物であり、私はそこにヒントを得て比率を併記させいるのであります。


 そこで先の譜例に戻ると、私は「13:11」という比率を与えております。これは四分音符の音価が「24」という長さを持っていたとすると、連桁の最初の符頭の音価は13、連桁のケツの音価11という事を示していて、私の制作時の音価もこれに則って打ち込んでいる、という譯です。

 言い換えるなら、先の林立夫の5連符もプッスールの様な符鉤を用いて表記すると次のex.2の様なリズムに置換させて表記できるという事ですね。
02DasNeueJapanische_RS.jpg


 先述した様に、坂本龍一本人がどういう風に制作したのかまでは判りかねますが、主旋律がバウンスしているのは判りますし、そのバウンスに与えられる物は私のそれとは實際には違う可能性もあるかもしれませんが、再現性を重んじるという狙いで私は記譜を重んじて特殊な表記で記譜をするという手段を講じた譯でして、それが坂本龍一本人の演奏との實際に違えど「乖離」していない物でないという事を理解してほしいと思います。精度を慮るのであれば左近治は坂本龍一と同じリズムの解釈をする筈だ!と決め付けられてしまうのは問題があると思うので、理解に混同されぬ様、私の言う所の譜面上で指摘する「精度」と、坂本龍一本人の演奏の「精度」とは同列ではないので、その辺りはご容赦を。

 楽譜上で精度を限りなく追究して、その精度を表記したとしても出て来る音にはある程度の差異感は生ずる事を「期待する」のが私の意図する事でありまして、私が精度を追究するならば原曲と同じであって然るべき!という考えを持たれてしまうのは早計ですよ、って意味ですね(笑)。但し坂本龍一の原曲を聴いて、主旋律が単純な8分音符だと理解してしまう様であってはいけないという事は精度を欠いているという事ですね。

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